第三十五話 選んだ手
夢を見ている。幾度となく見てきた夢だ。
「行かないで!行ってはダメよ!…林臣様…逃げて…遠くへ……」
ハアッッ!!
涙が耳元を流れ髪を濡らしている。天井には明るい陽射しが差し込み何かを反射しているのかキラキラとした光りが小さく揺れている。外からチュンチュンと鳥のさえずりが聞こえた。
…ここは、どこだろう…
穏やかで温かな日差しを受け再び目を閉じた。
また同じ夢…やっぱり林臣様だった…あぁ胸が痛い…すごく苦しい…あれ?…私、百済大寺で刑を受けて…そのあと…
「り、林臣様!」
叫び声と同時に目を見開いた。すぐに廊下からパタパタと走る音が聞こえ、カタカタと部屋の戸が開いた。キシッ、キシッっと足音が近づき、目の前に不安げな顔の猪手が現れた。
「と、燈花様!お気づきになられましたか!良かった…」
猪手は大きく息を吐き涙を浮かべている。訳が分からないまま起き上がろうとすると背中に激痛が走った。
「痛っ…」
「いけません燈花様、背中に怪我を負われているのです。起きてはなりません。傷口が開いてしまったら大変です」
猪手は慌てて言うと、私の体に手をあて再び布団に横たわらせた。
「ここは?」
「若様のお屋敷です」
「林臣様のお屋敷?」
「さようでございます。刑が終わったあと若様が燈花様を抱えて連れて帰って来られたのです」
「えっ?り、林臣様は、どうなったの?ご無事なの⁈どこにいらっしゃるの⁈」
気が動転していたがとにかく彼の無事を確かめたかった。
「別室で治療されているのですが…その出血が酷く状態が思わしくないのです…」
「そ、そんな…」
私は背中の痛みをこらえてながら起き上がるとフラフラ歩き始めた。あの人に会わなくちゃ…
「と、燈花様なりません、丸二日も寝たきりの状態だったのです。もう少しお休み下さい。若様ならきっと大丈夫です、じき回復されるでしょう」
猪手は私の体を支えながら必死で引き留めた。
「お願い、会わせて頂戴…お願いよ…」
私は力を振り絞り、猪手の袖をつかんだ。
「と、燈花様…」
私があまりにも心痛な表情をしていたのか、猪手はあきらめたようにため息をつくと押えていた手を離した。そして私の体を支え直し一緒に歩き始めた。
「足元に気を付けてください。ゆっくり歩いてくださいね」
部屋の戸を開けると明るい陽ざしが差し込む長い廊下に出た。私は猪手にもたれながらゆっくりと廊下の奥へと進んだ。突き当りまで来ると、猪手が手を向けた。
「こちらのお部屋です」
ガタガタガタ、
猪手がゆっくりと部屋の戸を開けた。淡い陽射しの中で、林臣が青白い顔でうつぶせで横たわっている。体に巻かれた布が赤い血で染まっていた。
り、林臣様…
彼を見た途端に次から次へと涙が溢れた。私は静かに横たわる彼の隣に座ると、青白い顔をそっと撫でた。血が通っていないかのように冷たい…
私の代わりに刑を受けこれだけの深い傷を負ったのだ。痛々しい姿に目をそらした。
「出血は止まったのですが、意識が戻らぬのです…」
戸の側でじっと様子を見守っていた猪手がポツリと呟いた。
「林臣様…、どうして…なぜいつも私をかばうの?いつも…いつも…私の事を陰で守るのはもうやめて…」
私は彼の手を両手で包み込むように握り涙声で叫んだ。
「愛しておられるのです。若様がこれほどに人を愛おしく思われるお姿を、今まで一度たりとも見たことがありません。命を懸けてでも燈花様をお守りしたかったのです。側近の私ですら、若様の燈花様への愛がこれほどまでに深いとは知らなかったのです……」
猪手が涙を拭いながら言った。
あぁ涙が止まらない…全身の水分が全て涙に変わっていくようだ…
溢れる涙がポタポタと床に落ちた。
静かな部屋の中で二人のすすり泣く声がいつまでも響いた。
翌日、背中の傷の痛みも大分ひき一人で歩けるようになった。朝一番で彼の部屋を覗いたが意識はまだ戻っていない。
「林臣様、大丈夫かしら…」
私は幾度となく猪手に尋ねた。
「丈夫なお方です、きっと時期回復されます。毎日医官も診察をしては薬を煎じてくださっておりますので、もうしばらく様子を見ましょう」
猪手がなだめるように言ってくれたが、私の心は不安でたまらなかった。
「では、新しい布を用意するわ…」
私が力なく答えると、
「燈花様もまだ傷が癒えておりません。無理をして燈花様に寝込もれても、若様が心配いたします。屋敷の使用人がおりますのでおまかせください」
猪手はそう言い私を休ませようとしたが、正直自分の事などどうでも良かった。彼に生きて欲しい…ただただそう願った。
「今まで幾度も林臣様に助けられたのよ、恩返しがしたいし、それに…側にいたいのよ…」
「お気持ちはわかりますが…」
猪手は戸惑いながら答え頭をかいた。
ザッ、ザッ、ザッ
庭から足音が聞こえ、屋敷の玄関に門番の男が現れた。
「猪手様!猪手様!」
男は大きく声を張り上げている。
「どうしたのだ?若様の意識がまだ戻っておらぬだから静かにせよ」
猪手は静かにしろ、というように手を大きく上下に振りながら戸口へと向かった。
「はぃ、すみません。急ぎ来たものですから」
男はバツが悪そうに頭をポリポリかき顔を赤らめた。
「で、どうしたのだ?」
「実は、今屋敷の前に山代王様がおいでなのです」
「や、山代王様が⁈まことか⁈」
猪手は驚くと振り返って私を見た。
「へい…燈花様を迎えに来たとおっしゃっております」
「な、なんと…」
猪手が気まずそうに私を見て下を向いた。
「山代王様がおいでなの?」
私がもう一度門番の男に尋ねると、
「へぇ…神妙なお顔をされていて…」
彼もどう対応すればいいのかわからないのだろう、腰を曲げもじもじと指をいじっている。
「…すぐに行くわ」
私はそう言うと猪手の顔を見て軽く頷いた。
ザ、ザッザッ、ザッザッザッ
門の前をゆっくり歩く山代王の後ろ姿が見えた。少し離れた所で冬韻も立っている。二人の姿にとても気まずさを感じ、少し痩せてしまった王の背中に胸が痛んだ。
「山代王様…」
「燈花!!無事であったか…」
山代王は私を見ると駆け寄り肩に手を置いた。
「体の具合はどうだ?大事ないか?」
「はい、だいぶ良くなってきました」
私が答えると、
「全て私の不徳のせいだ。本当にすまなかった」
山代王は悲しそうに微笑み私に詫びた。数日間で伸びた無精ひげがどれほど私を心配していたかを物語っている。
「いえ、王様のせではありません。全て私が起こした事、私の責任です」
心からの言葉だった。あなたのせいではないと心底伝えたかった。安心させたくて私は彼を見て無理やり微笑んだ。
「燈花…とにかく、そなたの姿を見て安堵した。あの晩、小彩から話を聞き、翌日大寺で林太郎の話を聞いた。すぐに来たかったが、色々あってな…」
王はひとまずほっとしたのか口元を少し緩めたが、すぐに寂し気にうつむいた。
「で、林太郎の意識は戻ったのか?」
「いえ…まだです」
「さようか…、此度は林太郎に大いに助けられた。大唐から実に希少な良薬を取り寄せたゆえ、医官に持たせる」
静かに近づいて来た猪手が私の少し後ろに立ち王に向かい拝礼をした。
「猪手よ、此度はすまなかったな。私の不徳のいたすところだ。この恩は決して忘れぬ、後でしっかり礼をするゆえ。さぁ、燈花、私の屋敷に戻ろう」
山代王は優しく言い私の手をとった。私は少し間をおいて答えた。
「…はい。ただ、今から医官が来て林臣様の傷口の手当てをするので、それが終わった後でも構いませんか?」
「もちろんだ」
王が快く返事をすると猪手は二人を客間へと案内した。
私が厨房に着くとすぐに玄関付近が騒がしくなり、パタパタと廊下を歩く音が響いた。きっと医官達が到着したのだろうと思い、急いで竈に火を焚きお湯が沸くのを待った。
沸いたお湯を桶にいれ部屋に運ぶと、医官らしき男が林臣の手首を持ち脈をとっている。彼は手首を離すと今度は大きく息を吐き首をかしげた。
私は治療の邪魔にならないように静かに彼の少し後ろに座った。医官の男は髭が生えた顎を手で触りながら何かを考えるように天井を見上げている。そして、
「おかしいな、なぜだろう?まぁ、ひとまず包帯を変えるか…」
と言いこちらを向いた。懐かしい顔と目が合い驚いた。
「玖麻様?」
私が驚きながら言うと、彼もまた目をパチパチとさせ口をポカンと開けた。
「えっ?燈花様ですか?な、何故あなたがここに…」
彼は少し体をのけぞらせながら私を上から下まで見た。
「事情があって…」
私がためらいがちに言うと、
「さ、さようでございますか…」
とだけ言い、何かを察したのかそれ以上追及してこなかった。
私は、慌てて彼の状態を尋ねた。
「林臣様はどうでございますか?」
「えぇ…それが…脈が非常に弱いのです。あらゆる手段で治療しているのですが、なんというか生きる気力がもはや残っていないような……なんとも…」
玖麻は顔を曇らせ下を向いた。
「そんな…どうかお助けください」
「さきほど、庭で山代王様にお会いし、大変希少な滋養強壮のある生薬と薬草をいただいたのです。それを煎じて飲めば症状が回復するかもしれません。すぐに取り掛かりますので…」
「私も手伝います」
「しかしこの生薬は絶大な効果がありますが、煎じ方が特殊で複雑なのです。何時間も火加減をみながら適切に煎じないと効果どころか毒にもなりかねません。大変根気を要する作業でございます、医女も幾人か連れてまいりましたのでおまかせください」
「いいえ、私もお手伝いいたします」
一歩もひかない頑なな私の態度に根負けしたのか玖麻が渋々頷いた。私はそのあと山代王が待つ客間へと急いで向かった。
「山代王様、申し訳ありません。明日もう一度迎えをよこしていただいてもいいですか?」
「構わぬが、どうしたのだ?」
「王様が取り寄せてくださった薬を煎じるのに、人手が足りぬのです。林臣様に此度のお詫びも兼ねてお力になりたいのです」
「そうか…わかった。では、また明日迎えにまいるゆえ」
「感謝いたします」
私がお辞儀をすると、山代王は立ち上がり冬韻と共に帰って行った。
私は門で二人を見送ったあと急いで裏庭に行き、玖麻の指示通りに医女達と薬を煎じ始めた。彼女達と交代し合いながら夜通し火を見張った。翌日、日が昇り出した頃ようやく煎じ薬が作り終わった。玖麻は蓋を開けると匂いを嗅ぎ、指でひとなめし調合具合を確認した。
「どうですか玖麻様?」
私が急かすように尋ねると、
「はい、私の記憶が正しければこれで間違いないはずです。少し置いて煎じ薬が冷めるのをまち人肌になったら、林臣様に飲ませましょう」
「はい…」
私は大きく息をはき、縁側にへたへたと座った。良かった。ひとまず、無事薬は調合できたらしい…私は昇る朝日を見つめ祈った。
どうか、この薬が効きますように…
そのまま昇る朝日を見ていた。煎じ薬が適温になったところで慎重に部屋に運び、林臣にゆっくりと時間をかけて飲ませた。
呼吸はしているのに…もし、このまま彼が死んでしまったらどうしよう…
震える手を必死で押えた。
「ひとまず、薬はお飲みになられたので、様子をみましょう。あと一刻ほどしたら、同じように飲ませてください」
玖麻がぐったりと疲れ切った表情で言った。
「玖麻様、ありがとうございます」
私が深くお辞儀をすると玖麻は力なく頷き、医女達をつれて屋敷を去った。
「燈花様、一睡もしていないのですから王様の迎えが来るまで、お部屋でお休みください」
猪手が心配そうに言ったが、
「いいの…」
私は横たわる林臣の隣にしゃがむと、一瞬で深い眠りに落ちた。夢の中で、誰かが私の頬を優しく触っている。温かい手の温もりを感じていた。
「燈花様、燈花様起きてください」
猪手にゆすられ起きた。
「燈花様、王様の馬車が到着いたしました。門でお待ちです」
「わかったわ…」
彼はまだ深く眠っている。
「猪手、玖麻様に言われた通り薬を与える時間を間違えないでね…」
「はい…燈花様…やはり、行かれるのですね…」
私は何も答えずに下を向いた。
「林臣様は必ずや回復されるから大丈夫よ」
私は力強く言い猪手を見た。
「燈花様…」
「任せたわよ」
私はそう言い立ち上がると門へ向かった。門の前では冬韻と別の臣下が立ちこちらを見ている。
「燈花様、王様は急用が入りましたので、本日は私がお迎えにあがりました。後宮にて王妃様がお待ちです」
私は冬韻に向かい頷き馬車に乗った。
ヒヒーンと馬の鳴き声と同時にガタガタと馬車が動き始めた。猪手は門のそばでずっと立っている。馬車が坂下の林の陰に入りようやく彼は屋敷の中へ戻った。
猪手はとぼとぼと屋敷に戻ると、煎じ薬を持って林臣の部屋の戸を開けた。
「さぁ、若様、煎じ薬を飲みましょう」
寝ている林臣の隣に座り小声で言うと、林臣が目を開けぼんやりと何かを見ている。
「わ、わ、若様⁈お気づきになられたのですか⁈猪手です!お分かりになられますか?」
驚いた猪手が興奮しながら尋ねると、林臣は横目で彼を見て小さく頷いた。
「良かった!!本当に良かった!!」
安心した猪手が涙をぬぐっていると、林臣が小声で呟いた。
「燈花は…行ってしまったか…」
「えっ⁉︎…そ、それが…若様…」
猪手はおどおどと答え下を向いた。
「…もう少しだったのに…」
林臣は深いため息をつき再び目を閉じた。
後宮に着いた時にはもう日が傾いていた。とても疲れていたので、馬車の中では死んだように眠った。こんなに深い眠りについたのはいつぶりだろう…
「燈花様、起きてください。後宮に着きましたよ」
冬韻に何度か声をかけられ、ようやく重い瞼を開けた。
「え、ええ…」
何日振りに帰ってきた後宮だろうか、随分と離れていたような、遠い昔の記憶のように思えた。門の横に小彩が立っているのが見えた。
「と、燈花様~ウッウッウッ」
私の姿を見ると彼女は勢いよく走って来て抱きついた。
「ご無事で良かった、本当に良かった…」
「すまなかったわ小彩、いつも心配ばかりかけて、わがままばかり言って本当にごめんなさい…」
二人で抱き合いながら泣いた。その様子をみていた冬韻が口を開いた。
「燈花様。王妃様がお部屋でお待ちです…」
私は大きく頷き冬韻の後ろにつき歩き出した。王妃の部屋の前に着くと、待っていたかのように侍女が声をあげた。
「王妃様、燈花様がご到着されました」
「通しなさい」
戸がスーっと開き部屋の正面から王妃が歩いてきて私の手を取り涙ぐんだ。
「無事で本当に良かった」
私は彼女の顔を見てすぐに体を床に伏せた。
「此度は多大な迷惑を王室にもたらしてしまい、申し訳ありません」
とにかく、今回の事を謝りたかった。私の為に何人の人が尽力してくれたかと思うと、申し訳なさでいっぱいだった。
「な、何を言うのだ」
王妃は慌てて私の手を取り立ち上がらせた。
「何もしてやれずにすまなかったのはこちらの方だ」
王妃の言葉を聞き、私は首を横に振った。
「王様は来られますか?」
「どうであろう…ここ数日朝廷に呼ばれていてな、今日も都にいるのだ。明日またゆっくり話せばよいだろう」
王妃が優しく言った。
「…さようでございますか」
私は首にかけていた翡翠の指輪を胸の中から取り出し、王妃の前にそっと差し出した。
「この指輪は王妃様こそ持つに相応しいお方です。どうかお納めください」
「こ、これは、王様から贈られたものだろう?」
王妃が目を丸くして言った。
「はい、王様のお母様の形見だそうです」
「そうなのか⁈…知らなかった…」
王妃は更に驚いた様子でしげしげと眺めた。
「でも、なぜ私が受け取るのだ?昔、そなたが友の証にと受け取ったものだろう?」
王妃が不思議そうに眉を寄せた。
「そうなのですが…持つ資格がないのです」
私は静かに答えた。
「…贈られる資格がないので、王様にお返ししたいのです」
胸が痛かった。この言葉を言わずに済めばどんなに楽だっただろう…
「ど、ど、どういうことなのだ?いったい何が起こったのだ?」
王妃が慌てて立ち上がると、同時に後ろの戸がピシャっと開き山代王が部屋の中へと入ってきた。王は私の顔を見るなり言った。
「燈花、何のことだ…これは、昔そなたに贈ったもの…どういうことだ?」
山代王は涙ぐむ私を見て、顔をこわばらせている。私は少し沈黙したあと、彼を真っすぐに見つめ拳をぎゅっと握り直した。
「王様、今まで私を受け入れてくださり心から感謝しております。言葉にならないほど感謝しております…しかし、私の心が…私の心がここにないのです…」
私はズキズキと痛む胸を押えた。
でも…言わなきゃ…
「心がない…?」
山代王は困惑した表情で私を見つめている。私は覚悟を決め重い口を開いた。
「此度の件で、自身の本当の気持ちに気が付きました。心からお側でお仕えしたい方がいます。全てを投げ打ってでも愛してみたい人がいるのです…何もかも私が悪いです。全て愚かな私の責任です…本当に申し訳ありません…」
「ど、どういう…他に慕っている男が…まさか…林太郎か⁈」
私は静かに頷いた。
「自分でも愚かなことに、自身の気持ちに気づいていなかったのです。しかし此度の件で、はっきりとわかりました…林臣様をお慕いしております…あの方の側にいたいのです。今日は今までのお礼とお詫びの気持ちを込めて、最後のご挨拶にやってまいりました」
「な、なんと…」
山代王は力が抜けたようにへたへたとその場にしゃがみ込んだ。王妃が慌てて王を支え顔を歪めながら言った。
「ヤツのもとに行っても王様との縁談を断ったのだから結婚はできぬぞ。しかも、かような贅沢な暮らしはできぬし、安全も保障されぬ。それでも、あの者の側にいたいというのか?」
「申し訳ありません」
私は床に額をつけ謝った。正直この数日間で何度も迷った。山代王のそばで暮らせば穏やかで平和で満ち足りた生活を送れるのはわかってる…でも、どうしても彼を愛してみたかった…たとえ彼が蘇我入鹿だとしてもその運命を共に生きたいと思った。
部屋の中が静まり返っている。
「…これで、失礼いたします」
私は立ち上がると深くお辞儀をし王妃の部屋を出た。後ろから慌てて小彩がついてきた。
「待ちなさい!」
門まで来たところで、後ろから山代王に呼び止められた。
「燈花、もう日暮れだ。じきに真っ暗になる。一晩もう一度考えて欲しい…もし、気持が変わらなければ…好きに出ていきなさい…」
「山代王様…」
「そうですよ燈花様、荷物もありますし一度お部屋に戻りましょう」
小彩も私を諭すように言った。部屋へ戻ろうとした時、彼は再び私の手を取り翡翠の指輪を握らせた。
「これは、そなたへの友情の証に贈ったものだ」
「…山代王様…」
私は深くお辞儀をすると、自分の部屋へと戻った。久しぶりに帰った部屋は綺麗に片付けられ美しい花が飾られ、良い香りが漂い以前と変わらぬ優雅さだ。小彩は部屋の中に入ると、ペタンと腰が抜けたように床にしゃがみ込んだ。
「あぁ、小彩、ごめんなさい…私が至らぬせいで…」
「いえ…そうではないのです」
彼女が真っすぐな瞳で私を見つめて言った。
「気がついておりました。牢屋で燈花様に最後にお会いした時に、燈花様の本心に気が付いたのです。故に一か八か林臣様に頼ったのです。これもきっとお二人の運命なのでしょう…」
「…小彩、本当にごめんない…あなたの事もこんなにも翻弄させてしまった…」
「私は燈花様の決断に従うまでです…どんな選択をされようとも最後までついて行きます」
「小彩…」
二人で泣きながら抱き合った。きっといつか、必ずこの恩を彼女に返す日が来るだろう。
チュンチュン、チュンチュン
朝になった。
「燈花様、燈花様。王様がお越しです」
部屋の外から侍女が呼ぶが応答はない。しびれを切らした王が部屋の戸を開けた。部屋の中は朝の光が差し込みシンと静まり返っている。王は寝台の上に置かれた巾着を手に取った。
「こ、これは…」
中の翡翠の指輪を目にして、王は深いため息をつくと、一緒に置かれていた一枚の紙に視線を落とし手に取った。
〝山代王様、やはり指輪はお返しいたします。指輪がなくともあなたへの尊敬と友情と感謝の気持ちは生涯変わりません。どうかお元気で、燈花″
「燈花…」
王ががっかりと肩を落とし寝台に腰掛けた時、ちょうど王妃が部屋に現れた。王妃もまたガランとした部屋を見て声を落とし言った。
「王様…やはり、燈花は出て行ったのですね…今からでも追ってとどまらせましょう」
「いや。不要だ…」
「何故ですか⁈」
「昨日、朝廷に呼ばれた時に帝から告げられたのだ。やはり燈花の王族入りは反対だと…」
「えっ⁈なれど、罪を償えば許されるとおっしゃっていたではありませんか⁈」
「…重鎮達が意見を変えたのだ。罪を償ったところで、結局は罪人なのだろう。側室になれなければ後宮では暮らせない。采女として側に置いておくのではあまりにも残酷すぎる…橘宮に戻ったとしても形見は狭く、私も頻繁に会うことはできない…林太郎の側にいた方が自由に生きられるかもしれぬ…これも運命か…」
王は手のひらの指輪を見つめた。
「…王様…」
王妃が落胆する王の肩に優しく手を置いた。
部屋の中には婚姻の儀に向けて用意された美しい衣や髪飾りや宝飾品がそのまま残されていた。
「あの子、何も持たずに行ってしまいました…」
王妃が寂しそうに呟いた。
秋風の吹く山道を歩いている。木漏れ日の中、今まで叶わなかったハイキングをしているような気分になり両腕を大きく振って歩いた。
「燈花様、明るくなってきたので足元がよく見えますね。でも、いつ頃林臣様のお屋敷に着くのでしょうか?荷物が少ないのが幸いです」
小彩はブツブツ言いながらも楽しそうについてきている。
「きっと昼過ぎには着くわよ。頑張って歩きましょう」
「はぁはぁ…少し休憩をとりませんか?疲れました…」
「じゃあ、あなたは少しここで休んでから来るといいわ、私は林臣様の状態が心配だから先に行くわ…」
「と、と、燈花様~お待ち下さい!置いて行かないで下さい!私も共に参ります~」
二人で、黙々と歩いているが途中小彩が道端に生えた野草を見つけては摘みたがるので、予想よりも長く時間がかかっている。でも考えてみたら食料採取は重要だ、もう後宮で暮らす事はないのだから…
ようやく遠くに大官大寺の九重塔が見えてきた。
「小彩、見て!もう少しで都よ」
「本当ですね!頑張りましょう。はぁはぁ…」
荷物が少なくて喜んでいた彼女も今は息を上げている。それもそのはず途中で摘んだ野草がパンパンになり袋の中から飛び出している。この量ならば一週間くらいは野草料理だけでしのげそうだ。
「小彩、林臣様のお屋敷だけど、私慌てて出てきてしまって場所が良くわからないのだけど…」
「甘樫丘です」
小彩が息を切らしながら答えた。
「甘樫丘?甘樫丘は豊浦大臣の邸宅じゃなくて?」
「はい。甘樫丘の裏側に面したところにあるお屋敷が林臣様の本邸です」
息をのんだ。でも、覚悟していたこと
…やはり林臣様が…蘇我入鹿…でも、もうこうなったらどうにもならないわ…今は考えずにいよう…
飛鳥川を越え甘樫丘にようやくたどり着いた。ぐるっと回りこむように裏側から坂を登り屋敷を目指した。
「…着いた…」
門番の男は居ない。小彩が必死に呼び声を上げているが誰も出てこない。私は我慢できずに無礼を承知で門をあけ中庭へと入った。
小彩は最初、躊躇したものの私がずんずん歩いていくので、おくれまいと恐る恐る結局ついてきた。彼女は庭に面する縁側に座ると背負った籠を降ろし、はぁーと言い足を揉み始めた。私は彼女にそこで待っててと言うと、玄関に入り草履を脱ぎ捨て廊下をドタバタと速足で歩いた。
「誰かいるのか?」
猪手がひょっこりと廊下の中央から現れた。
「と、燈花様⁈なぜここに⁈」
猪手は突然現れた私の姿を見てとても驚いたのか手に持ったお盆を落とした。お盆の上にあった器がパリンと音を立てて割れた。私は慌てて彼に近づき平謝りしたあと、割れた器をお盆の上に置きながら早口で尋ねた。
「勝手に上がってしまってごめんなさい。でもどうしても林臣様が気になって、彼はどうなった?意識は戻った?薬は飲ませてる?」
私が矢継ぎ早に尋ねたので猪手はパニックで片手で口を押えモゴモゴと呟いた。
「そ、それが…」
彼の動揺している様子を見て一気に私の鼓動は早くなり彼の部屋へと走った。
「燈花様、お待ちください!」
後ろで猪手が叫んでいるが私は構わずガラガラと戸を開け中に入った。明るい部屋の中で顔一面に白い布を被った林臣が横たわっている。
「そ、そんな、そんな…」
私はヨロヨロと歩き彼の体に覆いかぶさった。
「ど、どうして…どうしてこんな事に…私の気持ちも聞かずに逝くなんてひどすぎる…ウッウッウッワーン」
子どものように大声で泣き崩れた。その瞬間、顔の布が外れ林臣の温かい手が私の頬をなでた。
「えっ⁈」
驚いて見ると、彼がこちらを見つめている。
「り、林臣様…生きてる?…」
私は震える両手で彼の頬をさすった。すぐに私の手の上に彼の温かな手が重なった。
「良かった…本当に良かった…でも騙すなんて酷い!」
私がクシャクシャの顔で怒ると、
「すまぬ、悪ふざけが過ぎたようだ…そなたの声が聞こえたから…」
彼はそう言うと私の体を抱き寄せた。心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。彼が低い声でささやいた。
「自ら戻ってきたという事は、私を選ぶのだな」
私は黙って頷いた。
「今までに味わったことのない実に良い気持ちだ…これが真の幸福というものか…そうだ、そなたの気持ちをまだ聞いてなかったぞ?」
林臣が意地悪そうに言った。
「それは…戻ってきたのが、私の答えよ。わかっているくせに…」
「ふん、相変わらず可愛くない……」
いつもと変わらぬ冷たい視線に、
「ププッツ…林臣様、お体の具合はどうですか?」
何も変わらない彼に思わず笑ってしまった。
「この通り良くなってきている…心配無用だ。あの程度の事で死ぬわけなかろう?」
そう、この上から目線さえも懐かしい。この横柄な態度のどこに惚れたのだろうと自分でも理解できない。でも、私の心は彼だと言っている。
「あら、林臣様。では私は必要ないのでは?」
私も容赦なく心の内をぶつける。なんて気楽で心地が良いのだろう…
「いや、そなたには此度の件の償いをしてもらう…」
「そう来ると思ったわ。何をすれば良いの?」
「…生涯、片時も私の側を離れるな…そなたを愛している」
彼が真っすぐな眼差しでこちらを見た。深く澄んだ瞳があの桃林で過ごした夜を思い出させた。
「林臣様…気づくのに時間がかかったけれど、私も同じ気持ちみたい…」
彼の大きな手が私の頬を引き寄せ、唇が触れ目を閉じた。なんて幸せなんだろう…
秋の夕陽が優しく私達を包み込んだ。




