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33.過去からの謝罪 その伍

「まあとにかく、伴侶殿の言う通りその可能性もある」

 書類にはいくつか気になる内容があり、ある組織的な動きが背後に絡んでいそうな気配がしていた。

「人身売買か。まったくもって不愉快な話だ」


「その標的になっているのは、今回。伴侶殿なんだけど――」

「だからなんだ。私はそんな奴らに大人しく売られるほど、非力ではないつもりだが?」


 海の言葉をピシャリとはねのけ、桂は彼の顔を睨みつける。

「伴侶殿が強いのは知っているよ。だが、この間のテスの件もある」

 それを指摘されると痛い部分はある。あの時、あっさり攫われたのは桂の落ち度だった。だが、今回は初めから相手の真意が分かっている。油断などしないし、手加減する必要性も感じない。

「確かにあれは私の油断が招いたことだった。だが、同じことを二度、繰り返しはしない。それに今回は、何もすべてを私が相手にするわけではないのだろう? 人身売買はこの街の規律に抵触する。あれは外の柵が多過ぎるからな。ならば、人身売買を扱っている組織の方は中枢が始末するはずだ。違うか?」

「違わない。だが――」

 その読みは正しい。事実、九曜はそちらの手を打っていて、現在、非常に忙しく立ち回っていることを海は知っている。

 それでも、桂が危険にさらされる可能性はゼロでは無い。その動きを気取られないように、商人は最後まで泳がされる予定なのだ。


「おまえは手出しするなよ。余計に面倒なことになるだけだ」


 海の反論を遮り、桂は先手を打って無情にも彼が手出しすることを禁止した。

 タクが組織の人間かというと、これまた少し違うような感じなのだ。どうやら彼は家族の命を盾に脅されて、使われているらしい。どことなく人の良さそうな感じの人物だったから、どうせ騙されるかしてそんな風な立場に追い込まれたのだろう。

 だが、海にはそんな事情は関係ない。この男に機敏な対応を求めるだけ無駄だ。

 桂とて売られるわけにはいかないから、相手を許すわけにもいかない。だが、無罪放免とはいかなくても、さすがにタクまで組織の者共と同列に扱うのは気が引けたのだ。せめて、あの手紙を届けてくれた分の駄賃くらいは、と。


「それは、伴侶殿。いくらなんでも――」

『黙れ』

 危険だ、と告げるはずだった声が出なかった。海は驚愕に目を見開き、己の喉を押さえる。

 言葉が音として出てこない。いくら声を出そうとしても、それは音にならなかった。

「おまえにもしっかり効くものなんだな、私の『声』は」

 桂を見れば、彼女は自嘲の笑みをその顔に浮かべていた。

『解除』

 彼女がそう告げれば、海の声が戻る。

「言霊師」

 驚いたように彼は呟いた。


「珍しいだろう? 稀にセイレーンの中にはこの力を持つ者が生まれる。不思議なものだよ、本当に。セイレーンの歌声は失っても、この力は残っていた」


 呪術とは違う。言霊師には決まった定型文のようなものは必要ない。言葉に帯びる力が、込められた意思にそのまま作用して相手を従わせる。セイレーンの歌声は、呪術と仕組みが似ている。その歌には必ずしも言葉の必要はないが、彼女達にしか作り出せないある特定の旋律で相手を魅了し操るのだ。

 ただ、セイレーンの歌声が生物にしか作用しないのに対し、言霊師が使う言葉は生物だろうと物だろうと関係なく作用する。


 同じ音を使うものであっても、その仕組みは違い、利用価値も全然違った。

 桂はこの力のことを同族以外に話したことがない。過去に愛し、殺した男にすら話さなかったし、そうと分かる行動も取らなかった。姉の忠告があったとはいえ、たぶん、あの男を心の底からは信じ切れなかったのだ。

 今だからこそ、そう思える。


「歌声を失った私がどうやって復讐したと思う? この『声』を使った。私は海原に出た男達同様に、海原をも呪った。私が海原に拒絶されるのは、私自身が初めに拒絶したからだ。セイレーンでなくなったからではない」


 セイレーンでなくなり碧い海原へと至る道を失ったとしても、海原にまで拒絶されることはなかった。

 桂のごうがあまりに深かったために起きたそれは、偶然が重なり成り立った哀しい現実。彼女が言霊の力を持っていなければ、また違った今があったのだろうが――すべてはもう、通り過ぎた過去だった。

 現実に、もしもはない。


 同族以外ですべて話したのは、海が初めてだ。

 桂よりも強い彼なら、このことを話してもこの力を利用しようと考えることはない。その必要性がないだろうし、それによって態度を変えることもないと彼女は彼を信じている。否、信じたかった。


「……その力を一番厭うているのは、伴侶殿自身なのだな」


 ポツリと悲しそうに海が呟く。

「この力を使えば、私はおまえをも殺せるかもしれないぞ?」

 暗い笑みを顔に浮かべた桂を、海が困ったような顔で見下ろす。


「それはたぶん無理だよ、伴侶殿。知ってしまえば、無理だ。音にする前に声を封じれば良い。それにわしは同族にしか殺せない。寿命で死ぬか、同族に殺されるか。ウイの一族ではそれが死というものだ。試してみるか?」

 桂の顔が僅かに歪められ、次の瞬間にはその顔から表情がかき消えた。

「すまん。だが、それが事実なのだよ。不本意この上ないが、このままいけばわしは必ず伴侶殿より長く生きることになる。だから、な。桂がわしの命を背負うことは、今後どれだけ経とうともない。その点は安心して良いぞ」

 悲しそうに微笑まれて、本心から言っているだろうその言葉に桂は困惑する。


「なぜ、長く生きることが不本意なんだ?」


 死は未知なるもの。だというのに、まるでその言い分では桂より早く死ぬことを望んでいるようだった。


「桂のいない現し世に、どれほどの生きる意味がある? わしにはまったくないぞ」


 当然のように真顔で返され、一瞬、胡乱に海を見た後に桂は俯く。

 なんだろう、この奇妙な生き物は。

 そんな言葉が頭を過ぎる。海の思考回路は絶対に変だ。いや、それは以前から分かっていたことだが――ここまでまっすぐに好意を示されると本気で困る。


「どうした、伴侶殿? わしは何か気に障ることでも言ったか?」

 黙った桂の顔を、海が腰を屈めて覗き込む。

「なんでもない。とにかく今回、おまえは手を出すな。それとな、声を封じられても力は使えるぞ? 声を使った方が、効率が良いだけの話だ。だから、明確には言霊師とも違うのかもしれん」


 気遣わしげな視線を真っ向から受け、桂はその視線から目をそらしたくて仕方なかった。だが、ここで妙な動作をすれば海に悟られてしまう。だから、なんでもない風を装って話を戻した。

 海がガックリと肩を落とす。


「どうしても?」

「駄目だ」


 海が下手に暴れられたら、被害が拡大しそうなのだ。たぶん、碌なことにならない。それは前回、彼が取った行動が示していた。あの、地獄絵図の再来はさすがに避けたい。

 不貞腐れた顔で息を吐き出した海は、拒否されてもどうしても諦めきれなかった。だから――。

「伴侶殿。危ないと思ったら、対処に困ることがあったら、絶対にわしを呼ぶのだよ。名を呼んでくれれば、どこにいようと伴侶殿の声なら聞こえるから」

「……わかった」

 譲歩した海に、仕方なく桂も頷いた。


「絶対だ、桂。約束してくれ」

「ああ。約束する」


 ようやく諦めがついたのか。情けない顔に笑みを浮かべた海の姿を、桂は笑み含んだ顔で見つめる。心が妙に温かく、くすぐったい。そんな思いを彼女は無意識に抱いていた。



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