101号室
南シナ海で熱帯低気圧から台風が生まれた。それが海上を進むにつれて肥え太り、超大型台風として日本列島へ上陸する。その強風に木造アパートは呻き声を上げている。明日の夜には台風が台東区を直撃するらしい。
ただポルノの音量を注意すればいい。そう思っていた。ただ、喉にひっかかった魚の小骨のような飲み下しきれない違和感があった。その少年が同性愛者であるらしいことがひっかかる。彼が鑑賞していたであろうそのポルノでの男女の絡みは、彼の性的嗜好を満たすものなのだろうか。ねじれを感じる。
眠れぬまま寝床にいると、深夜にも関わらず玄関のチャイムが鳴った。私は身構えて、咄嗟に息を潜める。こんな非常識な時間に誰が何の用だろうか。明かりを消しているし、応答しないことにする。至急で重要であれば、もう一度チャイムが鳴るであろう。
暫く待てども、それからチャイムは鳴らなかった。私は身を捩るようにして寝床を這い出て、物音を立てないように玄関へ向かう。床の軋みが妙に耳につく。それから玄関の覗き穴から覗く。
玄関の扉の前には、あのキチガイ女が立っていた。204号室の女だ。扉を挟んだ反対側から覗き穴の辺りを凝視していて、目が合ってしまったように錯覚する。能面のように表情は全くない。覗き穴での光の屈折により、魚眼レンズを介したように顔が歪み、目が大きく顎が小さく強調される。それから、カサカサで皮の剥けた唇を動かしているように見える。
「見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな」
私にはその女がそう言っているように見える。
一瞬の間があり、女の口の動きが止まる。熱湯ぶっかけで顔面が溶けるように、笑顔になる。いや、それは笑顔のようで、何か別の表情に見える。ガタガタで密に生えた歯が覗き、どす黒い剥き出しの歯茎が剥き出しになる。
「見ただろ。次はお前だぞ」女はそう囁いた。
翌朝、玄関のチェーンが掛かっていることや覗き穴から女が見えないことを念入りに確認したあと、臆病な被捕食者がそうするように扉をゆっくりと開く。警鐘を鳴らすように強風が扉の隙間から吹き込む。
眼球をきょろきょろさせて辺りを確認する。どうやら女はいないらしい。
外側のドアノブに憶えのないビニール袋が掛けられている。躊躇いからじっとそれを見つめていたが、それがそこにずっとあるのも気持ち悪く、雨に濡れびしょびしょのそれを取り込む。
ビニール袋の中身は不恰好なおにぎりだった。しかも、びしょびしょの袋に直におにぎりがひとつだけ入っている。海苔も巻かれていなくて、それに濡れていた。
ぐちゃぐちゃになった紙きれも同封されていて、滲んだ字で「あまったので、たべてください」とだけ書き添えられていた。
不恰好なおにぎりを手に持ち、どうしたものかと頭を悩ませていると、おにぎりから毛が生えているのが見えた。その毛を指先でつまみ、ゆっくりと引っ張ってみる。その毛はするすると抜けていく。予測よりずっと長かった。あの女の髪の毛であろう。これほど長い髪の毛が米の白に混ざって気づかないことなんてあるのだろうか。それに一本抜き切ったにも関わらず、よく観察すると他にも毛が生えているように見える。
髪の毛が混ぜ込まれたこのおにぎりをくちゃくちゃ咀嚼することを想像してしまう。あからさまに不可触な食感の髪の毛が口に残るのをイメージし、身震いをする。
これを食べるなどはなから選択肢として存在しないのだが、いかんせん米が勿体ないと感じた。戦後食べ物に苦労した母からの教育で、この感覚は私の深く深くに根付いている。
ごみ箱に投げ入れようか迷っていると、窓の外に烏がいることに気づいた。そのおにぎりを供物を捧げるように窓の外へ置き、烏の餌にすることにした。




