第6話 慈悲の一撃
変わり果てた男が、赤黒い荒野の向こうから、ゆっくりと近づいてくる。
足を引きずるたび、乾いた地面に嫌な音が残った。
俺は木製バットを握ったまま、動けなかった。
「善一郎様」
ギンコの声が聞こえる。
「次のお仕事です」
「……分かっとる」
分かっている。
分かっている、はずだった。
あれも屍化している。
この世界では、もう生きているとは言えない存在なのだろう。
放っておけば、俺を襲う。
誰か生き残りがいれば、そいつを襲う。
だから倒さなければならない。
理屈では分かっている。
分かっているのに、足が動かなかった。
相手が魔物なら殴れた。
怖くても、気持ち悪くても、まだ何とか割り切れた。
でも。
「あれは……人やろ」
口から、かすれた声が漏れた。
「屍化しています」
「そういうこと言うてるんちゃう……」
男が、また一歩近づく。
俺はバットを構えようとした。
けれど、腕が動かない。
さっきまで振れていたはずのバットが、急に重くなったみたいやった。
「……ぁ……」
男の喉から、音が漏れた。
ただの唸り声ではない。
壊れた笛みたいな、乾いた声。
「……こ……」
俺の背筋が冷えた。
そいつの濁った目が、俺を見ていた。
理性なんて残っていないはずなのに。
それでも、確かに俺を見ていた。
「コ……ロ……」
「……え?」
「コ……ロ……ジテ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが折れた。
バットを握る手から力が抜ける。
足が一歩、後ろへ下がる。
「……無理や」
「善一郎様」
「無理やって……!」
俺は背中を向けた。
光の壁の内側へ逃げ込む。
情けないとか、恥ずかしいとか、そんなことを考える余裕はなかった。
ただ、あれの前に立っていられなかった。
光の壁の内側へ戻った瞬間、俺はその場に膝をついた。
息が荒い。
喉がカラカラに乾いて手が震えている。
屍ゴブリン二十一体を倒した時とも、屍ウルフを相手にした時とも違う震えだった。
「無理や……」
俺は、吐き出すように言った。
「あれは無理や。ギンコ」
ギンコは俺の横まで静かに近づいてくる。
小さな銀色の狐は、黒ぶち眼鏡の奥から静かに俺を見ていた。
「何が無理なのですか?」
「分かっとるやろ」
「言葉にしてください」
「……人や」
俺は光の壁の外を見た。
男が、壁の外で止まっている。
濁った目で、こちらを見ている。
爪ではなく、折れた剣を持っている。
その姿が、どうしても“怪物”だけには見えなかった。
「あれは……変わり果てたとしても、人やろ。喋ったんやぞ。殺してくれって……言うたんやぞ」
「はい」
「そんなもん、始末できるか……!」
俺は両手で顔を覆った。
バットを握っていた手が、まだ震えている。
「ゴブリンなら殴れた。ウルフも殴れた。でも、あれは違うやろ。誰かの家族やったかもしれん。友達やったかもしれん。生きてた人間なんやろ」
「人間だったものです」
「その言い方やめろや!」
思わず声が荒くなった。
ギンコは動じない。
ただ、静かに尻尾を揺らした。
「では、善一郎様」
「……なんや」
「外にいるあの方を、このまま放置することが、本当に生きている人間への敬意だと思いますか?」
「……」
「屍化した存在は、生者を襲います。自我が残っていたとしても、肉体は止まりません。飢えた本能に引きずられ、誰かを襲い、喰い殺します」
ギンコの声は、淡々としていた。
だが、いつものような冷淡な響きはなかった。
「あんな姿になってまで生者を襲い求め、彷徨い続けることが、本当に生きていると言えるのでしょうか」
「……そんなもん」
答えられなかった。
外では、男が光の壁に剣を打ち付けていた。
がんっ。
がんっ。
その音が耳に刺さる。
「あの方は、言いました」
ギンコが続ける。
「殺してくれ、と」
「……聞こえた」
「ならば、なおさらです」
「なおさら……?」
「それは、助けを求める言葉です」
俺は顔を上げた。
ギンコは、外にいる男を見ていた。
「生者として救うことができないのなら、せめて、これ以上彷徨わせない。これ以上、誰かを襲わせない。これ以上、本人の意思に反して罪を重ねさせない」
ギンコが、ゆっくり俺を見た。
「慈悲を与えることも、善一郎様のお仕事です」
「慈悲……」
俺は呟いた。
殺すことが、慈悲。
そんな言葉、昨日までの俺なら絶対に理解できなかった。
いや、今だって理解できているか怪しい。
けれど、光の壁の外にいるあの男は、確かに言った。
殺してくれ、と。
あれが本当に、残ったわずかな自我で絞り出した言葉なら。
俺が逃げ続けることは、助けを求める声を無視することになる。
「……くそ」
俺は木製バットを握り直した。
手は震えている。
でも、さっきよりは少しだけ力が戻った。
「ほんま、最悪な仕事やで……」
俺はゆっくり立ち上がった。
足が重い。
胸の奥が苦しい。
でも、逃げ続けるわけにはいかなかった。
光の壁の外。
男が、こちらを見ている。
その濁った瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、人間の名残が見えた気がした。
「ギンコ」
「はい」
「俺がまた逃げそうになったら?」
「背中を押します」
「優しくか?」
「物理的にです」
「……やっぱお前のこと好きになれんわ」
ギンコが前足を振る。
光の壁が、縦に裂けるように開いた。
腐臭と乾いた風が流れ込む。
俺は息を吸った。
匂いで吐きそうだ。
俺は今度こそ目を逸らさぬよう、男を見た。
「……行くで」
「はい」
俺は光の壁の外へ、もう一度踏み出した。
男が、折れた剣を持ち上げる。
その動きは、屍ゴブリンとはまるで違っていた。
ふらついている。
足を引きずっている。
それなのに、剣を構える動作だけは、妙に様になっていた。
「……冒険者でしょうね」
「冒険者?」
ギンコが背後から言った。
「主に魔物を狩ることを生業にする戦闘集団です。生前の身体記憶が残っているのでしょう。屍化していても、身に沁みついた技術は失われませんので」
「嫌な仕様やな……!」
男が踏み込んだ。
速い、というほどではない。
だが、屍ゴブリンのような雑な突進ではなかった。
折れた剣が、俺の肩口を狙って振り下ろされる。
「うおっ!?」
俺は慌ててバットで受けた。
がんっ、と硬い音が響く。
腕が痺れた。
「重っ……!」
剣自体は折れている。
体も腐りかけている。
それでも、振り下ろされた一撃には積み重ねられた重さがあった。
男が、すぐに二撃目を繰り出す。
横薙ぎ。
俺は後ろへ跳ぶ。
剣先が胸元を微かに掠めた。
加護の光が一瞬だけ弾ける。
「痛てぇ!」
「動きを見てください、善一郎様」
「見とるわ!」
「見ているだけではダメです。読んでください」
「こちとら素人やぞ! 無茶言うな!」
男は、また踏み込んでくる。
俺はバットを握りしめた。
さっきまでの本能で動く屍ゴブリンや屍ウルフとは違う。
この男の攻撃は、経験と知識に裏打ちされた攻撃や。
剣先が、自然に首や肩へ吸い寄せられる。
適当に振っているんやない。
ちゃんと、殺しに来ている。
殺したくて殺そうとしているのか?
それとも、体が勝手に動いているのか?
思考の隙間に、剣が俺の目の前をすり抜けた。
「ぐっ!」
加護の光が弾ける。
折れた剣が俺の肩に当たり、紫電に阻まれた。
体に鈍い痛みが走り、衝撃で体勢が崩れる。
「追撃がきます。動いてください!」
「くそっ!」
俺は横へ逃げる。
男が追ってくる。
足を引きずっているせいで、踏み込みに少しだけズレがある。
剣筋は鋭い。
生前は、本当に戦える人間だったのだろう。
俺みたいな素人とはまるで違う。
まともにやれば勝てない。
だが。
「……足」
そうだ。
剣は鋭い。
腕の動きも速い。
だが、足が遅れている。
踏み込むたびに、引きずっている足が半拍遅れている。
そのせいで、攻撃の後に一瞬だけ体が流れていた。
ほんの一瞬、隙が出来る。
「来るで……」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
男が剣を振り上げる。
肩が動き、腰が回る。
そして、足が遅れる。
俺は後ろへ下がらず、半歩だけ横へずれた。
剣が俺の目の前を通り過ぎ、風が頬を打つ。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
だが、避けられた。
「今です!」
「おらぁっ!」
俺は横薙ぎにバットを振った。
体が流れた男の脇腹に当たる。
ごきりっ、と嫌な音が鳴った。
だが、灰にはならない。
男の体がくの字に折れてよろめく。
「畳みかけるチャンスです!」
「うおおおおっ!」
俺は前へ出る。
すると男が、前へ出た俺に合わせるように、無茶な体勢で剣を掬い上げた。
俺はすかさず上半身をのけぞらせ、それを避ける。
剣が迫るたび、心臓が縮む。
無理に剣を振った反動で、男の体勢が大きく崩れた。
男が最後のように低く唸った。
「ァ……ウ……」
俺はバットを強く握った。
息が熱い。
手が汗で滑る。
心臓がうるさい。
それでも、目は逸らさなかった。
「……これで、終いや」
俺は呟いた。
バットを上段に振り上げる。
狙うのは、頭。
ここで終わらせる。
「……ァ……」
その瞬間。
男の濁った目が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ。
そこに、人間の光が戻ったように見えた。
「……ア……リ……ガ……」
俺の腕が、止まりかけた。
けれど、止めなかった。
「……トウ」
その言葉を聞きながら、俺はバットを振り抜いた。
ごしゃっ。
頭が砕ける。
男の体が、静かに崩れ、灰になって風にさらわれる。
折れた剣と、男が身につけていたものだけが、乾いた地面に転がった。
俺はバットを振り抜いた姿勢のまま、しばらく動けなかった。
目の前には、もう誰もいない。
ただ、男が存在したという証だけが残っている。
「……ありがとう、やって」
口から声が漏れた。
俺は笑った。
笑うつもりなんかなかった。
楽しかったわけじゃない。
嬉しかったわけでもない。
ただ、笑わなければ、何かが壊れそうだった。
「は……はは……」
乾いた笑いが喉から漏れる。
「なんやねん、この世界……」
魔物だったものがいる。
人間だったものがいる。
赤い空の下で、終われなかったものが歩いている。
そして俺は、借金を返すためにそいつらを殴っている。
しかも、殺してくれと言われて、ありがとうと礼まで言われた。
「ほんま……どうなっとんねん……」
乾いた笑いが、しばらく喉から離れなかった。
泣きたいのか。
怒りたいのか。
叫びたいのか。
自分でも分からない。
ただ、胸の奥が熱くて、気持ち悪くて、痛かったんや。
「善一郎様」
ギンコが、静かに俺を見ていた。
「……なんや」
「あなたは、やはり素晴らしい逸材ですね」
「お前、喧嘩売っとんのか……」
「恐怖を知っている。迷いもある。逃げもする。ですが、追い詰められた時には、一線を踏み込む覚悟ができる」
ギンコの言葉に、俺は唇を噛み締めた。
逃げたかった。
見捨てられるなら、そうしたかった。
それでも、最後の瞬間、俺はバットを振り抜いた。
……こいつの言った通りかもな。
「この世界で生き残るのは、恐怖を知らない馬鹿ではありません。恐怖を抱えたまま、必要な時に踏み込める者です」
「要するに、ビビりのくせに無茶する阿呆ってことやろ……」
「褒めているんですよ」
「……そうかいな」
俺は、地面に転がった折れた剣を見た。
刃は半ばから折れ、柄には乾いた血がこびりついていた。
持ち主は、もういない。
それでも、最後にあの男は「ありがとう」と言った。
その声だけが、耳の奥に残っている。
「……なあ、ギンコ」
「はい」
「こういうのが、この先も続くんか?」
ギンコは即答した。
「この世界では、珍しいことではありません」
「最悪やな」
「はい。最悪です」
俺は空を見上げた。
赤黒い空。
乾いた風。
そして、灰になって消えた男。
そのすべてが、ここは俺の知る世界ではないのだと突きつけてくる。
剣があり、魔法があり、魔物がいる。
けれど、そこにまともな冒険なんてものはなかった。
ここにあるのは、死に損なった人間と、死にきれない魔物と、終わりかけた世界だけ。
「……ほんま、地獄の出稼ぎやで」
俺は男の残した剣へ手を伸ばしかけて、止まった。
これを持っていた男の名前を、俺は知らない。
何を守りたかったのかも知らない。
ただ、最後に俺へ「ありがとう」と言った。
その事実が、胸の奥に重く沈む。
吐き気にも似たものが、喉元まで込み上げた。




