18.姉からの手紙 その肆
そうして翌日。
店を閉めたまま居留守を使い、藍と会わずに済ませてしまおうかという思いと戦いながら、桂は落ち着かない様子で店内をウロウロし、気を紛らわせるように片付けをしていた。
その姿を調合机の側に置かれた椅子に座って、海は何をするでもなく笑顔で見物している。
「伴侶殿。そんな風にウロウロしていないで、こちらに座って少し落ち着いたらどうだ?」
「こんな気分で落ち着けるものか。まだ動き回っていた方が、気が楽だ」
不安を隠しもせずに、あっちにウロウロ。こっちにウロウロと狭い店内を動き回っている桂の姿に、少し困ったような表情を浮かべながらも、それでもおかしそうに海は見ていた。
そんな時、ドアベルが軽快な音を鳴らし、誰かの来店を告げる。
二人の視線の先に現れたのは、彼らが待っていた少女だった。藍は桂がすぐ側で立っていることに気づき、驚いた様子でその場に立ち止まる。
「あの……」
藍の胸元で握り締められた拳が震えている。
「あのな」
桂がそれを目にして、気まずそうな顔になる。
「「昨日は――」」
「ごめんなさい」
「すまなかった」
藍と桂の声が重なった。そのことに驚き、互いの顔をまじまじと見つめ合う。
「おまえが謝ることなど、何一つないだろう?」
桂が不思議そうな顔で問えば、
「なんでお母さんが謝るの?」
藍もまた、不思議そうな顔で首を傾げて問い掛ける。
外見は似ていないのに、その様はそっくりだった。
海は思わず声を立てて笑い出しそうになり、ぐっと腹に力を込めてそれを押さえる。さすがに今、二人の邪魔をするわけにはいかなかった。
桂は息を吐き出し、それにピクリと怯えたように震えた藍の姿に、困ったような笑みをみせる。
「昨日の私の態度は、悪かっただろう? おまえを傷つけた。一度も会いに行かなかった、こんな私を母と呼んでくれたのにな。すまない」
ブンブンと首を横に振る藍の頭にそっと手を伸ばし、桂はゆるりと撫でる。
「お母さんは悪くない。私が突然過ぎたの。あの後、怒られたわ。いきなり会いにきた、産まれてから一度も会っていない娘に、結婚するからその相手に今すぐ会って欲しい、祝福して欲しいなんて言われても、誰だって戸惑うだけだって。だから、ごめんなさい」
藍は窺うように上目遣いに桂を見る。
「怒られた、とは、おまえの婚約者にか? 今日も外で待っているのか?」
「そう。ライ様に怒られたの。先走り過ぎだって。ライ様は、今日はいないわ。私をここに送り届けた後、街の中を見物してくると仰って。お昼の鐘が鳴る時間に迎えに来る、と行ってしまったから」
街中を見物?
何かこの街に見物するようなものでもあっただろうかと、桂は首を捻る。
それにずいぶんと豪胆だ。冷静になって考えてみれば、あの姉が藍の相手として認めたのだから、それなりの人物でなければおかしい。
「お母さん。ライ様に会うのは――駄目? ライ様、とっても良い御方なの。職業は鍛冶師をやっていて、確かに口数は少ないし、地顔が顰め面だし、図体は筋骨隆々でかさばるし、近所の子供達には恐れられてよく大泣きされているけど……根は優しい方なのよ」
ポッと頬を染め、その頬に手を当てうれしそうに婚約者の話をする藍の姿は可愛らしい。だが、その内容は色々問題ありだ。相手を褒めているというより、貶している割合の方が大きい。
それでも結婚しようと思うくらい相手が大好きなのは、藍の様子からも十分に伝わってくる。それだけに本人は無自覚だろうから、そのことを指摘するのは気が引けた。
ただ、藍が選んだ男が彼女の父親とは全然違うタイプらしいことを知って、桂は少しだけ安堵する。あの男はどちらかというと、そう――海に似ていた。女たらしの部類だった。
まあ海の方が容姿、その他、色々な部分で勝ってはいるのだが。
本人を前にしては貶してばかりの男を、無意識に心の内で褒めながら桂が対処に困っていると、後ろの方から堪えられなくなったらしい息も切れ切れな笑い声が聞こえてきた。振り向けば、周りと同化していたのかと思えるほど存在感の薄くなっていた海が、腹を抱えてゲラゲラと笑っている。
海はやはり変な奴だと思う。存在するのに存在しないと思えるほど、気配を隠すのが上手い。だが今は、場の空気を読まないその笑い声が非常に耳障りだった。
案の定、海の存在に気づいていなかった藍が驚いた表情で、桂の後ろを覗きこんでいる。
「うるさい、変態」
桂が怒鳴りつければ、ピタリと笑いを止めた海が、
「伴侶殿、酷い。昨日、ようやくわしの名を呼んでくれるようになったと思ったのに――」
態度を一変、しおれた様子で恨めしげに桂を見た。
「伴侶、殿?」
藍がぽつりと呟く。その声に彼女を見れば、なぜかその瞳がきらきらと輝いていた。
「お母さん、よかった。この御方が今のお相手なのね」
桂の手を取り、藍がきらきらと輝く瞳のままうれしそうに告げる。
「伯母さんも心配していたの。あんなどうでもいい男のことなんかとっとと忘れて、地上で新しい男を見つければ良いんだって。よく私に愚痴を零していたわ」
ああ、と遠い目をして桂は思い出す。
確かに姉はあの男のことを初めから最後まで反対し、忌み嫌っていた。彼女ならそう言っていてもおかしくない。おかしくはないのだが、それを藍に言うのはどうかと思う。
限定的な場所で育つセイレーンの子育ては、母親を主にして、そこに留まる同胞すべてで行われるので父親は割り入れないし、そもそも、藍の父親は彼女が産まれる前に死んでいる。だが、それでも父親であることに変わりはないのだ。
「このことを知ったら伯母さん喜ぶわ。きっととんでもない勢いでお店も放り出して、ここに来るんじゃないかしら」
にこにこ笑いながら興奮したようにしゃべる藍の言葉を、現実逃避しながら聞いていた桂は、最後のその台詞に正気付いた。
冗談抜きに姉なら即実行しかねない。そんな恐ろし過ぎることを容認できるほど、桂の心臓は丈夫ではなかった。下手をすれば、あの姉は海に喧嘩を吹っ掛けるかもしれないのだ。
「藍、誤解するな。こいつとはなんの関係もない。こいつはな、女たらしのすけこましの変態で、この店に入り浸っているだけの存在だ」
早口にまくし立てる桂の必死な様子に、藍が彼女から離れて海の方へと歩いていき、椅子に座る彼の前で立ち止まる。
「母はあんなこと言ってますけど、本当の所はどうなんですか?」
コテンと可愛らしく首を傾げる藍に、海は笑顔で告げる。
「わしは伴侶殿を愛しいと思っているよ。その、脆さも含めて、すべて」
愛しさと切なさと、ひたむきで狂おしい想い。
すべてがない交ぜになった翠玉の瞳をまっすぐに向けられ、藍はにっこりと笑った。
「あなた様の想いはわかりました。伯母が母は少々捻くれて意固地と言っていましたが――母のことよろしくお願いします」
ぺこりと下げられた頭に、海は声を掛ける。
「伴侶殿は可愛い女子だよ」
頭上から降る笑み含んだ声に、頭を上げた藍は笑みを消して真顔になる。
「ただ、もしあなた様が母を傷つけるようなら――私が、あなた様を永劫の闇に沈める呪歌を贈りましょう。覚悟しておいてください」
海にだけ聞こえるように潜められた声は、歌うような旋律を微かに刻む。その旋律こそが、何者をも惑わせるセイレーンの歌声の根源。だが、彼はその声にすらにっこりと笑ってみせた。
「魅力的な言葉だが、それなら伴侶殿に誘って欲しいな。魂だけになっても、伴侶殿の胸に抱かれるなら――ふむ。昇天しそうなほど、心地良さそうだ」
恍惚とした低く艶やかな声の囁きに、藍は顔を赤くする。そのまま猛然と桂の所に戻り、
「お母さんが変態扱いする意味が、分かってしまいましたわ」
赤い頬に手を当て、戸惑ったように呟いた。
二人のやり取りする声が小さくて聞こえなかった桂は、酷く動揺した様子で戻ってきた藍に、海が何かとんでもないことを口にしたことだけは理解した。彼女は猛然と海の傍へ行き、
「娘御も酷い」
藍の呟きが聞こえたらしい海が悄然と呟く頭に、思い切り拳を振り下ろしたのだった。




