第4話 地獄の新人研修
まだ、手が震えていた。
目を閉じると、バットが肉を潰した感触が蘇る。
いまだに、胸の奥には妙な熱が残っている。
怖かった。
吐きそうだった。
傷一つ付いていないのに、体中に鈍い痛みが残っている。
正直、生きた心地がしない。
「お疲れ様でした、善一郎様」
ギンコが、俺の顔の横までとことことやってきた。
銀色の狐が、黒ぶち眼鏡の奥から俺を覗き込んでいる。
「初戦闘としては、まずまずの結果です」
「それ褒めてんのか……」
「褒めています」
「どこがや……」
「逃げることなく二十一体を討伐しました。結果だけ見れば上出来です」
「結果だけ……」
「ただし」
ギンコの声が、少しだけ冷えた。
「善一郎様が生き残れたのは、木製バットの屍特効と、三日間限定の加護があったからです」
「……分かっとるわ」
分かっている。
俺が強かったわけじゃない。
ただのサラリーマンが、急に無双できるわけがない。
何度も噛まれ、何度も爪で引っかかれた。
もし加護がなければ、最初の数匹で終わっていた。
もしバットがただの木の棒なら、一匹目すら倒せなかったかもしれない。
「現状の善一郎様は、武器と加護に生かされているだけです」
「言い方はムカつくけど、その通りやな……」
「はい。事実です」
「だから事実で殴るな……」
俺は腕で顔を覆った。
空が赤く淀み、風が乾いている。
疲れ切った体で空をただ眺めていると、ふと母さんの顔を思い出した。
豪快で奔放な性格の母さんなら、こんな壊れた世界でもすぐに順応しそうや。
想像して、少しだけ笑えた。
その笑いが消えたあと、胸の奥が痛くなった。
……あの人を、こんなヤバい連中に巻き込ませるわけにはいかんよな。
「善一郎様」
「なんや……」
「先ほどの討伐で、ポイントが加算されています」
「ポイント……」
俺は顔を覆っていた腕を少しだけずらした。
「どれくらいや?」
「屍ゴブリン二十一体。個体差、そして加護発動による増減を含め、合計二千四百ポイントです」
「二千四百……」
頭がうまく回らない。
だが、数字だけは聞こえた。
「それ、返済に回したら?」
「現代円換算で二十四万円です」
「おお……すげぇ」
一瞬、少しだけ嬉しくなった。
二十四万円。
ほんの短い時間、死に物狂いで戦っただけで、俺の手取りの月給と同じ額を稼いでもうた。
とんでもない金額や。
命を張る仕事やとしても、破格なのではなかろうか。
だが。
「なお、現在の借金残高は百億とんで十二万円です」
「焼け石に水ぅ……」
「その通りです」
「ちょっとくらい否定してくれや」
「では、琵琶湖に目薬程度です」
「悪化したわ!」
俺は大の字のまま、深いため息を吐いた。
二十四万円。
たしかに大きい。
でも、百億には遠すぎる。
遠いとかいうレベルではない。
地平線の向こうに借金が立っている感じだ。
無理ゲー過ぎるやろ……。
「そこで提案があります」
ギンコが言った。
「提案?」
「この三日間、獲得したポイントは借金返済に充てず、善一郎様自身の強化に回すべきです」
「返済せんのか?」
「はい」
ギンコは即答した。
「理由は単純です。今のまま加護が切れれば、善一郎様は確実に死にます」
「確実って言い切るなや……」
「言い切れます。今の戦闘で証明されました。加護がなければ、善一郎様は何度も殺されていましたよ」
「……まあな」
「つまり、三日後には今のやり方は通用しません」
ギンコは尻尾を揺らした。
「返済を急ぐ気持ちは理解します。ですが、ここで二十四万円を返済して後に死亡するより、三日間で戦える体を作り、長期的に稼げるようになる方が合理的です」
「つまり……」
俺はギンコを見上げたまま呟いた。
「初期投資ってことか」
「はい」
「借金返済のために、まず自分に金を使う」
「その通りです」
「なんか、自己啓発本みたいやな……」
「死にたくなければ、実践してください」
「圧が強い自己啓発やな」
俺はゆっくり体を起こした。
腕が痛い。
肩が重い。
膝も笑っている。
だが、立てないほどではない。
「で、強化って何するんや?」
「ポイントによる身体強化と装備の更新です。あとはスキルや魔法の習得もいいでしょうね」
「そ、そんなことも出来るんかい……ゲームやな」
魔法。
その単語に、疲れ切っていた頭が一瞬だけ反応した。
そんなものまで買えるのか。
いや、買えるってなんや?
夢があるのか、地獄が深いのか、もうわけ分からんわ。
「我々も、百億の回収のため、善一郎様に簡単に死んでもらうわけにはいけません。戦う姿勢を崩さない限り、手厚いサポートはいたします」
「三日でそれ全部やるん?」
「やります」
ギンコは涼しい顔で続けた。
「最初の三日間は、ボスのご厚意による加護があります。つまり、多少無茶をしても死ににくい期間です」
「発動するたび一万円取られる加護を、ご厚意って呼ぶんか……。一ミリも温かみないんやけど」
「この期間を逃せば、善一郎様の生存確率は大きく下がります」
「……やるしかないってことか」
「はい」
俺は、手元の木製バットを見た。
さっきまで屍ゴブリンを殴り続けていた武器。
十二万円の借金を増やした、ぼったくりバット。
でも、今の俺にとっては命綱や。
「……分かった」
俺はバットを握り、息を吐いた。
「返済は後回しや。まず、生き残るために使う」
口にして、ようやく腹が決まった。
俺に百億なんて途方もない金額を返済できるのか分からない。
けど、無理だと決めつけ諦めたら、元の世界に戻る事なんて絶対不可能だ。
この世界で生きていくために、必要なことは一つ。
「ギンコ。俺を鍛えてくれ」
「お任せください。泣いたり笑ったり首を括りたくなるような地獄の研修で、善一郎様を立派な企業戦士に仕立て上げてみせましょう」
「うちの会社よりブラックな予感……」
これから三日間、地獄の新人研修が始まるらしい。
俺は小さく笑った。
疲れすぎて、笑うしかなかった。
異世界に来て、初日。
借金は増えた。
命懸けで稼いだ金は、返済ではなく、自分を鍛えるために消える。
何一つ、思い通りにならない。
俺はそう呟きながら、赤黒い空を見上げた。
帰りたい。
めちゃくちゃ帰りたい。
けど、帰る道なんてどこにもない。
だったら、必死になって生き残るしかない。
百億の借金を返すために。
母さんを守るために。
そして――。
元の世界に戻って。
あのパンチ親父と、すべての原因を作った糞親父を、必ずぶん殴るために。
俺は、木製バットを握り直した。
まだ手は震えている。
けれど、その震えの奥に、ほんの少しの火が灯った。




