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ミサキ之事
夫れ、海の御先より来るものを、古来よりミサキと称す。
其の姿、人に似たるも有り、獣に似たるも有り、或は何の形とも知れぬもの有り。
古老伝へて曰くミサキは海より来るに非ず。海より帰り来るものなり。
『西国異聞拾遺』1568年
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「お爺ちゃん! あの夕陽、夏みかんみたいな色!」
とあるお盆の夕暮れ時、天海は夕陽を指さした。
「ほー、夏みかんか。ワシには朝一番のオシッコに見える」
「……汚いよお爺ちゃん」
先祖代々のお墓の前で、そんな取り留めのない会話をしたのは何年前だったっけ。
瀬名島に住む少女・天海千夏は夕暮れ時の瀬戸内海を眺めながら思った。
彼方に揺れる積雲の切れ間から夕陽が顔を出す。波静かな海面は琥珀色に輝く。漁を終えた船は飛沫をあげて港へと戻っていき、影を落とし始めた山々からは、ヒグラシの鳴き声が聴こえてくる。
この風景を一緒に見た祖父も今は墓の中にいる。祖父を失って初めて迎える夏。天海は14歳になっていた。
*
天海の祖父は学校の先生だった。
各地の学校を回る中で、赴任先の生徒から地元の歴史や伝承を聞き出し、ひとつの本にまとめるのが趣味という少し変わった人だった。
定年後もその趣味は続いていたようで、気になった場所へ行っては呑んだくれになって帰ってくる祖父が、幼いながらもだらしない人のように見えた。おまけに時折お土産に持って帰ってくる郷土料理は地味で病院食みたいで、殆ど祖父の腹に収まっていた。
だから天海にとって郷土史や民俗学といったものにあまり良いイメージがない。民間伝承などといった話も、彼女にとっては、暇な田舎人があり余る時間で生み出した空想でしかなかった。
それでも祖父は、事あるごとに天海へそういう類の話をした。
「ちぃちゃんが普段学校で習ってる歴史が偉い人の歴史だとすると、民俗学は我々下々…… 庶民の歴史。名もなき人々が生きてきた歴史は普通文字には残らん。でも、紡いできたもんは今でも生活のあちこちに残る。食文化、方言、祭礼、信仰、金石文、そして怪異も」
「怪異?」
「お化けのことよ。ちぃちゃんはお化けおると思う?」
「いないと思うよ。いたら怖いし」
「ほうか。ワシはおると思うよ」
「なんで?」
「人は想像を現実に出来るけえね」
「なにそれ」
「言葉通りの意味よ。それにお化けがおるなら、ワシが死んだあとも幽霊になってちぃちゃんを見守れるけえ。ときどき窓から覗いてみるけえね」
「怖いからやめてよ……」
「ほいでな、ちぃちゃん。暇な時は道端のお地蔵さんや石碑の世話をしてくれんか。若いもんが手伝ってくれると助かるんじゃけど」
「やだよ。面倒だし……」
「ほうか。まあしょうがないの」
そう言って真っ白な眉を八の字にした祖父の顔が妙に印象に残った。
そして今年の冬、祖父は亡くなった。もう半年経ったが、幸か不幸か、未だに祖父の幽霊は見ていない。だが埃を被った本を見る度に、在りし日のことを追憶した。
「名もなき人々の歴史……」
祖父の墓前で天海は呟いた。
気づけば辺りは既に薄暗闇に沈んでいる。古来より、逢魔時と呼ばれる時刻。
夕凪の終わりを知らせるかのように、ヌルリと生暖かい風が海へと吹き込み、天海のおさげを静かに揺らす。
夜は近い。
「また今度ね、お爺ちゃん」
そう言って、立ち去りかけた時だった。




