第1話:動かない運転席
十月の朝の空気は、少しだけ鼻の奥をツンとさせる。
校庭に並んだぼくたちの影は、夏休み前よりもずいぶんと長く伸びていた。
「おい航太、お前トランプ持ってきた? 大富豪のローカルルール、ちゃんとすり合わせとこうぜ」
後ろからリュックを揺らしながら話しかけてきたのは明だ。その隣で、雄一がすでにポテトチップスの袋を誇らしげに見せびらかしている。まだ出発もしていないのに、男子たちのテンションは完全に最高潮だった。
「ちょっと男子、朝からうるさい。静かに並べないわけ?」
すかさず前を歩いていた紗季が振り返って、ピシャリと言い放つ。その隣で鈴奈と夏帆がクスクスと笑い、歩夢奈はスマホの画面を見つめたまま「はいはい、いつものやつね」と気だるそうに呟いた。
浅羽航太、十二歳。小学校生活最後のビッグイベント、日光修学旅行の朝。
ぼくは「トランプなら持ってきたよ」と明に笑い返しながらも、校門の前に滑り込んできた大きな影に目を奪われていた。
ピカピカに磨き上げられた、最新型の大型貸切バス。
だけど、そのバスのフロントガラスの向こう側を見て、ぼくの胸のどこかが、いつものようにすうっと冷めていくのを感じた。
運転席には、誰もいない。
二〇五〇年代の現代において、それは何も珍しい景色じゃない。慢性的なドライバー不足が極まった結果、日本中の長距離バスは完全自動運転システムに切り替わった。運転席のハンドルは、路線のAIが最適なルートを計算するたびに、生き物みたいにカチカチと勝手に動くだけだ。
便利だし、安全だし、遅れない。
だけど、ぼくにはそれが、なんだか巨大な動く箱に放り込まれるみたいで、少しだけ味気なく思えた。
「よーし、一組、静かに乗車しろよ。席は決まった通りだぞ」
担任の高橋健二先生が、少し眠そうな目をこすりながら声を張り上げる。
バスのステップを上がると、自動ドアのすぐ横に、学校の先生ではない大人が二人立っていた。
「おはようございます。皆さんの修学旅行を担当するコンダクターの三雲です。二日間、よろしくお願いします」
一人は、三雲さん。仕立ての良いスマートな制服を着こなした、二十代後半くらいの男の人だった。背筋がピンと伸びていて、無駄のない動きでぼくたちの荷物の状況をタブレットでチェックしている。
「みんな、おはよう! ツアーガイドの倉科恵美です。恵美お姉さんって呼んでね。日光の楽しい秘密をたくさん用意してきたから、期待してて!」
もう一人は、倉科恵美さん。パッと周囲の空気を明るくするような笑顔の、優しいお姉さんだった。
バスが発進すると、車内はすぐに修学旅行特有の「ワチャワチャ感」で埋め尽くされた。
前の席では健人と知也が携帯ゲーム機の画面を突き合わせて叫んでいる。後ろの席では、さっきの明と雄一がポテトチップスを開けて、女子たちに「匂うからやめてよ!」と怒られていた。
ぼくも最初は、明が繰り出すおかしなルールに大笑いして、一緒になってお菓子をつまんでいた。楽しい。間違いなく楽しいはずだった。
だけど、ふとした瞬間に、ぼくの視線はバスの前方へと向いた。
誰もいない運転席のすぐ横。コンダクターの三雲さんが、真剣な目付きで端末の画面を見つめている。
道路の混雑状況をAIと同期させているらしい。その横では、高橋先生が「三雲さん、次の休憩所の時間を二分早めることは可能ですか?」と、プロの大人として対等に打ち合わせをしていた。
そして恵美さんは、マイクを持って、窓の外に広がるなんてことのないビル群の景色を、まるで面白い物語のプロローグみたいにワクワクする言葉に変えてアナウンスしている。
(……あ)
ぼくの胸の奥が、小さくチクリとした。
ぼくたちは、ただこの席に座って、お菓子を食べて騒いでいるだけだ。
だけど、あの大人たちは違っている。この移動というただの時間を、ぼくたちにとっての「特別な旅」にするために、ものすごい集中力と技術で、この空間をコントロールしている。
お父さんが言っていた「本当に価値のある仕事にしか、人間は関わらない時代なんだ」という言葉が、頭の中でぐるぐると回りだす。
窓の外を流れていく二〇五〇年の街並み。自動で動く誰もいない運転席。
その横で、スマートに、だけど誰よりも人間らしく働く大人たちの背中。
ぼくは、手の中にあったポテトチップスをそっと袋に戻した。
楽しそうに騒ぐ明たちの声が、急に少しだけ遠くに聞こえる。
ぼくは、このままずっと、ただ乗せられているだけの「ガキ」のままでいいんだろうか。
胸の中に生まれた名前のない高揚感と、小さな焦り。
バスは速度を上げ、ぼくたちを乗せて、秋の光が満ちる高速道路へと滑り出していった。




