兄の敗北(通算二敗)
神官の指先から放たれた微光が霧散すると同時に、横たえられていた二つの肉体が同時に小さく跳ねた。
凍死という活動停止状態からの蘇生処理の完了。
悠真はすぐに、上体を起こした弟の肩を掴み、その身体を正面から強く抱きしめた。
しかし、胸の中に収まった肉体の質量を感じた瞬間、悠真の指先が強烈に強張った。
骨格の細さ、肌の弾力、衣服越しに伝わる重心の位置。前世の実家で、自分が身を挺して守り続けてきたあの「弟」の輪郭とは、明らかに異なる異質さが掌に吸い付く。
悠真はすぐさま腕を解き、怪訝な視線を向けたまま、背後に控えていた雪乃へと目配せを送った。
「雪乃、交代しろ」
ただ事ではない兄の気配を察し、白髪モダンな雪女の妹がすかさず前に出る。雪乃もまた、目覚めたばかりのその身体に触れ、細い指先で首条や手首の脈を確かめた。だが、次の瞬間にはその冷徹な双眸に、明確な困惑の光が浮かんでいた。
外見は確かに、前世で共感し、共に凍りついた弟のままだ。しかし、二人が同時に覚えた違和感は、それが「中身の違う他人」ではないかという不審へと直結した。
悠真は視線を周囲の虚空へと向け、神殿の奥深くに潜む存在へ向けて、低く、しかし冷徹な声を突き刺した。
「ネロ。中身が入れ替わっている。これは他人じゃないのか。なぜ女の子の身体になっている」
静寂が満ちる空間に、姿を見せない冥府の女神からのテレパシーが、機械的な事実の波動となって悠真の脳髄へ直接落とされた。
『凍死体というのは、元から不調や損壊が多い。私自身に、生命をより強く、完全な形で修復する能力などないのだから、これは仕方のない結果だ』
淡々とした、一切の感情を排した声が続く。
『――日常的な虐待が普通というならまだしも、お前たちの実家で行われていたのは、死体遺棄や解体だ。まともな捜索すらされず、バラバラに打ち捨てられていた。私が冥府で魂を回収した時点で、その器はすでに致命的に欠損していたのだよ』
悠真の思考が、一瞬で前世の最悪な記憶の底へと引き戻される。
あのクソ親どもが最後に行った、死体遺棄と解体。誰にも探されず、冷たい闇の中に損壊したまま転がされていた肉体の残骸。
『だからこそ、欠損した者同士のパーツを補うために、冥府に漂う他の死者から抽出した因子を足し合わせ、再構築するしかなかった。外見こそ元の形を維持させたが、結果として、その個体は妹(女の子)として再構築されている』
脳裏に響くネロの説明を、悠真は冷徹に分析し、目の前の事実と照らし合わせる。
中身が他人に入れ替わったわけではない。前世の地獄の傷跡が、この異世界のシステムによって「妹への変容」という形で固定化されたのだという現実を、悠真は静かに受け入れるしかなかった。
蘇生は果たされたものの、深雪の肉体にはまだ死者の因子や新たな構造が馴染んでいなかった。
関節は凍りついたように強張り、指先一つを動かすのにも、激しい震えと拒絶が伴う。不器用に立ち上がろうとしては崩れ落ちるリハビリの日々は、一筋縄ではいかない過酷な苦労の連続だった。
小屋の外に広がる未開の畑。悠真は鍬を握り、極寒の土壌を耕す作業を進めていた。
その背中には、まだ自分の足で立つことのできない深雪が、しっかりと負ぶさっている。畑仕事の合間、一人で小屋に残されれば、未知の肉体の不調と孤独に苛まれるだろうという、悠真なりの配慮と世話の形だった。
「しっかり捕まっていろ」
悠真は背中の質量を確かめながら、淡々と土を掘り返していく。
最初のうちは、深雪の肉体は氷のように冷たく、衣服越しに伝わる体温も極めて低かった。しかし、悠真の背に背負われ、その体温と動きの振動を直接受け取り続けるうちに、深雪の輪郭に変化が生じ始める。
日を追うごとに、その肉体を縛り付けていた死の残滓――頑強な凍結が、徐々に解けていくのが分かった。
当初は言葉にならず、ただ喉を鳴らすだけだった深雪の口から、やがて、たどたどしいが明確な音声が漏れ出すようになる。
「お、にぃ……ちゃん……」
かすれた声が、畑に響く風の音に混ざる。
凍結の解除と共に肉体の機能は急速に治癒へと向かい、不調のあった節々は完全に元の健常な状態へと修復されていった。
深雪の身体が完治したことで、悠真の思考は次なる生存戦略へと移行していた。
最大の懸念は、この世界を規定している転生システムそのものの複雑さにある。ネロの言葉や集めた情報から、凍死でなくとも、別の神が管理する領域であれば「他の死因」による転生が可能であるという構造が浮き彫りになっていた。
それはすなわち、前世で自分たちを殺害したあのクソ親や、すべての元凶である親戚一同が、別の形でこの世界に現れる可能性が極めて高いことを意味している。
従兄弟である怜司と沙那。
怜司は親族の中では比較的まともな部類ではあったが、精神的に極めて不安定なタイプでもある。沙那も含め、彼らのような戦力がこちら側に存在すること自体は戦力的な損にはならない。だが――自分たちがクソ親どもに殺されたという事実をすでに知ってしまっている時点で、彼らとの関係性がどのような歪みを生むかは、考えるまでもなかった。
さらに、この世界における転生者の扱いも、決して平穏なものではない。
国によっては、その強大すぎる力を恐れて事務職として組織の奥深くに監禁し、あるいは解放している体裁を取りながらも身分制度の枠外に配置するなど、冷酷で不遇な待遇が常態化している。
対して、このネロの勢力圏は、そもそも上澄みの身体能力や強力なチート能力を持つ実力者しか生き残れないほどに環境が過酷だった。それゆえに、外部からの侵略を防ぐための防衛機構すら必要としていない。
魔王を巡る中央のトラブルに関わらないまま、この雪国で隠棲し続けることは、システム的には十分に可能だった。
しかし、悠真の背後で静かに牙を研ぐ弟妹たちの本質が、それを許さなかった。
前世の地獄を経て、過剰なまでの正義感と、兄を守るための狂気を燃え立たせる雪乃と深雪。悠真には分かっていた。彼女たちが「関わらない」という消極的な平穏で満足するはずがない。
彼女たちは、自分たちの安寧を脅かす可能性のあるトラブルの種を見つければ、それが牙を剥く前に、根こそぎ叩き潰すための「徹底的な対策」をすでにその裏で画策している――。
静かに佇む二人の妹の双眸の奥に、悠真は制御不能な暴走の予兆を明確に感じ取っていた。
これ以上の暴走を未然に防ぐためには、まずは実際に海外の情勢を目で見て、今後の動きを決めるしかない。悠真は二人を前に、そう方針を告げて約束を交わした。
「何もわからないまま動くのは悪手だ。三人で、海外を見に行くぞ」
それはあくまで、生存戦略のための状況視察の提案だった。しかし、雪乃はモダンな白髪の端を揺らし、熱を帯びた歪んだ笑みを悠真に向ける。
「お兄ちゃん、それってつまり……デートだね?」
「違う。デートじゃなくて、ただの家族旅行だ」
悠真は即座に言葉の盾を構えて防衛を試みる。
長時間の議論と状況分析を終え、張り詰めた空気が緩んだその瞬間だった。悠真の脳裏に、かつて自らの身体を縛り付けた、あの『遺伝子ランク診断』に端を発する不可思議な拘束力の記憶がよぎる。
(あの変な力で動けなくなる前に、今、二人の横をすり抜けて扉に辿り着けば、外に出られる――)
そう判断した悠真は、思考と同時に全速力で地を蹴った。雪乃と深雪の間を、電光石火の速度で通り抜けようとする。
だが、チート能力の発動予兆である光も、超常的な障壁もそこにはなかった。
ただ、背後から伸びてきた雪乃と深雪の、人間離れした、剥き出しの純粋な「腕力」が、悠真の両肩を逃がさず鷲掴みにした。
がっちりと肉体をロックされ、悠真の足が完全に宙に浮く。
前前世の不調を乗り越えるためのリハビリ。その過程で、彼女たちが裏でどれほど凄まじい肉体トレーニングを積み重ねていたか、その圧倒的なフィジカルの成果を、悠真は自らの骨を軋ませる質量によって思い知らされることになった。
チートすら使わない、シンプルな力負け。
抵抗の果て、自ら演出する形になったラッキースケベの密着体勢のまま、悠真は巨大な二人の妹の肉体の檻へと、なす術なく引きずり戻される。
一人目の雪乃。現在、一ヶ月。
そして今、かつて弟であったはずの深雪もまた、同じ一人目の権利を主張するように、悠真の逃げ道を完全に塞いでいた。
逃亡の情熱が秒速で空回りした兄から、二人目の分の権利が、有無を言わさぬ腕力によって強奪されていく。
その檻の奥底で、新しく命名された二つ目の名が、凍てついた静寂の中に静かに刻まれた。
【――二人目、命名、氷翠。】
途中の情勢は他の人から聞いてるけど男相手でも遺伝子相性とかの数値が出るせいで思い返すことしか出来ない悠真。




