⑨
「いらっしゃいませ」
その言葉で弛緩しきっていた僕の体が一瞬で強張った。コツコツという足音が響く。皆が一斉に視線で会話を行った。当然言葉にしなければ僕らの中に共通した一つの案が生まれるはずもなく、ついに来店者は僕らの前に進み出た。
「あ、どうも」
見知らぬ男だった。彼は軽く右手を上げると、近場の椅子を引き寄せ、僕らのテーブルの近くに座った。南後が『約束』を結んだうちの一人だろうか。しかし僕の懸念は、南後本人の言葉で払拭された。
「……会長……」
会長、ということは彼が近衛? 話の流れから女だと思っていた。しかし南後が会長と呼んだその男は、眼鏡をかけたいかにも真面目そうな男だった。気難しい固さはないが、新品にも見える制服をきっちりと着こなすその姿は、やはり真面目そうという印象が強かった。
「君は……」
「卯月遼次です、三嶋さん。こちら生徒会長の三嶋常幸さん」
純奈の言葉と視線で合点がいった。会長は会長でも、さらに上を行く会長だった。
「三嶋です。よろしく卯月君……あの、そんなに睨まないでくれよ」
僕はまだ警戒心が解けていなかった。自然と目つきが鋭くなるのも仕方がないだろう。
「遼次、多分この人は違う」と純奈。
彼女がそういうならば、彼は『約束』とは無関係なのだろう。だとしたらなぜここに……。疑問を一時手放し、本心から彼に謝ると彼は笑って首を振った。
「こちらこそ誤解させてすまないね」
「どうして生徒会長さんがここにきたんです?」
「勿論南後の問題さ。近衛は僕のところにもきたよ。あぁ、彼女の味方をするってわけじゃないんだ。南後に責任の全てがあるとは思えない。意外と根深そうだからね。僕としてはどうにかして丸く治めたいんだ」
当然丸く治められるのなら皆そうしたいし、それを何よりも願っている。しかし僕は考えれば考える程にこの問題の大きさを再認識するだけで、一向に答えに近づける気がしない。
「三嶋さんが乗り気なのは珍しいですね。もしかして楽しんでますか?」
南後がきつい目を向けるが、彼はそれに穏やかな目で返す。
「基本、放任主義だからね。そう思われても仕方がないだろう。志堂もいるし、審問会はしっかりと役目を果たすだろうと考えていたんだが……思わぬところから目をつけられてね」
「思わぬところ……というと?」
「研究機関だ。この島の、というか志堂のね」
そう言うと今度は純奈へと視線を向けた。
「志堂にも止められないだろ?」
「……はい。ある程度なら、というか私個人のわがまま程度なら話は通せるんですけど。それを除くと……」
純奈は顔を伏せてしまった。以前聞いた話だと、研究機関は医療機関としての役割で立てられたが、その本質はやはり因子持ち達の観察にある。彼らは特化因子に関する問題が大きくなりすぎると、積極的に手を出してくる。問題が起きなければただの医療機関であり、問題が起きてしまえば本性というか本来の仕事を始める。その問題を学生間で留めておくために純奈は審問委員会を作ったのだ
「さらに南後の因子の希少性。それもあいまって、向こうはより本格的に南後を取り込もうとするだろう。名目は因子による問題の収拾。彼らに行動を起こされてしまったら、僕ら学生はもはやどうすることも出来ない。生徒会長としてそれは見過ごせない。久しぶりに正義を振るいたくなったのさ」
癖なのだろうか。彼は手の甲の人差し指の付け根あたりで眼鏡をくいと上げた。
「近衛さん達はどう動くつもりなんですか?」
「彼女達も研究機関とは関わりたくはないはずだ。南後には一矢報いたい、同時に問題の肥大化による研究機関の介入は避けたい。彼女達もだいぶ悩んでいるみたいだね。僕は近衛達と南後の間を取り持つ立場としてここに来たわけだ。そこで、だ。僕の案を聞いて欲しい」
彼は再び眼鏡を押し上げるとテーブルに両肘をつき、軽く前へ乗り出した。
「問題は大きく出来ない。けじめはつけたい。相反する二つの意思を両立させるために、あええて問題を前面に押し出そうと思う」
「押し出す? 研究機関はよりいっそう介入しやすくなるんじゃ――」
興奮気味の純奈を手で制し、彼は続ける。
「審問会の役割の延長だと思ってくれれば良い。問題をあえて形式的にして、大きくする。そしてその形の中で収める。学生間での問題を、学生間で解決する。という強い意意思を研究機関に見せ付けてやるのさ」
「言いたいことは分かりますけど……。具体的にどうするんです?」
その質問を待っていたと言わんばかりに三嶋は目を輝かせる。南後の楽しんでます? という疑問はあながち間違いではないかもしれない。
「皆、決闘は知ってる? 今まではゲーム感覚で僕が間に立って行っていたけど、今回はこれを大々的に行おうと思う。一つの学校でいがみ合うクラスや部活は、その決着を運動会や文化祭の出し物なんかで競うだろ? 残念ながら玲瓏には運動会なんて無いから、代わりにこの決闘を使う」
彼は言い終えると、僕らを見回してその反応をうかがっている。多少強引かもしれないが、現状で他に代案が無い以上、三嶋の提案は最適だと思えた。そうなれば重要なのは決闘の内容になってくる。三嶋の顔をこれ以上ほころばせるのには抵抗があったが、僕は聞かずにはいられなかった。
「何で決闘するんです?」
案の定彼の目は輝きを増した。まるで子供のようだ。先ほどまで彼に抱いていた真面目そうな印象はとうに消し飛び、僕には彼がいたずら心を存分に秘めた悪がきのようにしか見えない。
「正直、それは謝らなくちゃいけない。でも仕方ないとも言える……かな。内容は向こうに決めてもらった。報復、からスタートした話だからね。ここで平等に話し合って決闘の内容を決められるようなら、最初から話し合って決められるはずだし……。とにかく、決闘には国光が代表で出る。分かるね? 近衛がまだ因子を発現していないってのもあるけど、君達が戦うべきは国光だ」
「それじゃ、一時間後に体育館で」
そう言い残して、三嶋はさっさとモノリスを出て行ってしまった。
残された僕らにの様子は名状しがたく、各々が頭を抱えていた。
「国光ってことは、あれだ、ただの喧嘩だ……」
皆分かっていたとは思うが、僕はあえてその事実を言葉にしてみた。僕らを取り巻く空気はより一層重くなった。
「喧嘩で解決するなんて、野蛮よ、野蛮」
純奈が悪態をつく。その通りだ。しかし僕らは誰一人として三嶋の提案に反論できなかった。野蛮で直接的過ぎる解決方法だが、その背景にはしっかりと研究機関への牽制や僕らの抱えている複雑な感情や状況を丸く出来そ得るであろう予感が皆にあった。あのまま僕らだけで考えていては、きっと答えは出なかった。
「――私がやるわ」
「は?」
情けない声を上げてしまった。瞬間的に南後と国光が拳を交わしている野蛮なイメージが脳内を掠めた。あまり良い絵ではない。
「私が原因だもの、被害者である国光に殴られるのは仕方ないことだわ」
その通りだ。決して僕らは南後だけの味方でいるわけではないのだ。審問会という立場から見れば、南後に理由はあったとしても被害者である近衛や国光を無視することは到底できない。かといって殴られにいく南後を易々と見送るわけにもいかない。案の序、純奈が止めた。
「ダメよ。そんなの私達が許すわけないでしょ」
と言ったものの、やはり彼女に自信はなさげだ。
「国光達への被害は、私自身の内面から生じたものよ。あんた達にはどうすることも出来ない、そうでしょ純奈?」
もはや南後の決意は不動のものになりつつあった。対する純奈は、視線こそ南後に向けているが口を開くことは出来ずにいた。説得するに足る言葉が見つからないのは僕も同じだ。
僕が出よう! と言うのは簡単だ。君塚か僕が国光に殴られて事態が収束するのならそれでいい。しかし今度は南後がそれを許さないだろう。僕の不安定な心からいくら覚悟を振り絞ったとしても、到底今の南後のそれには及ばないだろう。彼女の覚悟を上回る覚悟を審問会のメンバーの中に見つけることは現状無理だろう。では別の方法で南後の決意を曲げる必要がある。残り一時間。壁に掛けられた時計の針がチッチッと音を上げる。普段耳にするその音が、今では猛烈に不快だった。小町に頼んで音を消してもらおうか。
ふと小町を見やる。彼女も彼女なりに悩んでいるようだった。うーんとかむむーと声を上げて珍しく腕まで組んでいる。彼女の小柄な姿を見ると、ますます女性には参加などさせられない。女を守るのは男の役割だ。国光も南後への『約束』という名の告白は、守るということだった。
僕は考える。小町をまねるわけではないが、腕を組み思考を深くするにつれ自然と唸り声にも似た声が吐息の合間に漏れてしまう。
「うーん……」
告白の文句に守るという言葉を使うような男が、はたして女に手を上げるだろうか。国光が受けた害を抜きにしてもそれは考えられない。近衛達が因子の発現をしていないにしろ、『約束』をした人間の中には発現済みの人間は多くいただろう。その中でなぜ国光が? 南後の傍に長くいたから? 決闘に慣れているからか? 単に強いからか?
はっきりとした理由もないし、近衛側でどういう採択が行われたかは分からないが、国光が自分が決闘を行うことを強く主張したように思える。肉体派である国光が決闘に参加してくる時点で分かりきっていた――彼は自ら参加することを選んだのだ。そして、南後が責任を負うために参加を主張することも。純奈がそれを止め、僕らが頭を抱えるだろうことも。
それらを考えた上で、僕の頭に浮かび上がってくるのは一つの矛盾点だった。南後を殴れない国光が、南後が参加しようと主張することを予想していた。勿論殴らずに終わるはずはないだろうし、近衛も三嶋もそれを許しはしないだろう。つまり――。
「僕が出る」
皆の視線を強く感じる。
「卯月……それはダメだってば。私が出なくちゃ意味がないんだってば」
「そんなこともないと思う」
僕は僕なりの考えを皆に話した。これは国光からの挑戦なんだろう。彼は自分の南後を殴れないという状況の先に、南後の責任感を見た。そしてその先には当然純奈達の制止があることも。それでも彼は自分が出ると言ったのだ。その行動が求めているのは簡単な結果だった。
要は殴られてもいいやつが出ればいい。国光もなんて優しい人間なんだろうか。彼は僕を殴ることで、近衛達をいさめる気らしい。勿論、南後を傷つけないためにも。そのために殴られようとする僕の心境はどう言葉にしていいものやら。
「なるほどね……」
「でも、卯月……」
「遼次さん……」
皆一斉に閉口してしまった。君塚だけがくい気味な反応うぃ示してきた。
「殴られに行くだけじゃないですか」
「仕方ないだろ」
君塚の眉がぴくりと動いた。仕方ないわけない、のだろう。咄嗟に出てしまったその言葉に君塚は難色を濃く示した。
「まだ時間はあります」
「三嶋さんを黙って送った時点で、誰かが殴られなきゃいけないことは決まったも同然よ」と純奈。「私は遼次に賛成」
「納得できないわ!」
声を荒げたのは南後だった。僕の提案は彼女のやるべきことを横取りし、名誉に傷をつけるようなものだ。しかし易々彼女を行かせてはしまっては今度は国光の決意を無駄にすることになるし、そんな状況でも彼は南後を殴れないと僕は思う。
「理由があろうが、冴がしてしまったことは大きいわ。その中でも遼次は何とかしてあんたを守ろうとしてるの。それを無下にするのなら、今度は私があなたを許せない」
「で、でも――。卯月が私のためにしてくれたとしても、彼にはなんの落ち度もないわ」
「そんな風に理由を辿っていったら、玲瓏に、そして審問会に遼次を招いた私にも罪はあるわ」
「……そうですね。突き詰めていけば、責任は僕にあるかもしれません」
なぜ君塚に罪があるんだ。当然純奈にも罪はない。以前も話題に出たように、他人の決意をには個人の責任によるところが大きい。純奈の『予知』に僕は口出しをするべきではないし。彼女が僕の選択に口を出すべきではないのだ。しかし今回の場合、責任の所在が南後にあるのは間違いない。それでも僕は自分の主張を曲げる気はない。
「南後、すまない。でもお前が殴られれば済む話なのか?」
「卯月が殴られれば済む話でも当然ないわ」
ごもっとも。話は、誰が特攻する戦闘機に乗るかを決めているような、もはや事件事態は遠く忘れ去られいろような気さえする。その場の了見やプライドで僕と南後の中に新たな争いが生まれようとしていた。
「埒が明かない」
「誰のせいよ」
「体育館ってここからだと結構距離あるわよね」
純奈の言葉に僕らはより一層あせる。近衛達の前でこの話を続けるわけにはいかない。そうなれば決闘自体がなくなる可能性もある。悔しいが、今は三嶋の提案に乗るしかない。審問会としては南後に傷を負わせることなく、研究機関の介入を防ぐ必要がある。
「じゃんけんするか?」
「はぁ? ふざけないで。私が行くってば」
「クジは?」
「嫌よ」
「あみだは?」
「……二人でやるあみだクジに意味がるとは思えないわ」
平行する議論は一向に収束しない。やるべきことは見えているのに、やるべき人間が決まらない。こうなったら、いっそやるべきことに目を向けてみよう。
「国光の因子は……誰か知ってる?」
南後が唸った。
「詳しくは知らないけど……多分卯月じゃどうしようもないわよ。因子がなくたってあいつは強いわ」
実際に決闘に立ち会った人間は僕らの中にはいないので、その力量は想像するしかないが、彼の体格や趣味の筋トレなど、彼の強さを示す情報はあまりにも多い。
「彼に勝ったらどうなるんでしょうね……」
君塚の発言は、僕の脳を強く刺激した。国光のもつイメージ、おそらく彼自身の今回の作戦的にも、皆彼が勝つという前提で話が進められていた。決闘という形が取られる以上、そこに勝敗はつき物だ。
「可能性はないけど、三島さんのことだからゼロの可能性にもちゃんと目を向けているはず。多分……。佐渡君が勝ったら、それは近衛達の勝ちってことにもなるわけで、報復完了ってことでしょ? それが今回の決闘を行う真の理由でもある……。もしも私達が勝ってしまったら、報復とは言え勝負だから、負けても文句は言わせないと思うわ。近衛達からしたら遺恨は残るけど、敗北した側に容易に申し立てできる勝負なんて、勝負とは言えないでしょ。そこはまぁ、三嶋さんの腕しだいね」
三嶋が今回の決闘にどれだけの注意を払って望んでいるかは分からないが、生徒会長としても一人の学生としても、研究機関が絡んでくることをよしとは思えないはずだ。後始末は言いだしっぺの彼に任せても良いのではないだろうか。
そこまで話の先が見えるのならば、より一層僕の決意は変わらない。そして、ここらで僕の覚悟ってものを南後に示す必要がある。時間の経過と比例関係にあると彼女の覚悟は、勿論僕も同じであるだ。
僕は彼女の隙をうかがうように見やる。僕のこれかろ行おうとすることをこの場の誰が予想できただろうか。無論僕自身もそんな気に自分がなるなんて思ってもいなかった。僕は姿勢を整えるふりをしながら、椅子を何気なく引いた。目の前には南後の両手がテーブルの上にだらりと置かれている。彼女の腕の動きを追いながらタイミングを見計らい、僕は一気に彼女の手を掴んだ。
ガタッと音を立てて身を引いた彼女の左手に、僕はすかさず自分の右手を重ねた。周囲の理解が追いつかず、皆が行動を起こせずにいる一瞬に僕は心の中で反芻した言葉を言い放った。
「僕は今回の決闘で国光に勝つ、『約束』な、南後」
まくしたてるような僕の言葉は動けなかった。君塚だけは気づいていたらしい。彼の手が僕らの結ばれた手に伸びていた。しかし座っていた位置の関係上、彼の腕はここまで届かずに、僕は難なく南後との『約束』に成功した。
君塚の腕がだらりと下がる。
「やられました……」
「ちょ、え? なにしてるのよ――」
南後の動揺が見て取れた。純奈と小町はあんぐりと大口を開けている。
「『約束』したからな」
僕の言葉に状況を強く再認識した南後は僕の手を思い切り振りほどいた。しかしもう遅い。どうあろうと結ばれた『約束』には果たされるか破られるかしかない。
「なんてことしたのよ!」南後の悲鳴にも似た声がとどろく。
「――『約束』は? 結ばれたの?」と純奈。彼女もかなりあせっているようだ。「冴! 『約束』は? あんたは何も返事をしていないでしょ?」
「……分からない……わよ。『約束』を実際に手を交わして結んだことなんて無いもの!」
「じゃあ……」
純奈が泣きそうな顔をこちらに向けてくる。僕は彼女の目を真っ直ぐに見られない。確かな覚悟の元に行動を起こしたはずだったが、純奈の抱く感情を思うと、どうしようもない気持ちが沸いてくる。
「『約束』の定義は分かりませんが。分からないこそ注意が必要です。一方的な約束、という言葉があるように、『約束』なんて双方の考えに相違があっても成立してしまうものです。実際に特化因子としての『約束』が成り立ったかどうかは、遼次さんが佐渡さんに敗北することでしか確認しようがありません……」
「そんなのだめです!」と小町。
「勿論んです。ですから、『約束』が結ばれたのか確認する術はあってないようなものです。もはや確かめることもなく、一方的に解決するしかありません――遼次さんには勝っていただくしか――」
「遼次! また勝手に! なんでよ……」
僕はまだ純奈の目を見れずにいた。彼女の言葉から伝わってくるものに、僕の胸は強く締めつけられている。彼女の思いを目を通して受け取ってしまったら、僕の覚悟は跡形もなく壊れてしまうだろう。
君塚はその反応が示したように、一瞬で僕の計画を悟ったようだ。彼の言葉の通り、現状で『約束』が成立したのかは誰にも分からない。それを調べるための行動は、すなわち僕が罰を受けることだ。僕自身南後から彼女の祖母に起きた事件を聞いた後に、それを試すような行動は起こせない。
痛いくらいの視線を体中に感じる。純奈や南後も、僕にありったけの言葉をぶつけたくて仕方が無いだろう。しかしそんなこと意味はないのだ。『約束』の審議をする暇など僕らにはなく、それが分からないからこそ、『約束』が怖いのだ。つまり、決闘には僕がでるしかないことを皆分かっている。同時に僕が勝利しなければいけないことも。
時計の針は無情にも進む。残酷なほど一定のリズムで。純奈の諦めたような言葉を合図に、僕らは無言でモノリスを出た。
向かう先は三嶋が指定した体育館だ。商業区に人はまばらで、いつもの放課後のような活気はない。その間を僕らは無言のまま進む。純奈を先頭に並ぶでもなく、綺麗な列をつくるでもなく。他人から見れば、僕らは一緒に一つの場所を目指して進んでいるようには見えないだろう。他人同士のような距離感と、ひたすらの沈黙。
体育館が近づくと、純奈がおもむろに振り返った。
「どういう作戦なの?」
「何が?」
僕はあえてとぼけた。
「国光が強いってことを知った上で、あえて『約束』を結んだ意味よ。冴を戦わせたくないからって咄嗟の考えで手を握ったわけじゃないでしょ?」
勿論だ。僕の説明不足に原因があるのは明らかだが、皆もう少し僕のことを信じてくれてもいいのではないだろうか。僕だって『約束』の罰を甘んじて受ける気はない、つまり国光に易々と負ける理由は無いのだ。
僕は純奈に「大丈夫だよ」と告げると、体育館の扉をに手を掛けた。
僕は予期してなかったその様相に目を見開いた。体育館には人という人が詰め込まれていた。さすがに全校生徒には遠く及ばないが、それでもかなりの人数だ。僕らの存在に気づいた三嶋が歩み寄ってくる。同時に人ごみが裂け、中央を空けるように人々が壁際や二階の席へ移動する。
「来たね。誰が決闘を?」
「僕です。それにしても……この人数は」
「形式化するって言ったろ? 勝負事に観客は必要不可欠だ。この場合は証人とも言えるかな」
彼はにこりと笑って僕を中央へと促した。彼はそのまま僕を追い抜くと、ステージ上へと上がった。
「やぁ、みんな! 決闘の時間だ!」
彼の言葉に呼応するように、そこかしこから歓声が上がる。目が合った僕に手を振ってくる人までいる。ただの喧嘩によくもここまで騒げるものだ。はたしてここにいるどれくらいの人達が、今回南後と近衛達に起こった詳細を知っているのだろうか。
「ルールは簡単! ただの喧嘩だ! しかしストリートファイトとはわけが違う。僕らには特化因子がある!」三嶋はなおも観客を煽る。
正直、特化因子にマイナスのイメージしかいだいていないであろう玲瓏の生徒達に、ここまでの興奮を起こさせる彼の手腕には素直に感嘆する。あえて因子に目を向けて、スポーツ感覚での視点を設けることでうまく認識の変化を起こさせている。格闘選手に個々の得意技があるように、僕らには個々の特化因子がある。僕は周囲の熱気を受けて自然と興奮する自分を感じた。
「やっぱり遼次か」
振り返ると国光がいた。
「僕が出なきゃ話が進まないだろ?」
「勿論。気づいてくれてよかったよ」
「近衛さん達は?」
彼があごで示した先には、二十人あまりの人たちが固まっていた。彼女達からは熱気がまるで感じられず。冷めた視線を僕に返してきた。
「ルールは簡単! どちらかが背中か両膝をつくか、もしくは参ったが出るまで。今回は両者サイドに複雑な事情があるから、勝敗によっては不服と感じ意義を申し立てる可能性がある。だけどそれはフェアじゃない! 勝負は一度。後腐れもなく、不満の一つも残しちゃいけない! オーケー?」
彼は観客に聞いた。彼らは歓声で同意を示す。しかし三嶋の今の質問は観客というよりは近衛達に送られたものだろう。本人達もそれが分かっているのか、しっかりと三嶋に頷いて見せた。
彼は近衛達の頷きを横目でしっかりと確認しつつ、「じゃあ、二人とも位置について!」と言った。
僕らはあらかじめ張られていたテープの前に移動する。お互いの位置は三メートル程離れている。向き合うと、国光がぎりぎり聞こえるか程度の声で僕に言った。
「二発。肩と腹に入れる」
彼の宣言をかろうじて拾った前の観客が声を上げる。しかし今のは決して決闘前のアピールなどではないだろう。彼はその二発をで終わりにしようとしているのだ。決闘も、勿論南後への報復も。この事件にけりをつけるための二発を浴びせることを、僕にあらかじめ告げたのだった。僕はすかさず返した。「嫌だね」
「決闘開始!!」
予想外の僕の返答に目を見開いた国光。同時に三嶋の合図が響いた。僕らはどちらともなく自然な足取りで近づきあう。
「遼次、俺の意図が分からないのか?」
小声で国光が僕に言う。
勿論分かっている。その上で僕は殴られ、彼にやられてはいけない理由が出来たのだ。それを今彼に伝える術はない。だから、「全力で」と返すのが精一杯だった。
国光は僕の言葉に覚悟を決めたようだ。堅く握られた拳が僕の顔すれすれで音を切った。牽制のつもりで放たれたそれに、僕は一切反応することが出来中立った。おまけに耳元で空を切るすの音に僕は恐怖心すら感じた。彼は単に体を鍛えていただけではないようだ。戦い方を知っているのだろう。僕は後ろへと足を下げ、一気に距離をとる。
しかし追うように詰めてきた国光の二発目が、今度こそ僕の顔を捉えた。左頬に突き刺さったそれは引かれることなく、そのままの勢いで僕を押した。
揺れる視界と遠ざかる国光。僕はもつれるように後ろへと下がった。勿論僕の意思ではない。わあぁっと歓声が耳に響いた。依然視界のゆがみは収まらない。観客の声という声が、果たして僕のどの器官からへと入ってきているのか、それさえも判別できない。
頭を振ると多少の混乱は消えたが、国光の拳への恐怖心が増すばかりだった。
その場で二、三度ジャンプした国光は再び僕の前へと進んできた。歩くよりも早く、走るほどの動きは見せず。なめらかな挙動で、気づくと彼は僕の目の前まで迫ってきていた。今度は彼の左腕が動いた、と思った瞬間に彼の拳は僕の腹部をきつく圧迫していた。先ほどのストレートとは速さが劣るものだったが、今度こそ確実に僕へと入ってきた。吹き飛ばされる、と覚悟した僕の体はその場で軽く浮き、国光の力をどこへも逃がすことなく全て受け入れた。
口内にうっすらと刺激的な分泌液を感じたまま、拳を抜かれた僕の体はゆっくりと傾いていく。両膝がつく寸前でなんとか体のバランスを取り見上げると、国光の感情の無い能面顔がそこにはあった。
僕は急激に自分の中で湧き上がる憤怒に体を任せて、反撃にでた。決闘へと望む国光の決意や、先ほどまでの純奈達とのやりとりなんて、頭の中には無かった。それらは多分、国光の最初の拳が入った瞬間、僕の体から綺麗に吹き飛んで行った。今僕の行動原理はただの怒りだった、それも底抜けに幼稚で稚拙なやつだ。要はただ痛かったのだ。痛すぎる。その不条理に拳を持って向かっていくことにした。
僕の動きは国光と比べれば酷く緩慢で、余計なものがまとわりついた一撃だったはずだが。僕がこのタイミングで殴り返す、という思考が彼には無かったのか。僕の拳はいとも簡単に彼のガードを抜け、その腹部へと入った。が、
「――いっっだぁ!」
声を上げたのは僕だった。
形こそ悪いが、僕の拳はしっかりと腹部へと届いたはずだった。しかし拳が向かった先は、人体の表現できる堅さを軽く飛び越えていた。込めた力の殆どが僕自身へと返ってきたのではないだろうか。国光の腹部に拳を当てた瞬間、僕は悲鳴を上げた。
痛みを感じる暇も無く、反射の動きで僕は国光と距離を取った。初めにあった三メートル程の距離を一瞬で空けた。
改めて今一瞬の出来事を考える。僕は金属でも殴ったのか? 腹筋というものは最終的にあれほどの硬度を持つものなのか?
僕の痛みなどお構いなしに、国光は平然と立っている。彼には何も響いていないようだ。ということは、やはり彼の特化因子だろうか。考える。純粋に体の硬度を著しく上げる効果。それとも向かって行った僕の拳へと効果をもたらすものだろうか。考え易いのは前者だろう。僕は試しに言った。
「――もしかして、『硬化』? とか……」
「正解!」
そくざに返答をすると、また国光は僕を殴る体制に入った。『硬化』なんて。当てるべきじゃなかった。サイボーグと戦うようなものだ。金属を平気で殴れるやつがどこにいる。少なくとも僕は無理だ。
彼の前進に合わせて、僕は後退を繰り返した。我ながら情けない。再び彼の拳が追いついてくる。
「全力でいいんだろ?」
短い声が聞こえるのと同時に、またもや僕は彼の拳を受けた。胸部への痛みと圧力を受け、僕はくぐもった呻き声を漏らし、再び後ずさった。腹部のそれとは違って、体の芯へと響くような重さは無いが、それでも痛いことに変わりは無い。
だが待て。僕は距離を取りながら考える。『硬化』という因子を持つことは、体は鋼をまとい、拳はハンマーと化すのではないだろうか。しかしどうだろう。僕が受けた痛みは尋常ではないが、ハンマーで殴られる程のものだっただろうか。なぜだ。彼の言葉を信じるのなら、その拳は勿論『硬化』されるはずだ。僕への配慮だろうか。もし彼の『硬化』にもルールや条件があるのなら――。
僕は痛みで鈍くなった頭を振り、当初の作戦を思い出す。彼の因子の粗を見付け、『約束』を果たすためには、僕は彼と同じ土俵に上がる必要がある。
僕は振り返ると全力で走り抜けた。体育館という広さがある場所を決闘の地に選んでくれた三嶋に感謝する。国光を残して走る僕は滑稽だろう。観客のどよめきが聞こえる。待ってろ、すぐにもう一度沸かせてやる。
国光とかなりの距離をとった僕はしっかりと直立し、体を弛緩させ脱力することに努める。血管の中を小さな魚が泳いでいくような、そんな不快な感覚を受けた後、ほてった体の熱が冷めていく。背筋を冷たいものが霞め、同時に頭の奥深くから熱が生まれる。僕の持つあらゆる感覚や器官がそれぞれに意思を持ったように主張を始め、全身が鼓動を始める。観客の声などとうに聞こえない。国光の歩み寄ってくる姿を目で捉えつつも、彼への恐怖心は毛ほどもなかった。
姉さんは言った「かなり珍しくて、かなり使えない」そして姉さんはその使えるシーンを見付け、僕に使い方を教えてくれた。喧嘩なんて好きではない。人を殴るのも、殴られるのも。でも殴られる人はとてもじゃないが見ていられないし、そのためになにかしなければとも思う。仕方ないで済ませられないことがこの世には多すぎることを僕は勿論知っている。でも仕方ないじゃないか。姉さんは僕を育ててくれたし、僕は変わりたいと願い、君塚はそれを認めたくなった。純奈は未来に悩まされているし、小町は孤独と戦っていた。南後は普通でいられない過去を背負ってるし、国光は固すぎる己の意志と向き合うほか無かった。それぞれに大きすぎる理由があって、それぞれが頭を抱えている。そんな世界を日常というあたりまえの言葉で覆い、皆が頑張っている。それらの理由をを突き詰めていって何が残るのか。助けられる人もいるかもしれないが、助けることが全てなのか。考えたって始まらない。終わりもしないけど、また後で考えればいい。ひとまずは仕方ないって考えることも必要だと思う。そりゃ卑屈にだってなるさ。だからあまりに多すぎる問題に目を瞑る時間ぐらい必要だと思う。僕は魔王に挑む勇気なんてないけど、目の前の壁に頭を捻るくらいの卑屈さは持っている。
「仕方ないなぁ」
振りかぶられた国光の拳を避ける。というか、当たらなそうな方へ身をそらす。案の定あたらない。もう一発。あたらない。さらに一発。当然あたらない。
流れの中で、今度は僕が拳を振るった。国光ほどじゃないけど、僕なりに精一杯力を込めた一発。あたる。感触は人間のものだ。堅い筋肉だけど、金属のそれじゃない。国光が腕を払う。一歩下がろう。鼻先を掠めかける彼の腕を押す形で、その勢いを高める。振り子のように回った国光の脇腹に一発。去り際に蹴りも入れる。押された彼がよろめく。
負ける気はしない。頭はぼうっとするが、僕は勝利への『予感』で満ち溢れていた。
国光の腕が伸びる。このまま進んでも当たる『予感』はしない。案の定彼のフェイクだった。そのまま顔に両手で一発ずついれる。後退する彼の肩を掴み、太ももの付け根へ膝をさす。
脳細胞が溶けているのでは、ってくらい脳内は熱くたぎっている。周囲はほのかに光っているようにも思えるし、大衆の影がどす黒く伸びているようにも見える。幻想的な空間の中で、僕はひたすらに体を動かす。考えるまでもなく、僕の拳が当たる先に『硬化』は起こっていなかった。瞬間的な『予感』に体を預け、ただ腕を振るう。姉さんはこの方法を使えば、誰にも負けないと言っていたが、はたしてそうだろうか。結局姉さんには一度だって勝てなかった。
瞬間、僕は人ごみに見知った顔を見た気がした。『予感』に精神が引っ張られ、塗りつぶされたように見える観客の中に、卯月響子がいた気がした。夢――だろうか。そう思うと、途端にこの『予感』も夢ではないかと錯覚してきた。だが次の瞬間、国光のあごへの一発でその期待は崩れる。
『予感』も意識も吹っ飛びそうな感覚を寸でのところで押さえ込み、再び彼へと向かい合う。脳はすでに限界を迎えていた。周囲から発せられる光はもはや眩しく、遠くの景色は完全に真っ黒で見えなかった。おかしな空間に国光と僕がお互いによろよろと立っている。急がないと……。
国光は大きな声を上げながら、僕へと向かってきた。引き寄せられる『予感』を頼りに、僕は体を翻す。彼の拳が頬をかするのと同時に、僕の右手は彼の顔を深くえぐっていた。
あぁ――もう限界だ。足がふるふると震える。視界がぼやけ、頭が痛い。これで最後にしよう、僕は一度眼を瞑り、再びゆっくりと開いた。そこには、投げだされたようにぐったりと倒れた国光の姿があった。勝ったのか?
しかし歓声は聞こえない。三島の声も、純奈の声も。誰も見えない。勝利からの安堵感がすぐに恐怖心へと変わった。溜め込んでいたものが急に体中に広がるが、それを止める術が分からない。『予感』はいまだに続いている。僕の前に提示される数多くの選択肢の奔流に押しつぶされそうになる。暗くなる視界の中で、僕は意識が遠のくのを感じた。自分が倒れていくのか、地面がせりあがってくるのか判別がつかない。体から意識がはがされるような感覚の中で、僕は声を聞いた気がした。
「『予感』は二分が限度って、あれほど言ったじゃないですか――下手くそですね」