第三十四話 嵐の中で
小屋への帰り道、フォーンという風のうねり音と共に田んぼの稲はザザザザァと大きく揺れ、まるで大荒れの海原を彷徨っているようだった。強風に体を取られながらも小屋に戻ると私は土壁にもたれ山代王の事を考えた。
きっと今頃彼は、私に絶望しているだろう…昨晩の帰り際に見せた彼の悲しげな瞳…彼がどれほど私のために動いてくれたかは分かる。飛鳥の都にタイムスリップしてきたばかりの時も優しい笑顔を向けてくれた。茅渟王が生きていた時も、後宮に入ってからも女官も使用人もよく私の面倒をみてくれた。すべて彼のおかげだ。それなのに私ときたら…胸がズキンと痛んだ。彼の落胆する顔が浮かび私は膝を抱えた。
どれくらい時間がたっただろうか、私はボーっとしながら山代王から贈られた翡翠の指輪を指でいじっていた。ガタガタと馬車の音が風に紛れて一瞬聞こえた気がした。
小屋に戻ってから外はやけに静かだ。人の話し声もガサガサと歩く音も聞こえない。聞こえるのはビュービューと吹きすさぶ風の音だけだ。気のせいだったのかもと戸口から視線をそらした瞬間、戸がゆっくりと開き床にしかれた藁が風で舞い上がった。姿が見えないので一瞬何事かと動揺したが、すぐに私の名を囁く声が聞こてきた。
「燈花様、燈花様」
「こ、小彩?」
柵に額を押し付け戸口の方向をよく見ると、小彩が腰をかがめてそろりそろりと近づいて来る。彼女は顔をクシャクシャにして必死に泣き声を押し殺している。彼女の泣き顔を見た瞬間、私は心から謝罪した。
「小彩、本当に本当にごめんなさい、いつも心配ばかりかけてしまって…」
これ以外の言葉が見つからなかった。
「燈花様こそ、こんな所に閉じ込められお辛いでしょうに…」
彼女は涙を流しながら私を見た。きっと昨夜はろくに寝られなかったのだろう、目の下には黒く大きなクマが出来ている。
「本当にごめんなさい、私は大丈夫だから泣かないで…」
私が柵越しにそっと彼女の手に触れると、少し安心したのかギュッと結んだ口元を緩めた。
「山代王様はどうしてる?」
彼の事が気がかりだった。
「このような事態になり王様は焦燥されております。なんとか燈花様を救うべく手を尽くされたのですが…処分が正式に下った今、たとえ王様でもどうすることもできないようで…ここを訪問するのも法で禁止されているのです」
「…大丈夫、わかっていたことよ。それでいいの、王家を巻き込むことなんて出来ない」
「でもこんな、酷い仕打ちはありません…」
小彩が悔しそうに服の袖を掴んだ。
「私自身が考えて決めたことなの。故意ではなかったとはいえ人を殺めてしまったその責任は私にある。罪を償わなければならないわ…」
「で、ですが、燈花様もお命を落とす所だったと聞きました。これからの燈花様の事を考えたら涙が止まりません。なぜそこまで、身分の違う下層の者たちの命に執着するのですか?」
私は深呼吸をし彼女を見つめた。
「小彩、馬鹿げた話に聞こえるかもしれないけれど聞いて…今から遠い遠い未来では身分の差はなく人々は平等に生きる権利があるのよ。どの命も尊く尊重されるの」
彼女はポカンと口を開けている。彼女が理解できなくてもいい、私は正直に心の葛藤を明かした。
「今までも尼僧や、巫女が犠牲になる姿を黙って見てきた。私はどの命も尊く平等だと信じてる。見て見ぬふりも、割り切って生きる事も出来たのかもしれない…けど…そんな生き方したくないのよ」
「でも、そのせいでご自身のお命が危険にさらされているのですよ」
「きっとこうなる運命だったのよ。覚悟はできているわ」
私は苦笑った。
「そ、そんな…希望を捨てないで下さい!白蘭様が刑で使われる鞭を別の物にすり替えて下さるそうです。そうすれば軽傷で済むとおっしゃっていました。無事刑が終われば名誉や地位は回復され、晴れて王家の一員に戻れるそうです」
小彩が必死で私を元気づけようと励ましたが、逆に罪悪感で胸が痛んだ。
「…そう…白蘭様にも苦労をかけてしまったのね。感謝の気持ちを伝えておいてちょうだい。でも、あまり未練はないのよ…」
私はため息をついて黙った。小彩はすがるような目で私を見つめている。重く張り詰めた空気を飛ばしたくて話を切り替えた。
「そうだ、昨晩あの夢を久しぶりに見たの」
「え?…ずっとうなされていたあの悪夢ですか?」
小彩が泣き腫らした目を擦りながら言った。
「えぇ…あの後ろ姿の人、やっと誰なのかわかったわ…」
私は少し間を置いて答えた。
「林臣様だったのよ」
「えっ??」
小彩が真っ赤な目を丸くして驚いた。
「おかしいでしょ?林臣様だったのよ。私も驚いたわ…夢で彼を必死で引き留めているの。そこに行くなって…でも彼、聞かないの…すごく絶望的で切なくて飛び起きたわ…」
私は耳の上の瑪瑙の髪飾りを無意識で触りながら夢の内容を思い返していた。
彼、颯爽と歩いてた…あの建物、大極殿だった…私が呼んだら振り返って、何か覚悟を決めているような凛とした眼差しで私を見た…まるで全てを受け入れるかのように……まさか、三韓の儀へ…
「燈花様?燈花様?」
小彩の声にハッとし我に返った。
「燈花様、大丈夫ですか?顔色が悪いです」
「だ、大丈夫よ。先の未来はあまり考えたくないけど、今、思い返すのは不思議と林臣様と過ごした日々ばかりなの…こんな状況下で彼の事を思い出しているだなんて本当に滑稽だわ…」
私は震え始めた手を彼女に見られないようにギュッとむすんだ。
「燈花様?」
「ん?」
「な…涙が…」
「えっ?…」
知らないうちに涙が頬を伝っていた。
「燈花様…」
小彩が息を止め瞬きもせずにまっすぐに私の瞳を見つめている。
なんという表情だろう…
「小彩もう行って、もう二度とここに来ては駄目よ。さぁ、早く行って!」
「燈花様…」
私はためらう彼女に手を振り出ていくようにと合図をした。彼女は後ずさりしながら静かに小屋から出ていった。
追い払うように帰してしまった事に心がひけたが、誰かに見つかって彼女を巻き込むよりは何倍もマシだし、それに彼女の表情を見た時、自分の心の底の想いに気が付いた気がして怖かった。
あぁ、そんなはずない…でも林臣様を想うと泣けてくる…最後に彼に恨み節の一つでも言ってやりたかっただけなのに…
私は頬の涙を手で拭ったあと、髪飾りを外し湿った両手で強く握りしめた。
小彩は小屋を出ると身をかがめて足早に馬車へと向かった。椎の木の陰に止めてあった馬車は彼女が乗るとゆっくりと走り始めた。小彩は段々と遠ざかる小屋を見つめてため息をついた。
燈花様のあんな顔見た事ない…まさか…でも、今はそれどころではないわ…白蘭様の策があるものの完全な補償はないし、山代王様でもどうすることもできない…どうすればいいの…そうだ、もしかしたら…
小彩は何かを思いついたかのように、身を乗り出し馬夫に向かって叫んだ。
「ちょっと、悪いけど急用を思い出したの。甘樫丘のたもとに向かってちょうだい!」
「はいっ!!」
馬夫が答えると馬車は速度をゆるめ大きく方向を変えたあと、水田の中の曲がりくねった道をガタガタと音をたてながら走り出した。
甘樫丘のたもとに着くと、小彩は馬車から飛び降り一目散に丘の中腹を目指し坂道をかけのぼった。坂の途中に小さな門と瓦葺屋根の平屋が見える。彼女は門に手をかけると息を切らしながら大声で叫んだ。
「誰かいらっしゃいますか!!誰かいらっしゃいますか!!」
声を張り上げ大声で叫ぶものの風に吹き消された声に返事はない。しかたないので足元に落ちている頑丈そうな枝を拾い思い切り門を叩いた。カンカンカンと木の乾いた音が響き、林の奥から猪手と使用人らしき小男がひょっこりと現れた。
「い、猪手様!!」
「ん?小彩か?誰かと思えばそなたが騒がしくしていたのか…」
猪手は驚いたような顔をしながら近づくと、普段と装いの違う小彩に尋ねた。
「小彩、なぜそんな下女の恰好をしている?」
猪手は目を丸くし不思議そうに首を傾げると、小彩は胸に手をあて呼吸を整えたあと彼を見た。
「い、猪手様…」
「どうしたのだ、血相を変えて、誰か死にそうなものでもいるのか?」
猪手はニヤッとし冷やかすように言ったが、
「さようでございます。ゆえにこうして無礼とは存じながらもお力を貸して頂きたく、参ったのです」
ぴくりとも笑わない彼女とその気迫に一瞬たじろいだものの、軽く咳払いをし気まずそうに呟いた。
「まったく、冗談で言ったのに…で、一体誰が死にそうだと言うのだ?」
「燈花様です」
「はぁ⁈…と、燈花様⁈」
猪手は信じられないというように目を見開いた。
「さようでございます。ゆえに林臣様のお力を貸して頂きたく、厚かましくも無礼を承知でまいりました」
小彩が地面にしゃがみこみポロポロと大粒の涙を流し始めた。
「こ、こ、小彩、話がてんで通じぬ、落ち着いて何があったのか話してくれ」
猪手は困惑しながらも、なんとか落ち着かせようと彼女の両肩をなでた。
「は、はい…実は昨日…」
小彩はこれまでの出来事を全て猪手に打ち明けた。
「な、なんということだ。一大事ではないか…しかも刑が即座に施行されるとは…」
「ですから、林臣様のお力を借りたいのです」
小彩はすがるように猪手の衣の裾をつかんだ。
「しかし、刑部省で正式に下された決定を覆すことは不可能だ」
「なんとかなりませんか、藁をも掴む思いで参ったのです」
小彩が泣き叫んだ。
「そんな事を言われても山代王様でさえも手の打ちようがないのだろう?若様では到底力が及ばぬ。しかも法を破って罪人をかばってみろ、それこそ大逆罪に問われてしまう。そんな理性を欠いた行動をうちの若様がするはずがないだろう?」
「で、でも燈花様は罪人ではありません、仕方がなかったのです!」
「わかっている、わかっているさ。しかし燈花様の主張は刑部省では通じん!」
「では猪手様も、燈花様を見殺しにされるのですか!ウッウッウッ…」
小彩が今度は地面に額をつけ泣き始めた。彼女の手も顔も土で真っ黒だ。猪手は両手で頭をクシャクシャとかきむしると、彼女の体を起こしてなだめた。
「泣くな、泣くな、私とて胸が痛む。力になりたいが、若様はいま難波津にて朝鮮三国からの使節団を迎え入れている」
「な、な、難波…そ、そんな…」
小彩は一気に青ざめると絶望的な声で呟いた。
「そうだ難波津の迎館で各国の使者達と会合中だ。今後の倭国の外交問題を協議し合うとても重要な会合なのだ。どうにもならぬと思うが、ダメもとで早馬を走らせ難波津に向かってみよう」
「ま、誠でございますか⁈」
小彩が両手を胸の前で合わせ飛び上がった。
「一縷の望みが見えました…」
彼女は袖の下から手巾を取り出すと鼻をかみ深く頭を下げた。
「でも期待しないでくれ…で、刑の執行は何時だ?」
「亥の刻です」
「亥の刻⁈残り六時間ほどしかないぞ!…急すぎる…早馬を使ってもどうだか…とにかく行ってくるから、そなたは山代王様の屋敷に戻れ」
「は、はい、あと場所は百済大寺です!」
猪手は使用人の男に山菜が入った籠を預けると、馬屋につながれていた馬引っ張りだし、さっとその背に飛び乗った。門の横に佇む小彩に向かい手を上げると勢いよく鞭を振り上げ走り去った。
小彩が王の屋敷に戻ると、王は広い庭をウロウロと行ったり来たりしていた。近くの縁側では王妃も焦燥した様子で力なく座っている。
「小彩戻ったか⁈」
彼女の帰りに気が付いた王が駆け寄ってきた。
「はい」
「随分と遅かったではないか、何かあったのか?」
「いっいえ…燈花様とお話が長引いてしまって…」
彼女はためらいがちに言うと下を向いた。林臣の屋敷に寄った事は伝えなかった。
「さ、さようか!燈花とは無事会えたのだな?」
「はい」
「そうか。私を不甲斐ない王であると思っただろうな…」
王が肩を落とし呟いた。
「や、山代王様、そんな事はございません。どうか気を落とさないでください。燈花様は気丈なお方です。きっとこの試練を乗り越えお戻りになられます」
小彩が言うと、山代王は大きなため息をつき薄暗い空を見上げた。
耳成山たもとの牢屋では、
ボツボツ、ボツボツといよいよ雨が降り出した。更に風は勢いを増し戸はガタガタと大きな音をたて、茅葺の屋根は今にも吹き飛んでいきそうだ。窓から入る雨が小屋の中を容赦なく濡らしている。
こんなタイミングで嵐だなんて…もうすぐ戌の刻のはず…心残りは中宮様の願いを果たせなかったこと…あとは…
真っ暗な空に稲妻がピカッと走り、その瞬間ガラガラガッシャーンと大きな雷の落ちる音が辺り一面に響き渡った。大丈夫。私は自分に言い聞かせると中宮から贈られた手巾をぎゅっと握り締めた。
北上之宮では、
バシャ、バシャ、バシャ、、
「王様、凄い嵐です。どうか屋敷の中にお入りください」
王妃は嵐の中、庭を歩く王を見て叫んだ。
「居ても立っても居られぬのだ…やはり今すぐに燈花を助けにゆく。冬韻、馬の用意だ!!」
王が大きな声で叫んだ。
「なりませぬ!今、王様をゆかせるわけには参りませぬ」
側近の一人である三輪文屋が必死の形相で王の前に立ちはだかった。
「構わぬ!どかぬか!王命だぞ!冬韻よ馬の用意だ!急がぬか!」
「…はっ、はい」
冬韻は伏し目がちに答え小さく頷いた。
「王様、なりませぬ!王家一族の行く末がかかっております。子供達らはどうなるのですか!王様を朝廷から失脚させ、一族を都から追い出せる絶好の機会と考えている大臣もいるのです。どうかお考え直し下さい」
文屋がその場に膝をつき諫言するが、王の耳には届かない。
「王様、今晩の刑で使われる鞭も柔らかく負担のないものにすり替わっているはずです。きっと大丈夫です…」
白蘭も説得を試みたが、王は一瞬足を止めただけで再び馬屋に向かい歩き始めた。
「王様…なんて事を…」
王妃がその姿を見てその場に泣き崩れた。
「王妃様、私が機会をみて王様を説得いたします。その上この悪天候では大寺までたどり着くのは困難かと…」
冬韻は王妃に向かい会釈をすると山代王のあとを追いかけた。
百済大寺では、白蘭の命を受けた阿椰が寺の敷地の隅にある倉に忍び込み、柔らかい素材で作り直した鞭へとすり替えた。見た目こそ従来のものと区別がつかないものの、不運な事に壁の隙間から吹き込んだ雨にあたっていた。
刑の時刻が差し迫ってくると、二人の男が今晩使用する鞭の確認をしに倉の中に入ってきた。
「おい、今日の鞭はやけに湿っているな。しかも手触りがいつもと違うような…なんでだろう?触ってみろ」
刑の当番の男は鞭を握ると怪訝な顔つきでもう一人の男に見せた。渡された鞭を手に取ったもう一人の男も不思議そうに首を傾げた。
「うーん、確かに変だな…やけにぐにゃぐにゃだな。嵐で雨に浸ってしまったのだろう。別のものがあるゆえ、持ってくる」
男はそう言うと別の倉に走り、従来の鞭を濡れないように麻袋に入れて戻ってきた。
耳成山たもとの牢屋では、
ガタガタ、ガタガタ…
小屋の戸が開き風と雨が勢いよく吹き込んできた。戸の横には松明を持った男が二人立っている。
「時間です。まいりましょう」
私は立ち上がると静かに歩き出した。横殴りの雨が容赦なく体に打ち付ける。暗闇の中、今にも風で消えそうな松明の灯りだけを頼りに馬車に乗りこんだ。
嵐の中を馬車はゆっくりと進んだ。大寺を目前にして車輪がぬかるみにはまり動かなくなったので、その先は歩いた。
雨風で視界が悪かったが暗闇の中、巨大にそびえ立つ九重塔がはっきりと目の前に見えた。寺の門を通り過ぎ塔の真横を歩きながら、改めてその圧巻の姿に驚いた。こんなに近くで見るのは初めてだった。
良く晴れた日に見る事が出来ていたならば、どれほど感動を味わえただろうと思うと、今までこの寺を訪れなかった事が少し悔やまれた。
塔を横目に見ながら更に奥へと進み金堂を抜けると再び小さな門を通り過ぎた。門の両側には松明を持った男が立っている。広場は小石がしきつめられ端には等間隔で石灯籠が並び、中では今にも消えそうな灯がゆらゆらと揺れていた。
柳の木の横に釣り鐘が見え、そこにも松明を持った男が立っているのがうっすら見えた。広場の中央には一畳半くらいの平たい滑らかな大理石が置かれその横に鞭を持った男が立っている。両端に置かれた灯籠の灯りがチラチラと男の顔を照らした。
一緒に来た男が大理石の上に座るようにと手を向けた。私は静かに指示された場所にしゃがんだ。頭からつま先までずぶ濡れだ。体はすっかり冷え切っている。鞭を持つ当番らしき男が釣り鐘の方を向き叫んだ。
「五回打つたびに、一度鐘を鳴らせ!」
「承知しました!」
釣り鐘の横で松明を持つ男が答えた。当番の男は私を見ると淡々と言った。
「途中意識がなくなったら、回復後に刑を再開します」
私がうなずき膝をつき四つん這いになると、開始の合図なのか鐘がゴーンと大きく鳴った。
ヒヒーン、ヒヒーン、パカッパカッパカッ…
嵐の中、山代王と冬韻が必死で馬を走らせている。雨脚は弱まるどころか勢いを増している。冬韻は濁流が押し寄せているあぜ道の手前で馬を止めると、振り返り王に叫んだ。
「山代王様、これ以上進むのは危険です。この先にある川が恐らく氾濫しているのです!」
「…くそ、何とか回り道を探さねば」
その時、ゴーンという鐘の鳴る音が遠くから雨の音と共に聞こえてきた。
「急げ冬韻!」
燈花なんとかもってくれ…
山代王は馬の体を大きく方向転換させると、もと来た道を走り出した。
百済大寺では、
「打て」
男の合図と共に当番の男が鞭を振り上げた。
ビシッ!
大きな音と共に骨が砕かれるような激痛が背中に走った。
「ウッ…」
想像を絶する痛みだ。でもこの罰は受けなければならない。私は歯を食いしばり態勢を立て直した。
「打て」
ビシッ、ビシッ、、、ゴーン
鐘の音と共に石の上に倒れ込んだ。背中は既に感覚がない。生暖かい血がポタポタと背中から流れでているのがわかった。
たったの五回でこんなんじゃ、最後までもたない…意識がどんどん遠のいていく。ここで死ぬのだろうか…後悔はないけれど、最後に会いたかった…
朦朧とした意識の中、雨の中で蹄の音を聞いた気がした。遠くで男の怒鳴り声が聞こえる。
「どけ、さっさとどかぬか!」
「これ以上進まれては困ります!」
「フンッ…」
ザッ、ザッ、ザッ、と砂利を踏む足音がこっちに近づいてくる。その瞬間、バサっと誰かが私の体の上に覆いかぶさった。服の上からなのに温かな体温が伝わってくる…
「すまぬ、遅くなった」
…この声…
力を振り絞り目を開けると、灯篭の灯にぼんやりと照らされた林臣の横顔が見えた。
「り、林臣様…どうして…」
私が朦朧としながらかすれ声で言うと、彼はシィーと言い私の口を指で押さえた。
「さあ、始めよ!私が代わりに刑を受ける!」
彼が鞭を握りしめた男を睨み叫んだ。
「そ、そんな…出来ません」
男がおどおどしながら答えると、
「早くせぬか!」
彼は更に大声で怒鳴った。
「はっ…はい…」
男はためらいながらも鞭を打ち始めた。
ビシッ、ビシッ、
大きな鞭の音が雨の中響く。
「うっ…」
「り、林臣様…」
彼はまっすぐな瞳で私を見つめ囁いた。
「もう一度言う…そなたを好いている、今までも…この先もだ…」
鐘の音が辺りに鳴り響いた。
…林臣様…
私の体をかばう彼の腕に古い傷跡が見えた。明らかに獣に襲われて出来た傷だ。
私は今までの出来事を思い出していた。
…そう、この人はずっと陰から私を守っていてくれた…昔、山で猪に襲われた時も…鞠が飛んできた時も本当は体を張って中宮様と私を助けたんだわ、足をくじいた時も、酔っぱらって歩けなくなった夜も、後宮での寂しかった夜も…全部この人が側にいた…今更、あなたの愛に気づくなんて…私ってなんて馬鹿なの…
涙がとめどなく溢れ、林臣の体の温もりを感じながら意識が無くなった。嵐の中、鐘の音が夜更けまで鳴り響いた。




