旅路の章 ― 砂と風の短編集 ― 第3話 商人と一ペウンドの約束(前編)
【前書き】
リルモアを出て、森の呪われた家で幽霊の少女ミナと“和解”したジージーとセルグレン。
そこで瀕死で倒れていた冒険者・リゲロも仲間に加わり、三人と一人(?)の旅が始まった。
だが、そろそろ懐は寒い。
次の国境の関所で、彼らは“商人と一ペウンドの約束”を巡る揉め事に巻き込まれていく――。
※ベニスの商人インスパイアですが、世界観・展開は完全に本作オリジナルです。
―――――――――――――――――
【本編】
朝の空気は冷たく、少しだけ甘かった。
森を抜けた街道は、緩やかに丘を登っている。
霧が晴れかけた山並みの向こうに、石造りの塔が小さく見えていた。
「あれが、関所か……?」
リゲロが目を細める。
でかい体に似合わず声は低くて落ち着いている。
「ああ。エルビアンヌ王国西端、セドラン関。
あそこを越えれば、商国バルダールの領だ」
セルグレンが答える。
頭のてっぺんだけ陽の光を反射させるM字ハゲが、妙に頼もしい。
「“商国”ってことは、金の匂いしかしねぇ国ってことだな」
リゲロが鼻を鳴らした。
「金の匂いがするってことは、仕事もあるってことだよ」
ジージーは肩に掛けた杖を軽く叩いた。
「こちとら、旅に出てからろくに稼いでねぇ。
セル、懐具合、どう?」
「……聞くか?」
セルグレンは腰の袋を指でつまんで見せた。
ちゃりん、と頼りない音。
「銀貨四枚、銅貨が十……二枚。
三人分の食事と宿代を払えば、三日ともたん」
「ミナは食費かからないから、実質二・五人分、だな」
ジージーが冗談めかして言うと、
彼らの足元から、ひやりとした風が立ち上がった。
『ひどーい。わたしだって、たまにはお菓子くらい食べたいもん』
耳の横で女の子の声がする。
振り向いても、そこには誰もいない。
ただ、ジージーには見える。
杖の影に寄り添うようにして浮かぶ、半透明の少女――ミナが、むくれた顔をしていた。
「食えねえだろ、そもそも」
『気持ちの問題だよ、気持ちの!』
ミナはぷいとそっぽを向く。
リゲロには、声だけがかすかに聞こえているらしく、耳を掻きながらぼやいた。
「……幽霊まで養うほどの稼ぎはねえぞ、今は」
「いいじゃん。ミナがいなかったら、あの家で今ごろ俺たち全部バラバラだし」
『うん、それはそうだね!』
ミナは得意げに胸を張る。
透けた胸だから、張っているかどうかは微妙だったが。
そんな取り留めのない会話をしながら、三人と一人は丘を登っていった。
◆
セドラン関――それが、エルビアンヌ王国西の玄関口だった。
石造りの塔が二基、山あいの谷を挟んで向かい合い、
その間に分厚い鉄格子の門が吊られている。
門の前には荷車の列。
獣の毛皮、干し肉、布、陶器。
さまざまな荷が山と積まれ、商人たちが検札を待っていた。
塔の壁には、金の天秤を抱いた神の浮き彫り。
その横に、エルビアンヌとバルダール両国の紋章が並んでいる。
「商国の匂いがしてきたな」
セルグレンがぼそりと呟いた。
門の向こう――バルダール側には、低い石の街並みが見える。
白い壁と赤い屋根。
煙突からは細かな煙。
町の上には、羊の群れを描いた旗がはためいていた。
「あっちが……“コルノ”か」
セルグレンは懐かしそうに目を細めた。
「行ったことあるの?」
「ああ、昔な。傭兵やってた頃、この辺りの護衛仕事もした」
彼は短く鼻を鳴らした。
「バルダールは、羊とワインと契約書でできた国だ。
特にコルノは交易の町。
ひと晩飲めば、財布と心臓が一緒に軽くなる」
「最後のは勧められてねぇだろ」
ジージーが笑う。
『羊とワインとけいやくしょ……へんな国』
「ミナ、契約書ってのはな」
リゲロが首の太い筋肉をぎゅっと鳴らす。
「“こうするって決めたことを紙に書いた約束”だ。
オレの前の仲間もな、それを平気で破って俺に毒を盛りやがった」
彼の目に、一瞬あの森の夜の光がよぎった。
まだ完全に癒えちゃいない傷だ。
「……だからこそ、ちゃんとした約束は大事なんだよ」
ジージーは杖の柄を握り直した。
「誰かが決めた一方的なルールじゃなくてさ。
お互いちゃんと“顔見て決める”約束なら、悪くない」
「理想論だ」
セルグレンは肩をすくめた。
「だが、そう願う奴がいなきゃ、世の中は数字と印だけで人を動かすようになる」
『リルモアみたいに?』
「ああ。リルモアみたいにな」
三人は列の最後尾についた。
◆
関所の検札は思ったより早かった。
セルグレンが傭兵時代に取得していた「行商人兼護衛」の証明書、
リゲロの冒険者札(裏切られたパーティの名前は既に削ってある)、
そしてジージーの“外来者”としての登録票。
門番はそれらをじろじろ眺めると、鼻を鳴らした。
「……ふむ。腕っぷしの護衛二人と、杖持ちの小娘か」
「娘は杖で殴ると痛いぞ」
「いや、殴るのが得意なのはそこのハゲ頭だ」
セルグレンが咳払いをした。
「依頼があれば、そっちで受ける。
今日はただの通りすがりだ」
「そう願いたいものだな。
最近は商人同士の揉め事が多い。
下手に首を突っ込んで首まで刈り取られるなよ」
門番はそう言って、重い鉄格子を上げさせた。
ギギギ……という音が、腹に響く。
ジージーたちは門をくぐった。
足元の石畳が変わる。
エルビアンヌ側よりも細かく、丁寧に敷かれている。
店先からは香辛料の匂い、焼いたチーズの匂い。
人々の服装も、どこか派手で、布の色彩が多い。
『わぁ……』
ミナが目を輝かせる。
『なんか、おまつりみたい』
「毎日が“商売祭り”みたいなもんだ」
セルグレンが苦笑した。
「ここがコルノ。
バルダール商国・西門の町だ」
◆
腹が減っていては何も出来ない。
まずは安そうな宿を探した。
ほどなくして見つけたのは、
「白羊亭」と書かれた二階建ての宿屋だった。
看板には、どこかとぼけた顔の羊の絵。
「三人一部屋、朝食付きで銀貨二枚だ。
どうだい、傭兵さん方」
宿の女将は、がっしりとした腕を組んで笑った。
「銀貨一枚八枚にまけてくれ。
こっちは幽霊一名は寝床いらん」
「は?」
セルグレンの冗談は華麗にスルーされ、
結局、銀貨二枚で手を打つことになった。
部屋に荷物を置き、
一階の食堂で遅い昼食をとっていると――
隣のテーブルから、言い争う声が聞こえてきた。
「だから、少し待ってくれと言っているだろう!」
「待てるか! 期限は今週末。
約束の金貨百枚、支払えぬなら――」
ドン、とテーブルが叩かれる。
「契約どおり、お前の右胸の肉を一ペウンド、頂戴するまでだ!」
ジージーはスープの匙を止めた。
(一ペウンド……?)
セルグレンと目が合う。
「……騒がしいな」
彼は眉間に皺を寄せた。
隣のテーブルには、
まだ三十歳くらいの男が座っていた。
日焼けした肌。
商人らしい質素だが上質な服。
その向かいに、いかにも“金貸し”という風情の男がいる。
細い目。
脂ぎった指。
胸元には小さな天秤の徽章。
「一ペウンドって、“ペウンド肉”のペウンドだよね?」
ジージーが小声で尋ねると、
セルグレンが無言で頷いた。
「バルダールで使われてる重さの単位だ。
肉屋はそれで肉を売る。
……そして、悪趣味な契約も、時々な」
『お肉を約束……? こわい契約だね』
ミナがジージーの肩の上で震える。
◆
金貸しの男は、鼻にかかった声でまくしたてた。
「我らバルダールの契約法は、聖天秤神レアムの御名の下に絶対だ。
ここにある血判付きの書状を見ろ!」
彼は胸元から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、細かな文字で条文が書かれている。
『借主ザイード・カレルは、
金貨百枚を借用し、期日までに返済できぬ場合、
自らの右胸部より一ペウンドの肉を貸主に提供することに同意する。』
端には赤い血判。
さらに、町の商議会の印章まで押されている。
「た、確かに……その契約にサインしたのは俺だ。
だが、その時は、長年の取引を信用して――」
ザイードと呼ばれた商人が、額に汗を浮かべる。
「今年、北の峠で雪崩が起きて、
俺の商隊はほとんど荷を失ったんだ。
予想もしない天災だった。
それなのに、あんまりじゃないか!」
「天災がなんだ。
契約とは、予想外のことが起きても守るからこそ価値がある。
お前の商隊が無事なら、儂は約束どおり利子の分まで受け取るつもりだった。
不幸にも荷が失われたなら、儂は“契約どおりの担保”を受け取るだけのこと」
「だが、命が掛かってるんだぞ!」
「一ペウンドの肉くらいで死ぬかどうかは、医者次第だろうよ」
金貸しは口を歪めて笑った。
「それとも何か?
バルダールの商契約を、お前は“軽い約束”だと馬鹿にするのか?」
食堂の空気が冷える。
周囲の客たちは、皆、居心地悪そうに酒を舐めたり、視線を逸らしたりしていた。
誰も、ザイードの味方には立とうとしない。
(誰も……助けないのか?)
ジージーは唇を噛みしめた。
手の中のスープ匙が、ほんの少し震えている。
リゲロが、どすの利いた声を出した。
「……おっさんよ」
彼は椅子を引き、二人のテーブルに近づいた。
「その“一ペウンドの肉”ってやつ、
ほんとに人間から削ぐつもりか?」
「なんだ貴様は。
外見からすると、どこかの傭兵崩れと見えるが」
「まあ、似たようなもんだ」
リゲロは大きな手を握って見せた。
「オレの仲間もな、“契約だ”って言いながら俺の取り分を全部持っていって、
代わりに酒に毒混ぜて飲ませやがった」
ジージーは、ミナと一緒に顔をしかめる。
「約束ってのはな。
破った時に“都合がいいほう”だけ守るもんじゃねえ。
アンタのやってるのは、ただの脅しだ」
「無知な田舎者が……!」
金貸しは椅子を蹴って立ち上がった。
「ここはバルダール。
契約の神の御前にある町だ。
血判と印章がある以上、この契約は聖なるもの。
他国の流れ者が口を挟んでいい話ではない!」
「他国の流れ者でも、目と心はある」
ジージーも立ち上がった。
「一ペウンドの肉を削ぐなんて、
“誰が見てもおかしい”って言えることだよ」
食堂の客がざわめいた。
セルグレンはため息をつきながらも、
三人の間に一歩分だけ近づいていた。
いつでも止めに入れる距離。
「ジージー、あんまり派手にやると、関所から追い出されるぞ」
「追い出されても、袖もぎ取られるよりマシだろ」
『ね、セルグレン。あの人、こわいよ……』
ミナがセルグレンの肩のあたりにしがみつく。
幽霊なので実際には触れていないのだが、彼はなぜか首筋をさすった。
「お二人とも、落ち着いてください」
ザイードが慌てて立ち上がり、三人の間に手を広げた。
「旅の方々に、これ以上迷惑を掛けるわけには――」
「ほう、旅人か」
金貸しは目を細めた。
「ならばちょうどよい。
お前たちがそこまで言うなら、明日、商議会の場に来るがいい」
「商議会……?」
セルグレンが眉をひそめる。
「この町の商人たちの集まりさ。
契約の解釈に揉め事があった時、
聖典と慣習法に照らして判断を下す場だ」
金貸しは薄く笑った。
「そこでお前たちが“この契約はおかしい”と言い張るなら、
商人たちの前で存分に叫ぶがいい。
だが――」
彼は羊皮紙をひらひらさせた。
「書かれているものは変わらん。
“右胸の肉を一ペウンド”と、な」
◆
話はそこで一旦切れた。
金貸しは勘定を済ませると、鼻歌まじりに店を出ていった。
ザイードはその場に崩れ落ちるように椅子に座り込む。
「……すまない。
巻き込んでしまった」
「いいよ、あんなやつ」
ジージーは椅子を引き寄せた。
「ジージー。
杖のジージーだ。
こっちはセルグレン、でっかいのがリゲロ」
「そして幽霊のミナです!」
ミナが胸を張って名乗るが、もちろんザイードには聞こえない。
「俺は、ザイード・カレル。
代々続く“カレル商会”の現当主だ」
彼は苦笑し、額の汗を拭う。
「とはいえ、こんな状態では、もう“商会”と呼べるかどうか……」
「さっき言ってた、雪崩っていうのが?」
「ああ。
今年の春、北の峠に荷を運んでいた商隊が、
季節外れの雪崩に巻き込まれてな……。
荷馬十五頭分の布とガラス器が、一晩で全部消えた」
ザイードの声には、疲れと自責の色が濃かった。
「それでも、労働者には賃金を払い、
残った者たちの家族にも分け前を出すと約束した。
金が足りなくて、あの金貸し――バサンのところに頭を下げたんだ」
彼は自分の胸元を押さえた。
「“一ペウンドの肉”なんて、ただの冗談だと思っていた。
何十年も取引をしてきた相手だったからな……」
「向こうは、最初からそれが目当てだったのかもしれない」
セルグレンが静かに言う。
「“まさか本気で取られるとは思わなかった約束”ほど、
悪用しやすいものはない」
「……リルモアで、似たようなのを見た」
ジージーも、グレン老人の名を心の中で呼んだ。
数字と印が、人の生死を決めた町。
帳簿の一行に名前が書かれた者から、遠くへ送られた人たち。
「で、商議会ってやつは、“何をもとに判断する”んだ?」
リゲロが訊いた。
「聖天秤神レアムの教えと、
バルダールの商慣習、そして契約書の文言さ」
ザイードは苦々しげに笑った。
「書かれていることが全て。
たとえどれだけ不公平でも、“合意した以上は守れ”……それがこの国のやり方だ」
「……それだけじゃないだろ」
ジージーはぽつりと言った。
「“どう解釈するか”も、入ってくる。
文言は同じでも、読む人間次第で意味は変わる」
「お前さん、学があるな」
セルグレンが苦笑した。
「昔、ちょっとだけ人にモノを教える仕事してたからね。
言葉の裏取るのは、得意なんだ」
ザイードが目を見開く。
「頼む。
明日の商議会に、一緒に来てくれないか」
「はい来たー」
リゲロが頭を抱えた。
「オレたち、また面倒ごとに首突っ込むの確定な感じ?」
「他に仕事もないしね?」
『それに、あの人、放っておいたらほんとに肉取られちゃうよ……』
ミナがしゅんとする。
「……なあ、ザイード」
セルグレンが腕を組んだ。
「仮に俺たちが商議会で“言葉の穴”を突いたとして、
お前さんは、それでバサンと手打ちにできるのか?」
「……難しいだろうな」
ザイードは目を伏せた。
「あいつは、自分の利益しか見ていない。
こちらが血反吐を吐くほど働いてきた年月も、
この町で支えてきた人間たちも……
何ひとつ、数字としてしか見ていない」
「ならなおさらだ」
ジージーは机を軽く叩いた。
「“数字と文字だけじゃないところもある”って、
見せなきゃダメだろ」
セルグレンは短く息を吐いた。
「ジージー。
お前、相変わらず火のつき方が早いな」
「この火は……リルモアから持ってきたんだよ」
『うん。消えないでほしい火』
ミナが小さく頷く。
「……わかった」
セルグレンはザイードに向き直った。
「俺たちは明日、商議会に行く。
ただし、できることは“言葉を振るうこと”だけだ。
剣や杖を振り回すのは禁止だぞ、ジージー」
「えー」
「禁止だ」
リゲロも真面目な顔で頷いた。
「オレも、あいつの顔面に拳を叩き込みたいが、
ここは一応“法の国”だ。
殴るのは“全部終わってから”でも遅くねえ」
「全部終わってから殴る前提なのはどうなんだよ」
三人に軽い笑いが生まれる。
ザイードも、少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
彼は深々と頭を下げた。
◆
その夜。
白羊亭の二階の部屋で、ジージーたちは契約書の写しを囲んでいた。
ザイードが用意したものだ。
原本を持ち出すわけにはいかないが、
写しならば、と商議会の書記から許可を取ってくれたらしい。
「ふむ……」
セルグレンが目を細める。
「“右胸部より一ペウンドの肉を提供する”……
“血液の損失については、貸主は責任を負わない”……」
「血液の損失について責任負わないなら、
血が出ちゃっても“貸主のせいじゃない”ってこと?」
ジージーが眉をひそめる。
「そう解釈もできるが、
逆に“どれだけ血が出て死のうが、貸主は罪に問われない”とも読める」
「最悪じゃん」
『ひどい約束……』
ミナが紙の上をふわふわ漂う。
「ベニ……いやなんでもない」
ジージーはオーストラリアの映画館で観た“どこかの劇”の記憶を頭の隅に押しやった。
ここは異世界だ。
けれど、人間の欲や論理の形は、どこか似ている。
「一ペウンド、って、どれくらいの重さ?」
「この世界の単位でおよそ半キロ弱だ」
セルグレンが指で空中に四角を描いた。
「肉屋なら、ちょっとした塊だな。
右胸からそれだけ削げば、運が悪ければ肺まで届く」
「……やっぱり、殺す気満々じゃん」
ジージーはテーブルをこぶしで軽く叩いた。
「殺すつもりがなくても、
“そうなっても構わない”と思って契約させたなら、同じだよ」
沈黙が落ちる。
窓の外では、コルノの夜のざわめきが続いていた。
酒場から流れ出る笑い声、歌。
遠くで羊の鳴き声も聞こえる。
『ねえ』
ミナがそっと口を開いた。
『わたしね、あの家で死んでからずっと、
自分の名前が壁から消えていくのを見てたの』
三人は顔を上げた。
『家族の名前も、誰かの落書きも……
壁を塗り直されるたびに消えていくんだよ。
なんか、“最初からなかったみたい”になっていくの』
ミナの声は、風鈴のようにかすかに揺れた。
『でも、ジージーとセルグレンとリゲロが、
わたしの名前を呼んでくれるから、
なんか……まだ、ここにいてもいいのかなって思えるの』
「ミナ……」
『ザイードさんの名前もさ。
数字の中から消されちゃったら、
その人はずっと“なかったこと”になっちゃうよ』
ミナはじっと契約書の名前を見つめる。
『それ、やだな』
ジージーは、胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。
(名前を、消させたくない――)
リルモアで、帳簿から消えた名前たち。
誰も読まなくなった行。
「……よし」
ジージーは顔を上げた。
「明日、商議会で言ってやろう。
“名前を数字に変える契約なんて、間違ってる”って」
「言葉だけで何が変わるかはわからんがな」
セルグレンは微かに笑った。
「だが、言わなきゃゼロだ。
言ってみて、ようやく一歩だ」
「その一歩のために、“一ペウンド分の度胸”は出すさ」
リゲロが拳を握りしめた。
「オレは、約束を悪用する奴が大嫌いだ。
あの金貸しの顔、明日もう一度、正面から見てやる」
「よし。じゃあ明日は“言葉の殴り合い”ってことで」
『がんばろうね!』
ミナがぱっと笑う。
窓の外の風が、
どこか遠くから砂の匂いを運んできた。
旅路はまだ続く。
だが、明日は一つの分かれ目になる。
“肉一ペウンド”か、“名前一つ分の尊厳”か。
どちらを重く見るのか――
商国バルダールの秤が、試される日だ。
◆
翌朝。
ジージーたちは、コルノの中央広場に立っていた。
石畳の中央に、丸い議場のような場所がある。
階段状の座席がぐるりと取り囲み、
中心には木製の台と、天秤の像。
そこが――商議会の開かれる“契約の庭”だった。
「ではこれより――
商人ザイード・カレルと、金貸しバサン・ドルゴの契約紛争について、
審議を開始する!」
書記の声が響く。
集まった商人たちのざわめき。
コルノの朝の空気が、いつもと少し違う緊張を帯び始めていた。
ジージーは杖を握り直す。
(さあ……
今日の戦場は、言葉の上だ)
ミナが、そっとその手の上に重なるように浮かんだ。
『いこう、ジージー』
セルグレンとリゲロも、彼女の両隣に立った。
三人と一人の影が、
契約の庭の石畳に重なった。
――物語は、ここから“言葉の裁き”へと進んでいく。
―――――――――――――――――
【後書き】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は、
•新しい国・バルダール商国と、門前町コルノの雰囲気
•関所通過と、“金の匂いのする国”の空気
•冒険者リゲロ&幽霊ミナを交えた三人+一人旅
•「一ペウンドの肉」を担保にした不穏な契約
•商人ザイードと金貸しバサンの対立
•商議会=“契約の庭”への導入
を前編として描きました。
次回・後編では、
•商議会での“言葉のバトル”
•契約文の解釈のすり合わせ
•ベニスの商人オマージュな“逆転の一手”
•ザイードの商人としての矜持
•ジージーたちが“数字と名前の間”にどう立つか
をしっかり描いて、
この「商人と一ペウンドの約束」編を締めたいと思います。




