軽やかで見知らぬ世界
《終わりなき深淵》では、英雄は必ず生まれる。
そして必ず敗北する。
その世界には予言があり、教会があり、聖剣と召喚の儀式があった。数十年に一度、“希望”と呼ばれる勇者が現れ、魔王へと挑む。
しかし、その結末はいつも変わらない。
──誰一人として、勝つことはできなかった。
その世界には、そもそも“幸福な結末”など存在していなかったのだ。
そして、その世界を作ったのが──ハックスだった。
今はフライパンを握る時間の方が、プログラミングより長くなった28歳の男。
彼がまだ若かった頃、ゲーム開発者になるという夢を信じていた時代に制作した作品。それが《終わりなき深淵》だった。シンプルなドット絵、王道RPGシステム。
ただし、ひとつだけ残酷な仕掛けを施していた。
そのゲームの魔王は、単なるラスボスではない。
常に相手より“必ず一段上”に存在し続ける──絶対的スケーリングを持つ存在だった。
どれだけレベルを上げても。
どれだけ最適化しても。
魔王は常にそれ以上に強い。
そこに勝利はない。
抜け道もない。
終わりもない。
当時の彼はそれを「安易な俺TUEEEものへの批評」と呼んでいた。
しかし今となっては、それがただの傲慢だったのかどうかも分からない。
ある日、引っ越し準備の最中に倉庫で一枚の古いCDを見つけた。
埃が、まるで時間の層のように積もっている。
かすかに読み取れる文字。
《アンエンディング・アビス》
「……久しぶりだな」
小さく笑い、服の袖で埃を拭う。深く考えず、ただ動作確認のつもりでノートPCに挿入した。
画面はすぐには点灯しなかった。
モニターに映る自分の影が、どこか異様に暗く見える。
カーソルが点滅する。
《開発者権限を検出》
《コアシステム起動》
「……は?」
次の瞬間、空気が重くなった。
低い駆動音が部屋を満たし、画面が水面のように歪む。
そして──
黒い亀裂が走った。
物理的なひびではない。
空間そのものの断裂だった。
立ち上がる暇もなく、重力が反転する。
彼の身体は、その裂け目へと引きずり込まれていった。
風。
意識が戻って最初に感じたのは、それだった。
温かく、現実的な風。
ゆっくりと目を開ける。
広がっていたのは、どこまでも澄んだ青空だった。あまりにも綺麗で、逆に現実感がない。
体を起こすと、掌に草の感触があった。握りしめると、土と緑の匂いが鼻をくすぐる。
夢ではない。
そう理解した瞬間、違和感に気づく。
影が、妙に長い。
視界の高さが違う。
恐る恐る自分の手を見る。
そこには漆黒の鎧があった。指先まで覆い尽くすフルプレート。
ただの黒ではない。光を吸い込んでいるかのように、太陽の光さえ反射しない。
胸の奥がざわつく。
このデザインを──彼は知っている。
自分が描いたものだ。
「……まさか」
右手を持ち上げ、無意識に呟く。
「システム:インベントリ」
空気が揺れた。
そして次の瞬間──
単なるウィンドウではなかった。
空間そのものが裂けた。
底の見えない深淵のような裂け目。その中に、アイテムのアイコンが浮かんでいる。
視界の端に赤い文字が浮かぶ。
【権限:魔王オルタリス】
【レベル:???】
【種族:生ける鎧】
【追加情報:……】
《ナラティブ・ロック:無効》
《終了条件:未定義》
ハックスは沈黙した。
──ナラティブ・ロックが無効?
それが意味するものを、彼は知っている。
《終わりなき深淵》におけるナラティブ・ロックとは、世界の物語を固定する制御機構だった。勇者は生まれ、魔王は滅び、悲劇は繰り返される。
その“脚本”を強制する仕組み。
それが、無効化されている。
つまりこの世界は──彼が書いた“台本通り”には動いていない。
視線が最後の行に吸い寄せられる。
《終了条件:未定義》
存在しない。
不死でもない。
“未定義”。
心拍が重くなる。
「……これは、俺のゲームじゃない」
別のコマンドを試す。
「システム:ワールドマップ」
再び裂け目が開く。
しかしそこに広がっていたのは、彼の記憶にある大陸ではなかった。リュメリア王国も、アッシュヴァル山脈も、最終ダンジョン《黒曜の要塞》も存在しない。
代わりに、見知らぬ地名が広がっている。
地形も違う。海岸線も違う。空に浮かぶ星座さえ、彼の設計したものではない。
システムは同じだ。
構造も、UIも、開閉時の歪みさえも。
だがこの世界は──彼の創造物ではなかった。
風が草原を揺らす。
黒い鎧のまま、彼は静かに立ち尽くした。
そこに“物語の強制力”はない。
魔王としての運命もない。
ただ、ひとつの役割と、自由だけがあった。
そして彼は気づく。
この世界は彼のゲームではない。
ならば──誰かが彼のシステムを基盤として、別の世界を作り上げた可能性がある。
問題は、自分が魔王かどうかではない。
なぜこの世界は、自分にその役割を与えたのか。
彼はすぐに街へは向かわなかった。
この鎧姿のまま無警戒に動くのは危険すぎる。
右手を掲げる。
「スキル:ランダム転移」
空間が紙のように歪む。
黒い裂け目が開き、彼はそこへ踏み込んだ。
──別の風。別の空。別の森。
何度も転移を繰り返す。
湿地。岩場。銀葉の森。
そして最後に辿り着いた丘の上で、彼はそれを見た。
都市。
石造りの城壁、整然とした門、人の列。
生きている街だった。
そして彼は歩き出す。
夕暮れに染まる街へ向かって。
黒い鎧を纏ったまま、静かに。
今、この世界にいるのは──
運命に縛られた魔王ではなく、
“生き方を知らない設計者”だった。




