偽りの花嫁
「王女を手に入れれば、この国は変わる」
アレクシスは地図を見下ろしながら言った。
彼が治めるヴァレール公国は小国だった。
豊かではある。
だが周囲を大国に囲まれ、このままでは百年後に飲み込まれるだろう。
生き残るには力が必要だった。
そして力とは土地だ。
兵と、財だ。
そのすべてを持つのが隣国のアルベルト王国だった。
特に王の一人娘、エレノア王女。
彼女が相続する領地は広大で、いずれ王位継承にも関わる可能性がある。
彼女を妻にできれば、ヴァレール公国は飛躍的に勢力を伸ばせる。
「しかし陛下」
側近が顔をしかめた。
「アルベルト王が婚姻を認めるはずがありません」
「認めさせる必要はない」
アレクシスは静かに笑う。
その笑みは冷たかった。
「皇帝の許可証さえあれば十分だ」
アレクシス初めて王女エレノアを見たのは春だった。
王都の大聖堂に、祈りを捧げるために訪れたであろう彼女は、噂通り美しかった。
陽光を受けて輝く金髪。
透き通るような青い瞳。
だがアレクシスが注目したのはそこではない。
護衛も、側近も少ない。
(……利用しやすそうだ)
それが第一印象だった。
「お初にお目にかかります、王女殿下」
アレクシスは完璧な笑顔を浮かべて王女に話しかける。
「お初にお目にかかります、エレノア殿下」
「ヴァレール公ですね」
エレノアは少し緊張した様子で頭を下げた。
「お噂は聞いております」
「良い噂であることを願います」
軽い冗談を言うと、エレノアはくすりと笑った。
その笑顔を見て、アレクシスは心の中で評価する。
――警戒心が薄い。
――扱いやすいな。
それだけだった。
エレノアと親しくなるために、何度も偶然を装って彼女に会いにいった。
ある日、庭園を歩いていると、エレノアが花壇の前でしゃがみ込んでいた。
「何を?」
「この花、元気がないんです」
見ると、庭師が植え替えを諦めた花だった。
「新しいものを植えれば済む話では?」
アレクシスが言うと、エレノアは少し困った顔をする。
「でも、まだ生きています」
エレノアが当たり前のように言ったその言葉が妙に印象に残る。
さらに別の日。
王都で貴族の集団視察中に、貧民街の子供が転んだ。
周囲の貴族は見向きもしない。
しかしエレノアは迷わず駆け寄った。
高価そうなドレスが泥で汚れるのも構わずに、転んだ子どもを抱き起こす。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「よかった」
その返事を聞いたエレノアは演技ではない、本当に安心した顔をした。
アレクシスはそれを横で見ている。
なぜだろう、少しだけ胸がざわついてしまう。
アレクシスは驚くほど上手くエレノアに近づき、そして取り入った。
エレノアは王女とは思えないど素直だったために、取り入るのはアレクシスの予想よりも簡単だった。
会えば喜び、手紙を送れば返事をくれる。
花を贈れば大切そうに飾る。
アレクシスは計画通り距離を縮めていった。
優しい言葉をかけた。
甘い約束をした。
未来を語った。
少なくとも最初は、すべて演技だった。
だから許可状の偽造も躊躇わなかった。
2人の結婚を許可する国王からの偽造文書は完璧だった。
国王の印章も署名も再現されている。
夕暮れの庭園は薔薇の香りに満ちていた。
王城の離宮、人気のない東の庭で、エレノアは花壇の前にしゃがみ込んでいた。
白い薔薇の枝に触れながら微笑んでいる。
その姿を見つめるアレクシスの胸は重かった。
懐には一枚の書状がある。
アルベルト王の許可状。
もちろん本物ではない。
彼自身が作らせた偽物だ。
王国の重臣ですら見抜けないほどの完璧な偽物。
計画はすべて整っている。
今日求婚し、承諾を得て、後日この許可状を提示する。
それで終わりだ。
王女は彼の妻になり、ヴァレール公国は飛躍する。
何一つ問題はない。
そのはずだった。
「アレクシス様?」
呼ばれて我に返る。
エレノアが不思議そうに首を傾げていた。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ」
アレクシスは微笑む。
いつものように、完璧に。
「少し考え事を」
「またお仕事ですか?」
「そうですね」
するとエレノアは少しだけ眉を下げた。
「最近お忙しそうです」
その顔を見て、胸が痛んだ。
彼女は本気で心配している。
利用価値があるからではない。
隣国の領主だからでもない。
ただアレクシスだから。
エレノアと親しくなったせいで、それが分かってしまう。
「お気遣いありがとうございます」
「当たり前です」
エレノアは笑った。
「大切な方ですから」
心臓が大きく鳴った。
彼女は何気なく言ったのだろうが、アレクシスには十分だった。
もう認めざるを得ない。
自分はどうしようもなく彼女を愛している。
愚かなほどに。
「エレノア殿下」
気づけば名前を呼んでいた。
彼女が振り向く。
夕日に照らされた青い瞳を綺麗だと思った。
王女だからではない。
領土を持つからでもない。
エレノアだから綺麗だと思った。
その事実に苦しみながら、アレクシスは膝をつく。
エレノアが目を丸くした。
「アレクシス様……?」
本当はやめるべきだ。
今ならまだ間に合う。
偽造した許可状を燃やして、領土拡大の夢のすべてを忘れて、彼女を解放することもできる。
だが、それができない。
公国を守りたい。
領民を守りたい。
そして何より、彼女を失いたくなかった。
「私は」
声が震えそうになる。
こんなことは初めてだった。
戦場でも緊張しないアレクシスが、たった一人の女性の前で言葉を失う。
「あなたを愛しています」
エレノアの瞳が大きく開かれる。
その瞬間だけは嘘ではなかった。
生まれて初めて、心からの言葉だった。
だから余計に苦しい。
「あなたと共に生きたい」
嘘ではない。
「あなたを幸せにしたい」
それも嘘ではない。
だが、この求婚の土台そのものが嘘だった。
アレクシスは続ける。
「どうか私の妻になってください」
静寂が落ちた。
遠くで鳥が鳴き、風が薔薇を揺らす。
永遠にも思える沈黙の後。
エレノアは両手で口元を押さえた。
そして、ぽろりと涙をこぼした。
「……はい」
その一言だった。
アレクシスの胸が締め付けられる。
彼女は泣きながら笑っていた。
「喜んで」
嬉しそうに、幸せそうに、何の疑いもなく、アレクシスを信じて。
その姿を見た瞬間。
彼は初めて自分の罪の重さを知った。
アレクシスは勝った。
計画は成功した。
公国の未来も手に入る。
欲しかったものはすべて手に入った。
なのに、少しも嬉しくなかった。
抱きしめた彼女の温もりが、まるで盗んだ宝物のように感じられたからだ。
エレノアは何も知らない。
自分が騙されていることも、この幸福の始まりが偽りであることも、知らないまま微笑んでいる。
アレクシスは彼女の髪に触れながら思った。
――愛してしまった。
――だからこそ、私は許されない。
結婚から三か月後のある冬の日だった。
公都で疫病が流行した。
アレクシスは昼夜を問わず対応に追われ、そしてついに倒れた。
高熱で意識も曖昧だった。
目を覚ました時、窓の外は朝になっていた。
誰かが手を握っている。
エレノアだった。
「……なぜここに」
かすれた声で尋ねる。
「看病していました」
彼女は微笑んだ。
「三日ほど」
アレクシスは絶句した。
王女が、三日も。
召使いに任せればいいことを。
「馬鹿なことを」
思わずそう言うと、エレノアは不思議そうな顔をした。
「夫でしょう?」
当然のことを言うように。
「心配するのは普通です」
アレクシスは言葉を失った。
そこに計算はなかった。
打算も見返りもなかった。
ただ彼を大切に思う気持ちだけだった。
それから少しずつ気づき始めた。
彼女は城下の孤児の名前を全員覚えていた。
領民の相談にも耳を傾けた。
貴族より農民を気遣い、使用人にも礼を言った。
誰に対しても変わらなかった。
アレクシスが演じていた優しさを、エレノアは本当に持っていた。
だから彼女の笑顔を見るたび苦しくなる。
手を取るたび罪悪感が募る。
夜になるたび思う。
なぜ偽造した。
なぜ騙した。
なぜ彼女だった。
もっと愚かな人間なら良かった。
冷酷な女なら良かった。
そうすれば後悔などしなかった。
ある夜、寝室の窓辺でエレノアが星を見ていた。
「綺麗ですね」
彼女は笑う。
「ええ」
アレクシスは答える。
だが見ていたのは星ではなかった。
彼女のその横顔だった。
胸が痛いほど愛おしかった。
利用するための相手と、そう呼ぶにはもう遅すぎた。
気づいてしまったからだ。
彼女が幸せでいてほしいと思う自分に。
彼女が傷つけば苦しい自分に。
そして何より、自分が心の底から彼女を愛していることに。
アレクシスは目を閉じた。
知らなければ良かった。
恋などしなければ良かった。
そうすれば罪を罪として自覚せずに済んだのに。
だが今となっては手遅れだった。
アレクシスは人生で初めて、本気で誰かを愛してしまったからだ。




