12、新しい漂流民
正一と益男がタクのもとで生活するようになって、3ヶ月ほどが経過していた。今の生活パターンは早朝からお昼前まで仕事をした後、最も暑い時間帯は数時間仕事を休んでいて、夕方の涼しい時間になってから少しだけ働くような生活を続けていた。休憩中は食事の後に涼しいところを見つけて昼寝をするのだが、益男はその時間を使って近くに出かけては、毎日のように絵を描いていた。正一は益男があまりにも絵に没頭する姿を見て関心していたが、その正一も休憩中にこの時代の事について日記を記していた。そしてこの日も昼ごはんを終えた後、「出かけてくる」といって益男は山のほうに出かけたが、正一はどうも気分が乗らず、日記を書かずに横になった。正一が何気なく横になって、無意識にしばし眠っていると、突然耳元で声が聞こえる。「兄ちゃん大変だよ!」最近は現地の言葉にずいぶん慣れていた正一から純粋な日本語が聞こえると新鮮さと同時に、声の主がすぐにわかる。「益男?どうした」やや寝ぼけながら起き上がる正一「山の中に赤ちゃんが寝てる!」「ええ?」まったく想像できないことを言うので正一は、寝ぼけているのかと耳を疑い聞き返すが、益男からはやはり「山の中に赤ちゃんが眠てる!」という。「どういう事?」と言いながら目が覚めた正一は慌てながら益男のいう山のほうに一緒に向かう。山の中に入ること10分近く。益男が「兄ちゃんこっち」と道から外れた藪の中に少し入る。するとそこに生まれて半年くらいたったかどうかの赤ちゃんが眠っている。そしてその横ではこの地域では見かけない服装をしたやや老いた男性が倒れている。
「益男、急いでタクさんを呼んでくれ。赤ちゃんは眠っているようだけど、こちらの大人は早く手当しないとまずいぞ」正一にそう言われた益男は再び走り出す。「といっても応急の手当て方法がわからない。待つしかないのか」正一は結局何もできずに2人の様子を見るほかなかった。10分ほどすると益男がタクとその使用人である若い男1人を伴ってやってきた。「お!これは!!」一瞬驚いた表情になるタク「タクさんどうしたのですか?」「この男の服装は俺の故郷ルソンの衣装だ」「ということは・・昨夜の」正一は昨夜大雨が降ったことを思い出した。
「そうだな昨夜は嵐だった。だから流されてきたのだろう。しかし浜辺ではなく山裾のここまで来るとは」「タクさん。まだ息がわずかにありそうです」タクと一緒に来た若者はそういうと男を抱きかかえようとする。「一人手伝ってくれ」その声を聞いた正一は一緒に倒れた男をタクの家まで運ぶ。
眠っている赤ちゃんのほうは、タクが抱き抱えた。「取りあえず、手当てを」と言ってタクは男を部屋に寝かせる。赤ちゃんはタクのもとで働いている女性に預けた。
男は倒れたまましばらく動かず、医者に見せるも厳しい状態との事だという。その間、何もできない正一と益男は男のもとを離れなかった。
夜になると、男が何かつぶやこうとしているのが見える。益男はタクたちを呼んだ。その間に男は正一に何か伝えようとしているが、声が小さくて聞き取れない。
正一も男の声を聴こうと口元まで耳を傾ける。しかし正一の場合、言葉をベアーが用意した翻訳機で変換するので、何度か大声で聞き返しても意思疎通ができない。何を言っているのかわからないままタクたちがやってきた。タクと一緒に来た女性には先ほどの赤ちゃんを抱いている。すると男は赤ちゃんのほうを見ながら急に大声になり「ヒメ!ヒメヲ!!」と叫ぶと、そのまま倒れてしまった。タクは「おい!大丈夫か!!」と男を起こそうとするが、すでに息が途絶えていた。「ショウイチ、俺が来るまでの間に何か言ってなかったか?」とタクに言われるも「小声でわからなかった」としか答えることができない。この時正一は、現地の言葉がわからないことに苛立ちを覚えた。