アリステラ
「プラハ!」
がしっと肩を掴まれる感覚。いや、しっかりとその手は俺の右肩を掴んでいる。良かった反対側だったら痛みに飛びあがっていた。そんなことを考えていた。だからこそ、振り向く余裕というものが出来ていたのだろう。
そいつは今、俺の右ポケットに手を突っ込んで二枚の紙を取り出している。
「あんた男でしょ!」
頬に衝撃。平手打ちなんて生易しいものじゃない。強烈なグーパン。じんわり痛みを覚えるレベルなんて遥か下にあり、一瞬現実が飛びかけた。
「モニカ」
「あ、ごめん。腫れた」
「強過ぎんだよ」
モニカは泣いていた。真っ赤な目をしてここに立っている。乱れた髪と乱れた呼吸。もしかしたらわざわざここまで走って来てくれたのかもしれない。
「あんた、ヒーローになんでしょ。だったら、そんなウジウジ考えてんじゃないわよ!」
「でも」
「はぁ? 答えは決まってるでしょ。水神機も止めてアリスも助ける。あんたヒーローになるんだったらそんくらいのことしなさいよ!」
もう一撃。今度はきちんと張り手に襲われた。先程の場所と同じところだったため痛さはその比ではないけれど、十分に現実を見ることができたし、お陰さまで目も覚めた。
本当、こいつには小さい頃から世話になりっぱなしだ。
「アリス!」
だから叫ぶ。ブレスレットを外して、声が出なくなってしまいそうなくらいに叫ぶ。
「分かった。水神機を止めるよ! でも、必ずアリスも助け出すから! 俺は君のヒーローにもなる!」
不思議と、うっとおしいはずの雨も気にはならなかった。
あんたどんだけクサイのよ。そんなモニカのセリフも今は清々しく聞こえた。聞いてるこっちが恥ずかしいぞ、なんてソフィアにも言われたり。けれどティナにはかっこよかったですと褒められて……って、え。
「なんでここにいるんだ?」
「馬鹿もの。走ってきたに決まっているだろう。そら、さっさと魔法陣を描いて戻るぞ」
長老も置いてきちまったしな、とソフィアは笑った。つられてティナも笑っていた。目の前にあの水神機がいるにも関わらず、俺も一緒になって笑っていた。アリスの笑い声も聞こえるようだった。
「そろそろ水が溜まります。プラハさんのこの魔法陣の行き先も、既に水中ですのでここからは走って戻りますよ」
「分かった」
俺は頷く。モニカから紙を受け取って、俺は足元に魔法陣を描いた。インストールペーパーは掻き消えて、魔法陣が書かれた紙は左のポケットに突っ込んだ。ソフィアはここから水神機を水の中に飛ばすのだ、と言った。
転移の魔法陣は魔法以外のモノが通過する際にはそれらの運動は一度無くなる仕様になっている。だから、水の中に飛んだ水神機には一瞬の隙が出来るというわけである。
「アリスの意識はまだある。だからなんとかコントロールしてこの魔法陣を踏むように頼んだんだ」
いつの間に、と思ったが、俺はもうブレスレットを外してしまっていたではないか。俺はもう一度それを装着する。
「行くぞ!」
そして、その声を合図に俺達は走りだした。
目の前には巨大なプールがあって、もう殆ど溢れ出すくらいまでの水が溜め込まれているらしい。長老が風を操る魔法で雨を集中的に集めてくれたから予想以上のスピードで水が集まったのだという。今は逆に、これ以上水が入って溢れてしまわないように、殆ど魔法陣を掻き消し、長老には雨を避けてもらっている。
俺の立つ場所には雨は降り続いていたけれど、今はそんなもの感じている余裕なんてないくらいに、心臓が鳴り響いていた。
ブレスレットから届く声。アリスはまだ起きている。しかし、あともう数分もすれば再び眠りに戻ってしまうと言っていた。
この作戦の最後はアリスとの連絡が必須なのだけれど、皆その連絡係を俺に任せてブレスレットを外している。だから、彼女と会話が可能なのは俺一人なのである。ソフィアが気を遣ってやったんだ、感謝しろ、と言っていた。本当はあいつだって話したかったくせに、皆が会話できてしまうとどこかで迷いが出てしまうかもしれない、なんてことを口にしていた。本当にそれで良いのかよ、という俺の問いに返ってきた言葉は、これが最後じゃないからな、というもの。モニカはモニカで、始まりはあんたの抱っこから始まったんだから、今度もあんたの言葉をスタートにすんのよ、とか言っていた。
絶対に助け出す。これは願いなんかじゃない。俺の誓いだ。
心臓はおかしなくらいに跳ねまわり、手もどこか震えている。緊張と恐怖。寒さと熱意。色々なものが俺の中で混ざり合い、一つになろうともがいている。
「時間だ」
遠くでソフィアの声が聞こえた。静まり返る世界。雨の音だけが支配する。まるで一人でこの中で立ちつくしているみたいだな、と思った。
「アリス、進んで」
「うん」
その声の数秒後に、目の前のプールから大きな光が放たれた。転移の魔法特有の光だ。質量が大きいから、その分その明るさもいつもの比ではない。眩しいというレベル。
ドプンというような音がして、プールが大きく揺れた。反動で、溜まっていた水が少し零れてくる。
呆気なくプール内への水神機の誘導は成功してしまったのだった。
「アリス、やったよ」
「そうみたいですね。それじゃあパパっとやっちゃって下さい」
「ああ、凍らせる。そしたらすぐに助けるからな」
「はい、ありがとうございます。でも、それは遠慮しときます」
「え?」
「凍らせたらすぐに、少し前に水神機に放ったあの魔法で凍ったままのこれを貫いてしまって下さい。凍ってしまえば通じますから」
俺は耳を疑った。構えた手は既に始動行為を始めてしまっている。すぐにこれを凍結させるだけの魔力は集まらないが、それでも少しすれば完全に溜まってしまうだろう。
「あ、アリス?」
「プラハ君。ありがとうございました」
「な、なんで」
「簡単な話です。乗り込んでしまった限り、戦闘兵器にとって機械人はバッテリーでしかないんです」
この前の襲撃くらいだったなら、別に良いんですけどね、とアリスは寂しそうな声で呟いた。
「水分が溶けてエネルギーの役割を果たし始めるその時まで、私はバッテリーとして使われるでしょう。なので、たとえ凍らせたとしても、すぐに破壊しなければ意味が無いんです」
そんなことって。しかし、俺はもうどんな言葉も口にすることはできなかった。また、あの時みたいに思考が糸のようになって、絡まり始めてしまって、そして解けなくなっている。どうして、だとか、なんでだよ、だとか、答えのない疑問が頭の中を駆け巡り、増殖し、跳ねまわり、埋めて行く。
「ごめんなさい。でもプラハ君、きちんと皆には言って下さいね?」
さらりと、そんなことをアリスは言った。ごめんなさいとも言いきっていた。そんな、そんなことを言うなんてできっこないのに。
「ヒーローさん。今ここで水神機を破壊してしまわなければ、国が滅びます。うぅん、それだけじゃありません。私もいずれ死を迎えます」
心の中が急に冷たくなって行き、不正確な脈が呼吸を乱して行く。なんで、アリスが。そんな言葉ばかりが溢れては浮かび、そして次々に並んで行く。
「ヒーローさん。あなたの覚悟を見せて下さい」
視界はぼやけて目頭が熱い。そのくせ内側は冷え切っていて、手だって勝手に魔法力を溜めている。足はいつの間にかしっかりと大地に立っているし、体だってもう震えていない。思考だけが絡まって、一人足掻いているようにすら思えてしまう。
「プラハ君といったか。すまんのう、テレパシーは盗聴させてもらっておる」
どこからか届くしゃがれた声。紛れもなく長老の声だった。
「全て君に任せることにする。君が合図をくれたら獄炎の槍を放つぞ。放つだけならば一人でも問題ないからの」
ぎりっと奥歯を噛みしめた。もう口の中は何度味わったか分からないあの鉄の味がして、何よりもしょっぱい自分の涙も味わっていた。
「アリス」
「なんでしょう?」
両手には完全に魔法力が溜まり、いつでも凍らせることができるようになっていた。あとはこのプールに手を翳し、凍れと念じるだけ。
「分かった」
「ありがとうございます」
そして俺はプールに手を向ける。もう何度も何度も繰り返し行ってきたお馴染みの魔法。冬は水を温めてココアを飲んだり、夏は水を凍らせてかき氷を作ったり、思い出には事欠かない。
視界に捉えた自分の手は、まるで他人のもののように見えてしまった。
「そうだ、プラハさん」
「ん?」
「私って、まだあなたに正式な名前で呼んでもらったことってありませんよね」
「そういえばそうだな」
「呼んでもらえませんか?」
彼女の名前はアリステラ。冷たい首輪に刻まれた温かな名前。ニックネームはアリス。この不思議な魔法の世界に一人で迷い込んでしまったから。
俺は噛み締めるようにその名を呟いた。そうしたらありがとうございますという言葉が、優しい声色で返ってきた。
俺は目を瞑る。そしてプールに手をつける。さよならは言わなかった。その会話を最後にした。
ソフィアの溜めた魔法力でモニカが作り上げたこのプールにはどこか安心できるような温かみがある。中にはティナの魔法陣。彼女がいなければ、ここに水を溜めることも、水神機を運ぶこともできなかった。
皆で作った一つのモノ。いや、違う。まだ俺は何もやっていない。
――魔法、発動。
当てた両手から光がこぼれ、プールへと伝わって行く。皆で作ったそれに俺の魔法力も混じって行く。コンマ一秒程の世界。しかし俺にはそれがとてもゆっくりなもののように感じられた。
無機物を囲う巨大な水の塊。それがゆっくりと冷えて行くイメージ。そして段々と、外側から凍結していくイメージ。最後には絶対的な凍結がそれらを包み込んでしまうイメージ。
凍った。その世界は凍ったのだ。だから水神機は動かない。そして中の人間も動けない。完全な凍結がそこにある。俺は長老に合図を送った。全てを聞いてくれていた長老にはこうするだけで良かった。長老は何も言わなかった。ただその名を呟きあの魔法を発動させた。
皆は今頃何を思っているだろうか。全てを知ったらどうなってしまうのだろうか。そんな思いが頭を過って行く。
頭上には輝く赤の塊。長老が呼びだした獄炎の槍。対象に放つためには三人がかりでも、動かない対象に落とすだけならば、一人で十分可能な古代魔法。その威力は超絶大。
俺はもう一度目を閉じた。雨を感じながら目を閉じた。その先にあるのは真っ暗な世界。けれど今、そこは過去へと繋がっている。楽しかったあの頃へと繋がっている。
でも、なんだかほっとするのは本当なんです。そう言ってあの日のアリスは目を閉じた。
魔法、見せてくれるんですよね? そう言って目を輝かせていたアリス。ああ、そう言えばすぐその後に無能って言われたんだよな。
あー、あー聞こえますか? ブレスレットに喋りかけていたアリスはかわいかった。
納得です。じゃあ私も撫でてください。そう言ったアリスはその後俺の手の中に収まった。
炎柱に見とれていたあの日のアリス。
プラハ君。もし良かったら握手しませんか? 手を差し出してきたアリス。それは友好の証で、俺と固く約束した。
私はモニカちゃん並に我儘ですから。そう言ったアリスは悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
だからプラハ君。もう一度ヒーローになって下さい。
もう一度ヒーローになって下さい。
――ありがとうございます。
彼女との思い出が頭を駆け抜けて行く。彼女と過ごした時間はたったの三日間だった。たったの三日間。けれど短いようで長いその時間を、確かに俺達は友人として過ごしたのだ。まるで、昔からの知り合いだったかのように。子供の頃に実は一度会ったことがあるんじゃないかと思えてしまうくらいに。
彼女は幸せだと言っていた。それは俺達も同じこと。俺たちだってあの日々はいつも以上に楽しかったし、幸せだった。
「アリス……」
俺は君のヒーローにもなる。そう叫んだあの瞬間が今ではもう遥か昔のことに思えてしまっていた。
助けられると思っていた。頑張れば叶わないことなんてないのだと信じていた。けれど現実は違った。
なんだよ、結局俺は助けられないで終わるんじゃないかよ。
結局、俺は……インチキヒーローで終わるんだ。
あの日の父の背中は遥か遠く。
全ての思い出は遥か彼方。
獄炎の槍はもう既に凍らせたプールのすぐ上にまで落ちてきていた。その熱で溶けてしまうのではないか、と思うけれど、もうあと一瞬で全ては終わってしまうのだ。氷が解けようが関係ない。あの槍は水神機の全てを貫いて、そして破壊することだろう。
もう俺は何もできないのだ。そんな無力感に襲われる。両手は自然とポケットの中に突っ込まれていた。
「アリステラーッ!!」
握られる拳。くしゃりと紙が手の中でまるまる感触。同時に訪れる爆音。槍が水神機を貫いたのだ。
まるで、俺が握りつぶしてしまったかのように、水神機は破壊された。




