103号室
愛らしいフランス人形のような少女だった。103 号室に住む彼女は、全くこのボロアパートには似つかわしくなく、森の中にひっそりと佇む洋館の窓際で読書でもしてそうな雰囲気の少女だった。どうやら彼女は 204 号室に住む男の子の同級生だったらしい。
「彼とはお喋りすることもあったの。通学路が一緒だもの」とその年代では浮いてしまいそうな大人びた口調で彼女は話した。
「そうなんですね」と私は子供に対してなぜか敬語で言った。
「秘密についてお話することもあったの。絶対に誰にも言わないっていう血の約束で、お互いの秘密を耳打ちして教え合うのよ。とてもスリリングで楽しかったわ。そして、秘密を漏らしたら、地獄に落ちるの」
「怖いね」
「そう怖いの。私の秘密は言えないけれど、彼の秘密は言えるわ」
そう言うと少女は私に耳打ちをする。少女の生温かい吐息が耳の内壁をなぞり鼓膜を震わす。
「同級生の男の子が好きなんだって。同性愛者ってことね」
彼女は耳打ちを外し、さらに続ける。
「その男の子は、春風くんっていうんだけど、頭もいいし、爽やかだし、足も速いし、悪るくないチョイスだと思うわ」
「え、秘密じゃないの?」
「うん、秘密」
「地獄に落ちるんじゃないの?」
「うん、私は地獄に落ちるの。でも、もう地獄に落ちることは決まってるから、別にもうどうでもいいの。我慢できずに、同級生の何人かの女の子にその秘密をバラしちゃったから。一瞬で噂は広がって、誰もが知ることになったみたい。たぶん春風くんの耳にも入ったでしょうね。それから彼は学校に来られなくなっちゃったの。ずっと引き籠もってるみたい。悪いと思ってるわ。地獄で償うつもり。でももう地獄行きは決まってるから、あなたにも秘密教えてあげた」
「ダメだと思うけど」
「でもそういうのを知りたかったのでしょ?」
彼女は口を歪めるように笑った。真顔が整いすぎているせいか、笑顔で顔が崩れてしまう印象を受けた。完璧な均衡で重なった積み木が、僅かなずれで崩壊してしまうような笑顔だった。
「あ、そうそう。その 204 号室から騒音が聞こえるから、今度注意してくれないかしら?耳障りで仕方ないの。宿題の算数ドリルがまるで手につかない」
「それは女の人の声?」
「あなたも聞こえるの?何の声かも知っている?」
「それは・・・よくわからない」
「知らないの?中年童貞なの?あれは喘ぎ声というのよ。イヤラしいことをしているときに漏れる声ね。でもあれはきっと不健全なポルノに違いないわ」
「なぜそれがわかる?」
「日毎に声が違うの。違う女の声が聞こえる。あのキチガイ女の声じゃない」
その日の夜、204 号室の外廊下に面した小窓のカーテンに隙間ができているのが見えた。そこから部屋が覗けそうだった。覗くか覗かないか、暫く逡巡した。それは禁忌を覗き見ることにならないだろうか。私は覗くかどうかの決断を保留にしたまま、その小窓に一歩一歩近づいてみる。台風の到来を告げるように、強風が向かい風として外廊下を吹き抜ける。その風は、行ってはならないと警鐘を鳴らしながら、私を奥へ奥へと押し込めるようだった。
私は何故だか意固地になり、その逆風に抗い、204 号室の前に到達する。周囲に誰もいないことを確認した上で、息を殺し外廊下に面した小窓のカーテンの隙間を覗き見る。
そこには窒息するほどの密度で夥しい数の聖母像が置かれていた。それらの聖母像に囲まれ見つめられるように、中央の椅子に少年がひとりいた。外廊下に面した小窓からでは、彼の後頭部しか見えない。左に小首を傾げているように見える。彼はテレビのほうを向いていて、そのテレビには肌色の映像が流れている。それはポルノだった。耳を澄ませば、女性の喘ぎ声も聞こえる。女性と男性が絡み合う、私の目から見れば健全なポルノだ。思春期の少年がポルノを鑑賞するなんて、至極当たり前のことだ。私は気が抜けたように膝が脱力し、それと同時にじんわりとねっとりとした疲労感を覚えた。
騒音の現場を抑えて注意をしたほうがいいのかもしれないが、それは必須ではないだろう。何より今日はフランス人形少女との対峙と小窓を覗き見るまでの緊張で疲れてしまったので、後日注意を促すことに決めた。
帰り際、脊髄に冷水を流し込まれるような悪寒がした。風に乗り、汗と尿が乾き切ったような臭いがしたような気がした。さらに視線を感じ振り返ったが、そこには誰もいなかった。強風が何か醜いものを隠すように、臭いをかき消している。猫の気配に素早く巣穴へ身を隠す鼠のように、私はそそくさと自室に戻った。




