二宮の限界
朝。 降りしきる雨の中、登校する。
少女の足取りはいつになく重く、躊躇うように昇降口をくぐる。
昨日聞かされた内容が一晩たった今でも頭から離れない。
放っておくと傾きそうになる体をどうにか立たせ、階段を昇っていく。
人の目が気になる。 一歩一歩が重い。
湿った空気が息苦しさを増長する。
昨日と同じ学校は色を無くしたように映る。
生徒たちの談笑は空虚な嘲笑に聞こえてくる。
教室に近づくにつれて、次第に灰色も音も薄れていく。
事実、教室は静かだった。
会話は無く、物音を立てることすら躊躇われるような空間がそこにはあって。
―――――何故?
自分の席に至った時、全てを理解した。
口が強く結ばれる。 ずっと抱いて来た思いが溢れそうになるも、平静を装う。
―――――聞きたい。 彼の口から違うと言ってほしい。
―――――聞きたくない。 万が一の可能性でもあるのなら。
ふたつにひとつ、期待と停滞。
揺れ動く心はどちらかに定まろうとしない。
―――――聞かないことで昨日までの幸せが続くのなら。
―――――何も聞かないでおこう。
教室の端にあるパイプ椅子を代わりに開き、腰を下ろす。
もう既に、二宮の限界は近かった。
◇ ◇ ◇ ◇
朝、祐は教室の入口までやってきた時にふと違和感を覚えた。
疑問を抱きつつも戸をくぐる。
その疑問はすぐに解決した。 教室内は異様な静けさに包まれていたのだ。
いつもなら大石や啓を中心に騒がしくしているはずなのである。
雨だからなのだろうか、教室全体の雰囲気が随分と暗く感じた。
ちらほらととある場所を振り返る生徒が見受けられる。
その視線の先を辿っていく。
「巫言ちゃん?」
「ぁ……おはよう」
二宮は笑ってはいるものの、昨日の美穂の話を聞いた以上、祐には無理をしているようにも見えた。
そして自然、祐は二宮の座る空間の異変に気が付いた。
いや、明らかに異常だった。
「どうしたの……?」
二宮はビクッと小さく肩を揺らす。
「ぁ……あの、さ……」
段々と二宮の笑みが歪になっていく。
「あの」
その呼吸は荒くなっていく。
「だから」
しきりに掌を開閉させると、やがてその手を強く握った。
「っ……ごめん……三上……」
なぜ謝るのか。 一体何を謝るのか。
「何が――――」
「ごめん、私―――――」
何かを言いかけ下を向いた二宮は、しかしそれを言うことは無く、祐の脇を抜けるようにして教室から出て行った。
今の状況が未だ掴めず、もう一度視線を前に戻す。
そこはいつも二宮のいる場所。
しかしそこには見慣れたものとは似ても似つかない傷だらけの机。 その上に花を生けた花瓶。
よく見れば本来あるべき椅子がない。
木の古風染みた椅子とは対照的に、紺のパイプ椅子が開かれている。
ここまででおおよその事は理解できた。
ただ、衝撃の方がずっと強かった。
すぐには信じられなかったから。
昨日の今日であまりの差があった。
もしこれが嫌がらせの延長なのだとしたら、すでに手遅れに近いところまで来ているのかもしれない。
気づくのが遅すぎたのかもしれない。
どう見ても普通ではない環境。 そこにぽつんと立つ小綺麗な花が妙に不気味だった。
そしてこの状況で誰も動かないのが不気味だった。
荷物は置いたまま―――――
◇ ◇ ◇ ◇
途中から頭の中はぐちゃぐちゃだった。
教室を飛び出した二宮はどこへ行くでもなく廊下を駆け抜けた。
行違う人にぶつかりながら道標を探した。
あの人もダメ。 この人もダメ。
何がいけなかったの? 何が正解だったの?
誰かに相談すればよかった? 誰に?
先生? 友達?
どうしてそれを信じられるの?
どうして『その人』が当人じゃないと言えるの?
もう何を信じていいか分からない。 何を標にすれば前を向けるか分からない。
分からない、分からない、分からない!!
もうどうすればいいか、分からない……!!
廊下をひたすら走る、走る、走る。
そんな二宮に不幸は重なった。
◇ ◇ ◇ ◇
「っな、巫言ちゃんどうしたの!?」
教室に戻って来た二宮は全身ずぶ濡れの状態だった。
ぽたりぽたりと水滴が滴り落ちる。
「……ちょっと、雨に濡れただけ。 ごめん、私帰るから。 先生に言っといて」
そう言って鞄を掴みそのまま逃げるように教室を去る。
「ちょっと!? 巫言ちゃん!」
追いかけようとしたところで大石に呼び止められた。
「おい待てよ三上。 お前なんじゃないのか?」
「は? 何が、ちょっと後に―――――」
祐は先を急ごうとするも、次の一言に耳を疑う事になる。
「あの花瓶も机も噂も全部お前がやってんじゃないのかって聞いてんだ」
「っはあ!? 何でそうなる!? そんなわけ―――――」
「昨日お前が教室で何かしてんのを見た奴がいんだよ!!」
昨日? 昨日教室で――――
「違う! あれは……!! ああもう! 後にしてくれ!」
遅れて祐も教室を出る。
廊下に出た時にはすでに二宮の姿は無い。
さっき帰ると言っていた。 おそらく昇降口へ向かったのだろう。
背後からの怒りの声を流し、祐は走り出した。
しばらくしてその背中を捉える。
二宮は靴を履いた後、昇降口で立ち止まっていた。
何をするでもなく立ち尽くす二宮に祐もやっと追いつく。
「ふぅ……巫言ちゃん……?」
その手には折れた傘が握られていた。
哀れみの笑みを湛えたのも束の間、そのまま屋外へと出ていく。
「ちょ、ちょっと巫言ちゃん!」
急いで靴を履き替え、傘を開いて二宮の後を追う。
「これ、僕の傘、使っていいから」
「いいわよ、もうびしょびしょだし。 必要無いわ」
傘から出て行こうとする二宮の手首を掴む。
「なんで濡れてるの……?」
「だから、雨で――――」
「室内じゃ雨は振らないじゃないか」
「……」
「なにかあった?」
「何も」
「そんなわけない。 どう見ても異常――――」
「異常!? 何が異常なの!? 皆にとっては普通でしょう!?」
祐の手を振り払った二宮は感情のまま声を張り上げる。
「いつも通りじゃない!! 皆にとっても私にとっても、いつも通りの事なの! あんたの言う異常は普通の事なの! 私の存在が一番異常なのよ! いない方が皆にとっても都合がいいのよ……!! それもこれも全部、三上にはッ、関係無いでしょう!?」
一気に捲し立てた二宮は肩で息をする。
雨の音と二宮の呼吸音だけがしばらく続き、少しづつ落ち着きを取り戻していく。
やがてゆっくりと手首を掴んだ。
「……ねぇ、三上は関係無いんでしょう? ねぇ、違うよね? ねぇ……三上、関係無いならそう言って……? そしたら私信じるから……」
この時、二宮の顔は必死そのもので。 今の自分をどうにか繋ぎ止めているような状態で。
しかし、祐はその問いに返事をすることができなかった。
二宮が置かれている状況。 そして祐自身が置かれている状況に気づき、言葉が見つからない。
それに、ずっと一人で耐えてきた少女に、『関係無い』とは言えなかった。
掴んだ白く細い手首が力んでいく。
「……それじゃあ、三上なの?」
「っ……違っ―――――」
祐に半歩近づいた二宮はうつむいたまま、ドン、と無言で祐の胸を叩く。
ドン、ドン、ドン、と何度も何度も力いっぱいに拳を打ち付ける。
祐の胸がヒリヒリと疼き始めた辺りで次第にその力は弱まっていき、やがてその手は祐の制服の裾を強く握ったまま動かなくなった。
「私、三上のこと信じたい……三上じゃないって、そう思いたいよ」
その声は消え入りそうなほどか細くて。
その声に祐は、やはり遅すぎた、と痛感した。
「ねぇ、私はどうすればあんたのこと信じられるのかな……?」
声が震える。
ぽたぽたと、濡れた髪から水滴が滴り落ちる。
「どうすればいい、どうすれば……どうしてっ……」
裾を握る手に力が籠る。
「ねぇ、どうして……? 私……何もッ、じでないのに……っ」
勢いを増していく雨の中、顔を埋める二宮の顔はぐっしょりと濡れていた。




