35.過去からの謝罪 その漆
どちらにしろこの男達は中枢に運ぶ必要があるわけだし、海ならばなんとでもできるはずだ。
「海」
本当に名を呼ぶだけで来るかは半信半疑だったが、次の瞬間には海が桂の視線の先にいた。本当に神出鬼没な、よく分からん男だ。
「桂。これは……」
周りの惨状を見た海が、現れた当初は浮かべていた笑みをへにょりと情けないものに変化させ、どんよりと項垂れる。
「例の奴らだ。中枢に引き渡してくれないか?」
桂の言葉に海が軽く手を振った。動作はそれだけ。だが、男達の姿がその場から消える。
その様子に目を見張った後、桂は息を吐き出した。なんでもありなこの男なら、それだけで済ませられてもおかしくない。
そう諦めて彼女は不自然に傾いたまま停止していた棚に向け、元に戻るよう命じた。すると、何事もなかったかのように棚が元の位置に戻る。
海がその様子を目で追って、力無い笑みをその顔に浮かべた。
「……伴侶殿が男前過ぎて、ちょっと淋しい。わしって役立たず」
ぽつりと呟き、海はガックリと肩を落とす。心底意気消沈しているらしいその様子に罪悪感を覚えた桂は、思わずその頭に手を伸ばし、彼の髪をクシャクシャとかき乱す。そうしてから自分の行動に自分で驚き、彼女は慌てて手を引っ込めた。
キョトンとした様子で頭を上げた海が、桂を不思議そうに見る。だが、桂の方はそれどころではなかった。心臓が不自然に早鐘を打ち始め、それに更に動揺する。
「伴侶殿。どうかしたのか?」
首を傾げた海から、桂は一歩後退さった。
「どうもしない。後始末を押し付けて済まない。そう思っただけだ」
「ああ。あれくらいどうということもない。あとは九曜がなんとかするはずだ。それよりも、伴侶殿がわしのことを少しでも頼ってくれてうれしい」
にっこりと笑み浮かべた海に、桂が更に一歩後退さる。
「伴侶殿。やはり様子がおかしくないか? 疲れたなら今日はもう休んだ方がいいぞ。明日の朝までこの店と家には、誰も近づけないようにしておくから気にしなくていい」
「ああ」
素直に返事をする桂に、海が訝しげな顔をする。
「やはりおかしい。いったいどうしたのだ? いつもの伴侶殿なら、ここで拒否しようとするはず」
ブツブツと海は呟いているが、桂としても自分がなぜ彼から逃げているのかよく分かっていない。ただ、今は無性にこの男の側にいたくないのだ。ただ、落ち着かない。
海が無造作に一歩近づき、桂が反射的に一歩後退さる。
その様子に彼はようやくその原因が、自分にあるのではないかということに気づく。
「伴侶殿に警戒されるような心当たりはまったくないんだが――わしは何かしたか?」
困ったような顔で伸ばされた海の手を、桂は反射的に弾き返す。そうしてからそんなことをした自分に驚き、悔やむような顔になった。
「なんでもない。たぶんあんな風にあの力を使ったのは久しぶりだから、少し神経が過敏になっているだけだ。少し休めば元に戻る」
その言葉に納得できなかったらしい海が急に桂との距離を詰め、逃げようとした彼女の身体を抱き締める。
「何を……」
上げかけた悲鳴を飲み込んで、桂は彼の腕の中で固まった。
「う~む。なんとなくこうするのが一番良いかと思ってな」
宥めるように髪を梳く手の感触とすぐ傍から伝わる熱に、彼女は気恥ずかしさを感じて更に身を固くする。
「なあ、桂。この髪、伸ばす気はないか?」
耳元で海の問う声が聞こえた。
「きれいな髪なのに、短いのは酷くもったいない。長い髪も桂には似合うと思うぞ」
手にすくっても、短い髪はすぐに滑り落ちてしまう。サラサラでまっすぐな髪は伸ばせば、よりすべらかな感触を味合わせてくれるはずだ。
「桂?」
こういう時に限って名を呼ぶ海に、桂の内心は気恥ずかしさと苛立たしさでない交ぜになる。だから、それに気を取られていた彼女は、彼の前にその無防備な姿をさらしていた。
「桂が無事でよかった」
愛しみを含んだ穏やかな声の囁きが桂の耳に届き、その頬に柔らかな何かが触れる。
「隙あり」
パッと桂から離れて彼女の様子を窺った海は、どうにも鈍いとしか言いようのない彼女の反応に首を傾げる。
普段ならこんなことできる隙すらない。成功する前に拳が飛んできそうなのだが、今日の彼女は無防備過ぎて彼の調子も狂っていた。
「伴侶、殿?」
拳も蹴りも、怒声もない状況に混乱して海は問い掛ける。
その声でようやく正気に戻り、海が頬に口付けしたことを悟った桂が、瞬時にその頬を赤く染めた。戸惑う瞳がユラユラと揺れ、その姿は彼の瞳にはひどく可愛らしく映る。
「伴侶殿ったら、照れてる? 可愛い」
その考えがそのまま口から零れ落ち、そんな海に問答無用で桂の拳が振り上げられる。直撃は痛すぎるとのけぞった彼の顎を、その拳はかすめていった。
「……痛い」
それは直撃しなくても十分な威力を持っていた。
「大人しく殴られろ、変態」
数歩離れ、本気で痛そうに顎を摩る海を桂は睨みつける。
「暴力反対。店内で暴れていいのか?」
「……おまえに言われずとも分かっている。だから、一発で勘弁してやる。大人しく報いをその身に受けろ」
両者、互いの隙を探して見つめ合う。
「先程の照れる伴侶殿も可愛かったぞ。だが、いつもの伴侶殿の方がしっくりくるというか……こうしていると、妙な趣味に目覚めそうだな」
しみじみと告げられて、桂が微妙な顔になった。
「おまえ、ついに本当の変態に……」
戦闘態勢を解かれ、彼女から哀れみの視線を向けられて海が怯む。
「酷い。わしは純粋に伴侶殿が大好きなだけなのに……」
しょげかえった様子で恨めしげに見られて、今度は桂が怯んだ。困ったように小さく息を吐き出し、彼女は口を開く。
「おまえが紛らわしい言葉ばかり使うからだろうが。私にはおまえの言葉がどこまで本気で、どこまで冗談なのかさっぱり分からん」
海はただ、自分の気持ちに正直なだけかもしれない。だが、時と場合によっては使って良い言葉も、良くない言葉もある。何より彼の感情表現はあまりにもまっすぐ過ぎて、受け取る方がどう解釈したらいいのか困るほどなのだ。
「伴侶殿に対する言葉に嘘はないよ」
こんな風に告げられてしまうと――。
「……おまえ、やっぱり変態に」
対処に困った桂は、どうしても茶化したくなってしまう。
「桂」
静かな声で言葉を遮られ、海の顔を見た桂は息をのむ。
「わしは桂を愛しているよ。それこそ、欠片一つ残さず食べてしまいたいほどに。でも、それは種族の因業だからではなく、わしが桂を大好きだからだ。だからこそ、長くその傍にありたい」
微笑を湛えた海が悲しそうな瞳で桂を見ていた。そっと近づき、彼女の頬に手をそえる。
囚われたように桂は身動き一つできず、ただ彼の姿を見ていた。
「ウイの一族は永い生涯で、ただ一人だけ伴侶を選ぶ。己のすべてをかけて生涯を共にする。その死まで。わしの場合はそれがおまえだ。だから、逃がしてはやれない。桂。わしの愛しい伴侶殿」
そっと触れるだけの口付け。時間にして数秒。
それなのに酷く長く、温かいはずの唇は冷たく感じた。
「今日はゆっくりと休むんだよ、伴侶殿」
愛しさと切なさを含んだ瞳で、憂いの浮かぶその顔で海は微笑み、彼女の頬をやさしく撫でる。
頬から離れた手を、その場から消えた彼の姿を追うように桂は無意識に手を伸ばし、それに気づいてその手を胸元で握り締めた。
「なんなんだ、あいつは……」
あんな告白をして、あんな口付けをして、あんな風に笑うくせに。
その姿はまるで逃げるようにかき消えて――自分の方が傷ついた瞳をしていた。
それは、ほんの一瞬のこと。たぶん彼自身も無意識だったろう感情。けれど――。
そんな風にさせたのは桂だ。やるせなさに酷く胸が痛んだ。
騒動のせいで散らかってしまった店内の片付けすらやる気が起きず、桂は戸締まりをして奥へと引っ込む。無意識に己の唇へと触れていた手に気づいて、彼女は深く息を吐き出したのだった。
これにて「過去からの謝罪」は終了。




