36.謎が増す男と困惑する薬師
「伴侶殿」
「なんだ?」
「伴侶殿……」
「だから、なんだ?」
「伴侶殿…………」
「用件を言え!」
テーブルに向かい、頭の中を整理するために術式を書き出し真剣に悩んでいた桂は、隣からしつこく呼ばれて怒鳴りつける。
海を見れば、彼は機嫌良さそうに桂の入れたお茶を飲んでいた。その光景に彼女の顔が自然と引きつる。
「そこの文脈は、こうするともっと無駄が省ける」
湯飲みをテーブルの上に置いて桂の手からペンを取った海は、指摘した部分の下にさらさらと新たな文字を書いていく。それは上に書いてある文字と同じ、水人族固有の文字だった。
基本的に言語は世界共通だ。ただし、場所や種族によって固有の言語が多々存在する。
己が書いた文脈と海が書いた文脈を見比べた桂は、彼の書いた物の方が確かに効率的なことに気づき、ため息をついた。
海が桂に口付けて去ったあの日から、三日が経っていた。
これでも桂は悩んだのだ。これから海にどう接していけばいいのかと真剣に考えた。結局、答えはでなかったが――片付けや仕事をしながらも考え続けた。
だというのに、この男はいつもと変わらぬ様子で現れたのだ。
あの、最後に見た、感じたものが幻ではないかと疑いたくなるほど普通に「ただいま~」と店の扉から現れた時には、思わず詰め寄ってど突いてしまったくらいだ。
そのやり取りの後、桂は真面目に考えていたことが馬鹿らしくなった。
薬作りの作業が一段落したこともあり、桂は家の居間に移動する。当然のように彼女に続き、その横に座った海に、思わずど突いてしまった謝罪も兼ねて茶を入れてやると、彼はうれしそうな笑みを浮かべてなんの疑いもなくそれに口をつけた。
今回は何も余分な物が入っていない、正真正銘、普通のお茶だ。だが、以前に薬を盛られた前歴もあるというのに、こうも警戒なく口をつけられる神経がなかなかにすごい。
そう思って桂が眺めていると、彼女の考えを読み取ったのか。海が怯えをみせた。
「……もしかして何か入っている、とか」
手の中にある湯飲みと桂の顔を交互に見る彼に、彼女は小さく息を吐き出す。
「安心しろ。普通のお茶だ」
あまりにもいつも通りな反応だった。それに少し安堵している自分を知りつつ、桂はテーブルの上に書きかけで置いてあった紙を引き寄せ、その上に放ってあったペンを手に取る。
そして、生活呪術の開発に取り組んでいたら――書き散らかした文脈を、海に添削されるという状況になっていた。
「おまえはなぜ、水人族固有の文字を普通に使えるんだ」
呆れ混じりに桂は問い掛ける。
海の持ち合わせる知識は、生きてきた年月によるものなのか。
世界共通の言語で一般的なやり取りはすべて行われるので、他種族の言語まで覚えている者など稀だ。職業が学者とかならばありえるが、この男はそんな者には微塵も見えない。
「言葉も話せるぞ」
笑顔でそう告げた海に、疲れを感じて桂はため息をつく。
「知識だけはもともと持っていた。だが、使いこなすには実地で使うのが一番だからな。暇に飽かせて、色々な種族の街や集落を渡り歩いた。ウイの一族にはそんなものはないからな。なかなかに興味深いものだったよ」
呆れて良いのか感心して良いのか迷った桂に、海が言葉を続ける。
「種族固有の言語は仲間と密に付き合うための手段だろう? だから、わしらには必要ない。どこまでも個人主義で、誰もが好き勝手に生きているからな」
声を立てて笑った海の言葉に、桂は気分的に頭が痛くなってきた。こめかみに手をやり揉み解す。
一人でも手に余るというのに、こんな奴が何人もいたら公害になりそうだ。
そんな思いが頭を過ぎった。
「伴侶殿、続きはやらんのか?」
海に指摘され、手元の紙に視線を戻す。返されたペンを握り、海に修正された文脈を踏まえた上でその続きを考え、新たに書き出していく。
そういう作業を幾度か繰り返した後、ふと海が桂に問う。
「そういえば、伴侶殿。例の商人の件だがな、あの後どうなったか知りたいか?」
彼の口から意外な言葉が飛び出してきて、桂は驚きに目を見開く。
「何か知っているのか?」
中枢に引き渡した後の扱いがどうなったかなど、一般人である桂の耳には入ってこない。
「九曜が伴侶殿の見事な手際に感心していたよ。あそこにいた奴らに関しては、伴侶殿のことをまったく覚えていなかった。どうやったのか知りたがっていたが、後々の厄介事を避けるために、薬を使って暗示をかけたと誤魔化しておいた」
催眠作用を促す薬というのは実在する。桂も作ったことはあるし、効き目は悪くない。だが、悪くないだけで完全ではない。
言霊を使った暗示は一度しっかりと掛かってしまえば、指定された期限が切れるか、言霊を使った解除を行わない限り永続的に作用し続ける。
それは言霊だからできることだ。一般的に扱われる術は、術者の意識が途切れた時点で作用しなくなる。
言霊を使える者は少ないが、この力は利用価値が高い。だからこそ、桂はこの力を大っぴらに使うわけにはいかなかった。下手に知られてしまえば、セイレーンの歌声よりも厄介な者がつれかねない。
「……手間をかけさせたようだな。ありがとう」
感謝を告げた桂に、海は曖昧な笑みをみせる。
誤魔化したのは、海の事情も含まれる。純粋な善意でしたわけでもない行為に感謝を述べられても、素直に喜べることではない。
彼もまた、桂がこれ以上面倒な連中に目をつけられるのは御免だった。ただ、それだけなのだ。
九曜は悪い奴ではない。だが、あの男の場合、彼女のその力を知ったら、この街のために利用しようと考えそうだった。たとえ彼女の傍に海がいようとも、それすら逆手にとって。
「それで例の商人の処遇だが……今後、この城塞都市への出入り禁止で決着した。あの男は組織の人間とは少し立場が違ったしな。情状酌量の余地ありってことで、それだけで済んで街から追い出された。違約金はまあ、ぶんどられていたが、身ぐるみすべてはがされたわけでもない。どうにでもなるだろうさ」
まだ軽い処罰で済んだことに、桂はほっと息を吐き出す。
「人質になっていた商人の家族は?」
「さあ? どうだろうな。そこまではわしも知らん。組織の方にはそれなりな打撃を与えられたはずだから、そのどさくさに紛れて解放されていれば、上手くいけばって所だな。それも組織の方が人質として扱っていればの話だが――」
言い淀んだ先の意味が分かる桂は表情を暗くする。
最悪、商品として売られている可能性もあった。
すべては他人事だ。桂に責任はない。彼らの命を背負う必要もない。
だが、それでもすべての思いが割り切れるわけでもない。あの手紙がきっかけだとするなら、やはり申し訳ない気分になるのだ。
海の手が桂の頭をゆるりと撫でる。
「関わった者すべてを救うのは不可能だよ」
誰かが笑えば、誰かが泣いているかもしれない。
誰かが幸せになれば、誰かが不幸になっているかもしれない。
現し世は平等ではない。
「わかっている」
そう思うのは傲慢だと知っている。
そんな奇跡のようなことを行える者など、存在するはずがないということも。
現し世はやさしくない。
「伴侶殿が気に止むことではないよ。すべては各々が蒔いた種だ。誰にも肩代わりなどできはしない」
頭を撫でる感触は心地良く、そのままに桂はほんの少し顔を上げ、こっそりと海の顔を見上げる。触れた場所からそれを感じ取った海が桂の視線を受け、その瞳を合わせてふわりと微笑んだ。
「わしにも桂の背負う荷は肩代りできん。だが、支えくらいにはなれたら良いと願っている。願うくらいならば自由だろう?」
願うくらいは自由か。確かにそうだと気分が軽くなる。
「ありがとう」
不思議なことに、こういう時の海は桂が無意識に望んでいた言葉をくれる。素直に受け取れば、それは安らぎを与えてくれるものだ。
片肘など張らず、ありのままの己で良いのだと、そんな気分になる。
感謝の言葉の返礼は、柔らかな笑みと照れたように少し乱暴に頭を撫でる手の感触だった。




