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序章

蝉の鳴き声が、鬱蒼と茂る木々の間で鋭く反響していた。まるで終わることを拒む叫びのように。


丘の頂上で、一人の人物が古木の幹に寄りかかっていた。その根は岩肌をも掴むように地中へと伸びている。穏やかな風が吹き抜け、周囲の乾いた草を揺らした。


その手には、長い年月に擦り切れた地図が握られていた。破れかけた角を気にすることもなく、薄れた線をじっと見つめている。その先に何かを探すように。


しかし、その存在を単なる「人」と呼ぶのは適切ではなかった。


全身は漆黒のフルプレートアーマーに覆われている。その表面は無数の戦闘痕で鈍く曇り、かつての輝きは失われていた。紋章もなければ、刻印もない。遠目には、それは人間というより、黄昏の光の中に溶けきれない影のように見える。


薄闇へと傾きつつある空の下、その姿は微動だにしない。まるで世界そのものが、次の動きを待っているかのように。


その視線の先には街があった。


遥かな山脈へと続く広大な森林に囲まれ、細い煙がいくつも空へと立ち上っている。


「リオラの街……ここが目的地か」


地図を丁寧に折り畳む。その動作は、目の前の都市よりも地図の方が脆いかのように慎重だった。


その瞬間、風向きが変わる。


背後から強烈な突風が吹きつけ、木々を大きく揺らす。


山風ではない。


空を裂くように、一体の赤い竜が飛翔していた。巨大な翼は空気を引き裂き、その鱗は消えることのない熾火のように赤く輝いている。そこには明確な“飢え”が宿っていた。


その進路は明白だった。


リオラの街へ向かっている。


「火竜か……近くに巣でもあるのか?」


小さく呟き、しばし沈黙する。


「本来なら、関わるべきではないが……」


その声には感情の色がほとんどない。


「目的地が消えてしまっては、都合が悪い」


右手がゆっくりと持ち上がる。


指先がわずかに震えた。


「詠唱:範囲魔法展開──」


その瞬間、周囲の空気が凍りつく。


遅れて、草の上に薄い霜が広がった。夕陽がまだ残る中で、それは異様な白さを帯びている。聖なる光ではない。死んだ星の輝きにも似た、冷たい白光が鎧の周囲を包み込んだ。


一瞬、世界そのものがこちらを見返しているような錯覚。


夕暮れの空が、黒く沈む。


しかし、それは夜の訪れではなかった。


「コメット」


その言葉と同時に、空の上に巨大な影が現れた。


音はない。


ただ雲を裂きながら、天より巨大な何かが降りてくる。圧倒的な静寂のまま。


赤竜が咆哮し、炎を吐き上げる。


紅蓮の炎が降下する質量へと叩きつけられたが──傷一つ残らない。


直後、衝突。


視界が白に染まった。


だが、爆音はなかった。


爆発もない。


ただ、不自然なまでの“空白”だけが残る。


数秒後、男は指を鳴らした。


目に見えない硝子が砕けるように、空間に亀裂が走る。


竜の身体が空中で停止した。鱗の輝きは失われ、翼の動きも止まる。


そして──崩壊。


燃え尽きるのではない。


灰になるのでもない。


雪のように淡く光る白い欠片へと変わり、空へと散っていった。


それは静かに落ちていく。


森へ。


リオラの街へ。


──


森の中で、一羽の鳥がその欠片に触れた瞬間、動きを止め、そのまま地へ落ちた。


空を見上げていた少女の頬に、白い粒が触れる。彼女はそれを雪だと思い、微笑んだ。


数秒後、その頬の皮膚は白く変色していく。


──石のように。


──


丘の上で、その光景を見つめていた男の表情は変わらない。


「……ああ」


こめかみを軽く押さえる。それは、まだ神経というものがあった頃の名残の仕草だった。


「やりすぎたか」


兜が静かな金属音と共に外れる。


その下には顔はない。皮膚も、目も存在しない。


ただ、漆黒の霧が内部でゆっくりと渦を巻いているだけだった。まるで鎧そのものが“中身”であり、そこに存在しているのは煙のような何かだった。


彼は今やこう呼ばれる存在となっていた。


──生けるリビングアーマー


天を裂いたかのような空の異変は、やがてゆっくりと元に戻っていく。まるで何事もなかったかのように雲が流れ、地平線の傷を塞いでいった。


しばしの沈黙の後、彼は小さく息を吐く。


必要があるからではない。ただ、人間だった頃の癖だった。


「ステータス、オープン」


目の前に、ゲームのような半透明のウィンドウが現れる。この世界で彼だけが認識できる情報。


BEEP


【権限:魔王オルタリス】

【レベル:???】

【種族:生ける鎧】

【追加情報:……】


「まさか……」


空虚な鎧の内側で、彼の声だけが静かに響く。


「俺が作ったピクセルゲームの世界が……現実になっているとはな」


夕暮れの風が吹き抜ける中、黒い影はリオラの街へと歩き出す。


その背中を伸ばす影は長く、やがて薄暗い世界へ溶けていく。


背後では再び蝉が鳴き始めた。


だがその音は、もはや夏の調べではない。


ただ、静かな鎮魂歌のように響いていた。

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