9話 『翼を授かった日 起Ⅱ』
ガソリンの匂い。吐き気を催す血と肉の燃える匂いが鼻腔を刺激し、途絶えていた意識が覚醒する。
目を覚ますと、ミコトは自分が誰かに抱かれていたのを感じた。
ここは何処だろうかと、あたりを見渡す。
光が無い。目に映るのは、血、燃える炎――そして絶命した死体の山だ。
家族で海へと行った帰り、疲れて眠っていたミコトには、何が起こっているのか全く理解が出来ないでいた。
「起きたのね、なら自分で歩きなさい」
天月ミコトが目を覚ましたのに気付いた母親は、ミコトを地面へと乱雑に降ろした。
母に抱き抱えられていたミコトは、地面へと降ろされる。
「ここは……?何か怖いよ、ここ」
「トンネルの中よ。事故に巻き込まれたの」
「お父さんは……?お姉ちゃんは何処なの?」
「お父さんは死んだわ。瓦礫の下敷きになって即死だった」
何の感情の起伏も無く、母はミコトにそう告げた。
「うわあぁぁん――」
父が死んだ。
母から告げられたその言葉にミコトは、大声で泣き、涙を流す。
「……ッ」
瞬間、鋭い痛みが左頬に走った。
自分が母に叩かれたのだと、ミコトは遅れて理解した。
「泣くんじゃない。泣いている場合なんてないのよ!」
父が死んだ、その事で悲しむのは人として間違っているのだろうか。自分は叩かれるような何か悪い事をしたのだろうか。
ミコトは呆然と立ち尽くす。
「分かったら早く歩きなさい。サナキが待ってる」
「ま、待ってよお母さん!」
ミコトは小さな体を懸命に動かし母に追いつくと、離れないよう母の右手を握った。
「お姉ちゃんは、どうしたの?」
「出口できっと私達を待っているわ。あの子は優秀だもの。あなたと違ってね」
吐き捨てるように、母はミコトに言葉を投げた。
「……ごめんなさい」
ミコトは母に、虐待を受けていた。
それにも関わらず、ミコトは母を嫌いにはならなかった。
どれだけ疎まれても、愛されようと努力していた。
悪いのは出来損ないの自分のせいだと、そう言い聞かせ。
「あ、足が痛いよ……もう歩けないよ」
「それなら歩くのをやめればどう?お母さんはあなたを置いてくけど」
「い、嫌だよ!ちゃんと歩くから!置いてかないで!」
母は、サナキの事を溺愛していた。
それと反比例するように、ミコトに厳しく当たっていた。
姉のサナキは優秀で、幼い頃からピアノなどの学芸に優れ、井戸端会議の注目の的だった。口を開けば、誰しもがサナキを褒め称えた。
けれどミコトには、何も無かった。
ミコトに出来ることは全て、サナキがもっと上手く出来ることだった。
「――――‼︎」
遠くの方から、悲鳴が聞こえた。
「なにかしら?」
母が遠くを眺める。
「――――‼︎」
またも悲鳴が上がる。
今度はもっと近くから聞こえた。
「あれは――人じゃないの⁉︎」
揺らめく炎の隙間から見えた影――それは人にしては巨大な腕を持ち、首と顔が異様に長く、顔の中心にある紅い瞳は、異様な輝きを放ちミコト達の方を睨んでいた。
「――――」
食べた人間の血を撒き散らし、新たな獲物に歓喜したジーヴァは雄叫びをあげた。
「ミコト!走って!」
母に手を引かれ、ジーヴァの横を通り過ぎる。
前から、後ろから、横から――突如として姿を表したジーヴァが周りの人間を襲う。
悲鳴がいくつもあがってはすぐに消えていった。
「あった!出口よミコト!」
前方を見る。
そこには母の言うように、外の灯りが見えた。
出口だった。
これで自分達は助かる。
そう思った刹那――
「――――」
鋭い爪を食い込ませ、天井に潜んでいたジーヴァがミコトへと襲いかかった。
「いやああぁぁぁああ――――ッッ!」
硬い石が体にいくつも当たる。
轟音が耳に響いてすぐ、ミコトの視界は闇へと閉ざされた。
「…………い、痛いよ……苦しいよ……」
不幸中の幸いか、ミコトを狙ったジーヴァが盾となった事で、ミコトは一枚を取り留めた。
「……トが……下に!」
暗闇の奥で、母が誰かと話す声が聞こえた。
苦しい……。
ここは酸素が薄い……。
「ミコト‼︎」
暗闇に光が差した。
「お姉……ちゃん?」
視界に懐かしい顔が映った。
随分と久しぶりに、姉の顔を見た感じがする。
それ程までにここでの出来事は、辛く長く感じられるものだった。
だがそれもようやく終わる――
「――ッッ⁉︎」
氷のように冷たい感触が、右手首に触れた。
恐怖に喉が潰れ、すぐに声が出なかった。
雑巾でも絞るかのように、掴んだ腕がミコトの細い腕を捻り潰そうとする。
「い、痛いよ!離して!離してッッ‼︎」
足元の方で、爛々と輝く怪しい一つ目が光った。
そのジーヴァと、ミコトは目が合う。
落石でも生き絶える事の無かったジーヴァが、ミコトへと狙いを定めていた。
「どうしたのミコト⁉︎何かいるの⁉︎」
「いやああぁぁあ――――ッッ!離してよ‼︎嫌だよッッ‼︎嫌だよぅッッ!」
獲物が泣く姿を愉しむように、ゆっくりとジーヴァは口を開ける。
「ミコトから手を離しなさいッッ!」
母が瓦礫の中に体を埋めると、ミコトを掴むジーヴァを蹴飛ばした。
呻き声をあげ、ジーヴァはミコトから手を離す。
「サナキ‼︎ミコトをお願い‼︎」
暖かい母の手が、触れる。
そこでミコトは、意識を失った。
姉は自分の事を、とても愛してくれていた。
だからなのだろう。
母はきっと、愛する妹が死ねばもうサナキは立ち直ることが出来ないだろうと考えたのだ。
自分の命に変えても、母にとって天月サナキは、守るべき対象だったのだ。
だがそれでも構わない。
天月ミコトはそう感じていた。
あの時の母の手の暖かさ――それは自分に向けられた本物であると、信じていたから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「皆に笑顔を与え、そして優しき姉であった天月サナキの魂は――ここに眠ります」
初老の聖職者の男性が、そう弔いの言葉を述べた。
「…………」
十字架の置かれた墓石の前――大雨の中で傘も差さずに、天月ミコトは呆然と姉の墓石を見つめていた。
墓石を見つめるミコトの顔に表情は無い。
「どうして……涙が流れないんだろ」
実の姉が死んだ。そのはずなのに、自分の瞳からは涙の一雫が流れないんどころか、哀しいという感情すら湧き上がってこない。
私はそんなに、無情な人間だっただろうか――
「可哀想に……まだ中学生でしょ、あの妹さん」
参列者の一人が、小声で隣の女性に耳打ちする。
「妹を遺してこんなに早く亡くなるなんてね……」
「しかもあの妹さん引きこもりがちなんでしょ?どうやって生きていくのかしら」
「今まで優秀なお姉さんに依存していた罰ね。仕方がない事だわ」
心無いその言葉、姉が死んだ事実を否応無くミコトへと突き付けた。
「お姉ちゃん……」
2080年11月10日――奇しくもミコトの誕生日の一日前、天月サナキは17歳にして、その短い生涯を終えた。
10日の未明に起きた化学ガスの引火による爆破事故――それに現場のトンネル内にいた女生徒二名が巻き込まれた。
そして爆発に巻き込まれた女生徒の内、一人は倒壊したトンネルの落石により死亡した――。
人類の敵であるジーヴァの存在を隠す為、サナキの死の真相は隠され、ミコトにはそう伝えられていた。
だがミコトはそれを鵜呑みにした訳ではない。
ある疑問から、それは真実では無いと疑っていた。
「お姉ちゃんが死んだなんて嘘だよ……遺体も何も無いんだよ?」
ふと、ミコトの視界の端に見知った人影が映った。
「あの人は――」
遠くの茂みにいたその人物は、ミコトの視線に気付くと逃げるように駆け出した。
「待って!」
ハッとし、ミコトはその人物の方へ走る。
「どうして逃げるんですか――キミカさん‼︎」
猪部キミカはサナキと仲が良く、たまに天月家へと足を運び、ミコトも顔を知っていた。
そして事故のあった日――キミカがサナキと一緒にいた事を、ミコトは警察から聴いていた。
「くっ……足がもつれる……」
引き篭もりがちで体を動かしていなかったミコトはすぐに息が上がり、呼吸が苦しくなる。
だがそれは、相手も同じだった。あまり運動が得意では無かったキミカは息が上がり、ミコトに腕を掴まれた。
「はぁ……はぁ……これで、逃げられませんよ」
息も絶え絶えになりながら、ミコトは強くその腕を握った。
「ねぇキミカさん――キミカさんは知ってるんでしょ?昨日何が起こったのか。逃げないで、ちゃんと教えて下さいよ」
だがその言葉に、キミカは沈黙で答えた。
「お姉ちゃんの遺体が見つからない程の大事故だったのに、一緒にいたキミカさんが無傷なんておかしいです!何か他に理由があるとしか考えられません!なんとか言って下さいよ!」
今回のサナキの死についての疑問、それが今ミコトの言った事だった。
化学ガスによる爆破事故により、現場であるトンネルは全壊した。それに姉のサナキは巻き込まれ、遺体は喪失した。
一キロもある長いトンネルが崩壊したというのに、姉と一緒にトンネルにいたはずのキミカは無傷で擦り傷の一つもない。
そんな事があり得るはずがない。
言葉では説明出来ないような何かが、そこで起きたに違いない。
そうミコトは考えていた。
「ごめんね、ミコトちゃん……。私は何も言えないの……」
長い沈黙の後、キミカがようやく口を開いた。
「言えないって……どういう事ですか?やっぱり何か理由があるんですか⁉︎」
キミカの曖昧な言葉にイラついたミコトは、自然と声を荒げる。
「ごめんね……本当にごめんね……」
「謝られても、分からないですよ!」
ミコトの言葉に、キミカはキュッと唇を噛んだ。
「私は……私はサナキちゃんから貰った命を、捨てるわけにはいかないの!」
「お姉ちゃんから貰った……?」
「ごめんなさい……ッッ!」
ミコトの手が緩んだ隙を見て、キミカはその場から走って立ち去った。
「ぁ……待って――待って下さいよキミカさん!」
ミコトは叫ぶ。
だがキミカが止まる事は無かった。
突然降り出した雨が、容赦なくミコトの体を濡らす。
それはまるで、空がミコトの心情を表している様だった。
主人公は
病んでるくらいが
丁度いい




