17.姉からの手紙 その参
桂の姿はすぐに見つかった。彼女は居間のソファに座り、ぼんやりと空を見つめていた。
「伴侶殿。娘御からの伝言だ。また明日来ると」
海がそう告げると桂の肩が小さく震え、その表情が強張った。
「……待っていたのだろう? 海原の近くでは暮らせない。だが、そこに置いてきた娘御のことはずっと気掛かりだった。この街を選んだのは、伴侶殿迷い、いや無意識からかもしれないが。セイレーンが訪れることのできるギリギリの内陸地で、ずっと――海原に会いには行けないから、いつか会いに来てくれることを待っていたのだろう?」
すべては海の憶測でしかない。だが、セイレーンでなくなった桂ならば、その行動は海原に縛られない。もっと遠くまで行くことができるはずなのだ。
「違う!」
桂が顔を上げ、海を睨みつける。
「違う。憶測で物を言うな。おまえに何が分かる」
琥珀色の瞳がユラユラと揺れている。
怒りと悲しみ、憎悪と情愛。
様々な感情が映し出される瞳の端から、ポロリと雫が一粒だけ零れ落ちた。
「おまえに、私の何が分かる!」
頬を伝う涙を拭いもせずに、桂は海を睨みつけたまま叫ぶ。
「私はもうセイレーンではない。あの子を産みはしても育てられなかった。母親にはなれなかった。そんな私があの子が会いに来てくれることなど望んでいいわけがない。望めるわけがない」
本当はその涙を拭ってやりたい。震えるその身体を抱き締めたい。けれど、そうして不用意に近づけば彼女は海に怯えるだろう。今の彼女は手負いの獣と同じだ。
だから、海は彼女から一定の距離を置いたまま、困ったような表情に笑みを浮かべる。
「これでもわしは長く生きているからな。セイレーンという部族に対しての知識もそれなりに持っているのだよ。セイレーンは碧い海原で子を育てる。そうでなければ、産まれたばかりの子は生きられない。だから、伴侶殿は手元で育てられなかったのだろう? その時にはもう、セイレーンではなくなっていたから」
桂が海から視線を外して下を向いた。
それは事実だ。けれど、それだけではない。
「そんなきれいな理由ではない。私の中には自分でも制御できない憎悪があった。私を裏切り、道具にした男への。歌声と尾を捨てた、セイレーンでなくなった私を捨てた男への。その憎悪のために、私は海原を呪詛の道具とした。男の魂を胸に抱くことなく、永劫の闇に葬り去った。私の所業は他のセイレーンとは違う。醜悪なものだ。だが、それでもこの胸に巣くう憎悪は消えない。そんな時だ。娘が腹にいると気づいたのは」
なぜこんな話を海にしているのだろう。
そう思うのに、口は止まらなかった。
「男の血を継ぐ、娘だ。それと同時に私の娘だ。愛しいと思ったよ。でも、同じくらい憎くも思えてしまった。そんな思いを抱えて、娘の側にいることなどできるはずもない。そんな思いを抱え続けることに疲れてしまった。だから、産んで姉に託して、そのままだ。一度も会いに行かなかった。酷い母親だろう? 私に母を名乗る資格などない」
自嘲の笑みを浮かべた桂を、海は複雑な気持ちで見つめる。
「愛情と憎悪は表裏一体だ、伴侶殿。愛が深ければ深いほど、憎しみもまた深くなる。わしの口から言うのは非常に不愉快だが、それほどにその男を愛していたのだろう。裏切られて、悲しく、悔しくて、どうしようもないほどに。だからこそ、産んだのだろう? だからこそ、信頼できる者に託したのであろう? それらすべては伴侶殿の愛情と優しさからくるものだ。娘御もそれを知っているから、会いに来たのだろうよ」
海の言葉の真意を探るように、桂の瞳が彼をまっすぐに見た。その瞳は潤んでいても、もういつもと変わらない強い意思の光を宿し始めている。
「伴侶殿はただ情が深いだけだ。それは恥じる所でも否定する所でもなく、堂々と自慢して良い所だとわしは思うぞ」
ニカッと笑って断言した海に、桂は小さく息を吐き出す。
「なんだかおまえに言われると、そんな風に思えてくるのだから不思議だな。さすが女たらしの言葉は違う」
陰りが少し残っていたとしても、その顔に小さな笑みが浮かんだことに海は安堵すると同時に、彼女の言葉にへこむ。
「伴侶殿、酷い」
がっくりと肩を落とした海に、桂はやわらかな笑みを向ける。
「ありがとう、海」
自然と感謝の言葉を口にしていた。海がガバリと音が聞こえそうな勢いで顔を上げる。
「伴侶殿、今、名を……」
大きく見開かれた瞳の端からポロリと雫が零れ落ちた。
その様子に桂がギョッとする。海も驚いたように自分の目元に手をやった。
「伴侶殿に、泣かされた」
呟かれた言葉に、桂が慌てる。
「人聞きの悪いことを言うな。そんな、泣くようなことか?」
大の男がこんな無防備にボロボロと涙を流す姿など、彼女は見たことがない。女子ならともかく、自分よりずいぶん年上の男を泣かしたことなど無いし、それこそ泣き止ませる方法など知らない。
「伴侶殿。もう一度、呼んでくれ」
名を呼ぶことを望む海に、
「泣き止んだら呼んでやる」
桂は途方に暮れて、そう要求を突き付けた。すると、海は子供のように目元を擦って涙を拭い、必死で止めようとする。
そのあまりに必死な様子がおかしくて、桂は声を立てて笑った。
「変な奴だとは思っていたが、やはり変な奴だな、海は」
カラカラと笑う桂の姿に、涙が止めた海もまた、その顔に笑みを浮かべる。
「伴侶殿に名を呼んでもらえるのはうれしい」
こちらは苦笑に近い笑みだったが――。
「……あのな。明日、いてくれるか?」
小さな消え入りそうな声で躊躇いながら問われた言葉に、気まずそうに海をちらりと見てすぐに視線をそらした桂の姿に、彼の笑みが苦笑から愛しげなものへと変わる。
「わしは伴侶殿の願いなら、どんなことでも叶えるよ」
あまりにやさしく響くその声に、桂はまたちらりと海に視線を向ける。
「今のわしは、伴侶殿のためにあるのだよ」
砂でも吐きそうな甘い台詞に、桂の眉間には皺が寄った。
「おまえは本当に、女たらしだな」
その言葉に海の顔が情けないものになる。
「伴侶殿。この流れでその言葉なの? もう少しわしのこと、信用してくれても良くない?」
がっくりと肩を落とす海を、桂は笑い飛ばす。
「おまえは根が女たらしなんだ」
言葉は同じなのに、不思議とその声は皮肉な感じがしなかった。それに気づいたらしい海が顔を上げ、情けない表情のまま笑みを浮かべる。
「……伴侶殿が少しでも元気になったなら、それでいい」
そんな彼に桂もまた、素直な気持ちで笑みを返したのだった。




