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怒りの書状



 春の訪れとともに、ヴァレール公国には穏やかな日々が流れていた。




 ある日、二人は城下へ出ていた。

お忍びではない。

公王夫妻としての視察だった。

市場は賑わい、領民たちは二人を見つけると笑顔で頭を下げる。


「公王様!」

「王妃様もお元気そうで!」


エレノアは立ち止まり、一人一人に手を振った。


「こんにちは」


子供たちが駆け寄ってくる。

その中の一人が花冠を差し出した。


「おうひさま!」


エレノアは目を丸くした。


「私に?」

「うん!」


花冠を受け取ると、少女は満面の笑みを浮かべる。

エレノアはしゃがみ込み、少女と目線を合わせた。


「ありがとう。とても綺麗ですね」


その様子を見ていたアレクシスは思わず笑った。


「人気者ですね」

「皆さん優しいのです」


そう言って笑うエレノアの頭には、いつの間にか花冠が乗っている。

春風に金髪が揺れ、アレクシスは見惚れてしまう。

王女だからではない。

美しいからでもない。

エレノアだから。

その笑顔が好きだった。


「どうかなさいましたか?」


視線に気づいたらしいエレノアが首を傾げる。

アレクシスは少しだけ目を細めた。


「いえ」


そして自然に手を差し出す。


「帰りましょう」


エレノアは嬉しそうにその手を取った。

まるでそれが当たり前であるかのように。





夜、執務を終えたアレクシスが寝室へ戻ると、エレノアは暖炉の前で本を読んでいた。


「まだ起きていたのですか」

「待っていました」


あまりにも自然な返答だった。

アレクシスは思わず笑う。


「待つ必要などありません」

「あります」


エレノアは本を閉じた。


「おやすみの挨拶を言いたかっただけです」


それだけだった。

王女らしい言葉でも、気の利いた愛の告白でもない。

だが胸が温かくなる。

一人で生きてきたアレクシスには、その何気ない言葉がたまらなく嬉しかった。


「先ほどは何を読んでいたのです?」

「騎士物語です」

「またですか」

「好きなのです」


エレノアは少し照れたように笑う。


「王女様は英雄譚がお好きなのですね」

「はい」


そして少し考えた後


「でも」


エレノアはアレクシスを見上げた。


「私は本の騎士より、あなたの方が立派だと思います」


不意打ちだった。

アレクシスは固まる。

エレノアの言葉は、本気で言っているからこその破壊力がある。


「……買い被りすぎです」


ようやくそれだけ返したが、エレノアは首を横に振る。


「いいえ」


迷いなく言った。


「私はあなたを尊敬しています」


アレクシスは視線を逸らした。

そんな顔をしないでくれ、そんな言葉を向けないでくれ。

あなたが信じるほど、私は立派な人間ではない。

そう思いながらも、彼女の隣にいる時間が、どうしようもなく幸せだった。









 またある日、執務を終えたアレクシスは、窓から庭園を散歩するエレノアを見つけて庭園を訪れる。


「まだ肌寒いですよ」


肩に上着を掛けると、エレノアは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


その笑顔を見るたびに思う。

幸せだ、と。

そして同時に思う。

この幸せは、自分が盗んだものなのだと。

その罪悪感だけは消えなかった。








 数日後。

エレノアが突然倒れた。

顔面蒼白の侍女たちに呼ばれ、アレクシスは急いで寝室へ向かう。


「エレノア!」


ベッドの上で彼女は申し訳なさそうに笑った。


「大丈夫です」


だが医師の表情は明るかった。


「ご安心ください、公王陛下」


老人は深々と頭を下げる。


「王妃殿下はご懐妊されています」


一瞬、意味が分からなかった。


「……懐妊?」

「はい」


医師は微笑む。


「お子がおられます」


静寂。

そして。


「本当か」


アレクシスは思わず立ち上がった。

医師が苦笑しながら頷く。

エレノアは恥ずかしそうに頬を染めていた。


「あなた」


小さな声で呼ぶ。


「父親になりますね」


その瞬間、アレクシスは彼女を抱きしめていた。

心の底から嬉しかった。

生まれてくる子ども。

エレノアとの子ども。

自分の家族。

守りたいものがまた一つ増えた。

それなのに、運命はあまりにも残酷だった。






 その知らせが届いたのは三日後だった。

王都からの急使。

王家の紋章が刻まれた封蝋。

アレクシスは嫌な予感を覚えながら封を切る。

そして血の気が引いた。

そこに記されていたのは短い文章だった。


『アレクシス・ヴァレールへ』

『貴殿が王家の婚姻許可状をは偽造し、娘と結婚した』

『娘を騙し、王家を愚弄した罪は万死に値する』

『覚悟しておけ』


アルベルト王は、武力で領土を広げた王だ。

そんな人に、偽造がバレてしまった。

アレクシスの手から滑り落ちた書状が床へ落ちる。

終わった。

ついに、いつか来ると分かっていた日が。




 




 その夜。

アレクシスは一人執務室にいた。

机の上には許可状がある。

偽造した張本人である彼には分かる。

完璧だったはずだが、永遠に隠し通せる罪などない。


「陛下」


側近が恐る恐る口を開く。


「戦争になりますか」


アレクシスは答えなかった。

代わりに窓の外を見る。

その向こうには寝室があり、エレノアがいる。

そして生まれてくる子どもも。


「私は愚かだった」


誰に向けた言葉でもなかった。

自分の罪の重さが、愛したからこそ分かる。

エレノアは何も知らないで、自分を信じている。

愛してくれている。

だからこそ、彼女だけは守らなければならない。

エレノアは、彼女の故郷の王国で、売国奴とみなされるだろう。

そんなことは耐えられない。

彼女の名誉と生活は守らないといけない。

たとえ自分の命と引き換えでも。




 



 同じ頃。

エレノアもまた、父から直接届いた手紙によって書状の内容を知っていた。


『すぐに帰って来なさい』

『お前は騙されている』

『その男は罪人だ』


震える手で手紙を閉じて、エレノアは静かに首を振った。

違う。

確かに始まりは偽りだったのかもしれない。

だが今は違う。

アレクシスは毎日領民のために働いている。

誰よりも国を愛している。

そして、自分を愛している。

それだけは信じられた。

エレノアはそっとお腹に手を当てた。

まだ小さな命。

アレクシスとの子ども。


「大丈夫ですよ」


誰に向けた言葉だったのか。

自分自身か。

お腹の子か。

それとも遠くで苦しんでいる夫か。


「お父様も、きっと分かってくださいます」


だがその願いとは裏腹に、アレクシスはすでに別の決意を固め始めていた。



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