34.過去からの謝罪 その陸
そうして数日が過ぎた。意外にもなかなか訪れなかったタクに、桂は呆れにも似た思いを抱く。のんびりとしていて標的が逃げたらどうするのだ、と。
だから、ようやく訪れた彼の姿を目にした彼女は、その顔に皮肉な笑みを浮かべる。
「ずいぶんと遅いお迎えだ」
開口一番でタクにそう声を掛ければ、彼は僅かに目を見開いた後、訝しげな顔になった。
「だが、生憎と私は売られる気がない。何もせずにこの街から出ていくと言うのなら、私もおまえには何もしない。選択肢をあげよう。どうする?」
続けられた桂の言葉に、タクの表情から血の気が引く。
これが彼女が彼に提示できる譲歩であり、手紙を届けてくれた礼でもあった。何もしないのであれば、彼は罪を問われることなくこの街を出れるはずだ。ギリギリだが、規律違反にはなっていない。
だが、タクは白を通そうとした。
「……桂さん。いったいなんのことですか? 誰かとお間違えではないですか? 私は今日、あなたに薬の依頼をお願いしに来ただけです」
笑みを浮かべて近づいてくるタクを、桂は冷やかに見つめる。
「おまえの立場は教えてもらったので知っている。だからこその忠告だ。それ以上近づけは、私はおまえを力づくでも排除する」
タクの足がピタリと止まった。その顔の笑みが消え、悲しそうに歪められる。
「こういうことになるとは思っていなかったが、私が以前に忠告した言葉を覚えているか? この街では外の揉め事を持ち込むのは禁止だと。ユーラの手紙を渡してくれたおまえに、私はこれでも感謝している。だからこそ、余計に――」
「あの手紙が原因だった。あれさえなければ、私も、私の家族も、こんな風にはならなかった」
桂の声を遮り、タクが呻くように言葉を絞り出す。
「祖父の話が事実なら、あなたはセイレーンだ。いや、正確にはセイレーンの歌声も尾も無くした、徒人と変わらない存在だ。けれど、手紙にはそんなことは書かれていない。あいつらはその事実までは知らない。身勝手なことだと分かっている。だが、あなたさえ渡せば、家族は返してくれるとあいつらは言った。お願いだ。このまま大人しく私と一緒に来てくれ」
桂を見るタクの瞳が必死な思いを宿していた。
家族が大事なのだ。他の何を犠牲にしたとしても――。
その思いは桂にも分かる。だが、彼女は彼のために、その家族のために己の身を犠牲にするつもりはない。
「私が今おまえと共に行ったとしても、街を出ることも叶わずに終わるだけだ。この街の規律を破る者を、中枢の連中は逃さない。おまえの行動はもう見張られている」
これは最後の温情だった。
ここでタクが思い止まれなければ、彼は中枢に連行され取り調べを受けるだろう。桂とて己の身を守るために彼に手を下し、その身を中枢に引き渡さなければならなくなる。
彼女が望む望まないに関係なく――。
タクの足が一歩、前へと踏み出された。
「それ以上、近づくなと言ったはずだ」
桂は忠告するが、彼の足は止まらなかった。
「徒人と同じなら、私でもなんとかなるはずだ。たとえ力づくになろうとも、あなたには一緒に来てもらう」
桂は諦めのため息をつく。
やはり説得など無理だったか。そんな思いが胸中を渦巻き、
『止まれ』
力を込めた言葉を口にする。
タクの動きが不自然な体勢で止まった。彼は己の身体に起こった現象に驚愕する。
「あの連中には誰にも話さなかったことだから知らないだろうが。生憎、私は徒人とは少し違う。確かにセイレーンの歌声も尾も失って久しいが、セイレーンとしては変わり種だからな。他にもいるだろう?」
その言葉に先程とは別の意味で驚くタクから視線を外して、桂は死角の多い狭い店内を見回す。
『出てきて、整列』
タクの他にも気配はあった。隠していたようだが、海のようにまったく気配のない男を相手にするうちに感覚が鋭敏になったのか。それはずいぶんの稚拙に感じ、桂には丸分かりだった。
二人の男がギクシャクとした動作で現れ、一列に並ぶ。どちらも自分の身に起きていることが信じられないようで、その顔に驚愕を浮かべていた。
「セイレーンの歌声に対する対策はしていただろうが、それでは私には意味がない。期待外れで悪かったな」
桂はにっこりと微笑む。
「私の意思は変わらない。あなた達の商品になるつもりはこれっぽっちもない。そこの商人の言うように私はもうセイレーンでもないから、諦めてくれるとこちらとしてもうれしいんだが――やはり無理か」
ギリギリと歯ぎしりでもしそうな、そんな形相で自分を見る男達に桂は肩を竦める。この力ならば、使い方によってはセイレーンの歌声よりも利用価値が高い。だからこそ、知られるのは好ましくない。
『この店の中で見聞きしたことすべて、私のことも忘れろ。命尽きる、その時まで忘れることを命じる』
虚ろになるタクと二人の男の瞳に、桂は嫣然と微笑む。
『朝日を浴びるまで、眠れ』
言葉と共にその場に崩折れる男達を見るでもなく、瞬時に近づいた気配に拳を繰り出す。
「やはり鼠がもう一匹いたか」
桂の言葉を聞いて笑い、繰り出した拳を避けた男が一人、そこには佇んでいた。
「私の店は狭いんだ。貴重な原料もたくさんある。ごちゃごちゃ動かれるのは、こちらとしては非常に困るんだ。だから――」
繰り出した拳は男に当たることなく空振りし、
『眠れ』
桂は苛立ちながら言霊を紡ぐ。
その瞬間、男がほんの少し体勢を崩し、再び繰り出した桂の拳が男の頬に当たってその身体を吹き飛ばす。進行方向にあった棚にそのまま男の身体はぶつかり、棚が大きく揺れた。それに桂が慌てて新たな言霊を紡ぐ。
『止まれ』
それは棚と男の双方に作用し、棚は不自然に傾いた状態で静止し、男の方は止まるまではいかなくとも、先程より動きがかなり鈍くなった。
『止まれ!』
桂が先程よりも強く言霊を紡ぐ。すると、ようやく男の身体が静止した。男が桂の顔を見て、その顔を歪める。
「売るにはもったいないな。おまえ、俺の部下にならないか?」
口から出たしわがれた声に、桂が不機嫌に鼻を鳴らす。
「私は今の生活が気にいっている。職変えする気も、人身売買に手を貸すつもりもない」
捕われた状態だというのに、男はその顔に下卑た笑みを浮かべてみせた。
「それとも俺の女になるか? セイレーンなら良い声で鳴くだろう?」
桂の顔から表情が消えた。彼女は動けない状態の男に近づき、無言で男の急所を蹴りつける。
『眠れ』
苦悶の表情を浮かべたまま、ガクリと男の身体から力が抜けた。
言霊は意思が固いほど、効き目が鈍くなる。相手が警戒すればするほど効かないのが難点だった。だが、それなら警戒する意思すら浮かばないほどの何かで意識をそらし、その隙をつけばいい。それで効き目がある。
いくら不愉快なことを言われようと、この状況ならば正当防衛が認められようとも、桂はもうこの力で誰かの命を奪うつもりはない。二度とこれで他人の命は奪わないと、あの時、桂の言霊で荒れ狂う海原を目にして誓った。
『朝日を浴びるまで、眠れ。この店の中で見聞きしたことすべて、私のことも忘れろ。命尽きる、その時まで忘れることを命じる』
眠る男に先程の男達に告げた言葉を繰り返す。眠って無防備になっている今ならば、その効力が阻害されることはない。
店内の床に転がる四人の男達と、暴れたことで多少荒れてしまった店内に、桂はため息をつく。不自然に傾いたままの棚を元に戻したい所だが、それにはこの場で眠る男達が邪魔だった。
うっかり対象がそれて、男達に使った言霊が解けてしまっては困る。かといって、四人もの男を店外に排斥するのは重労働でやりたくない。
どうしたものかと少し考え、彼女はふと海の言葉を思い出したのだった。




