さらば三兄弟 の巻 85
まったくだった。近づけば近づくほど野の崩れ落ちてゆく様は明らかとなってくる。のみならず崩しているものこそ這い上がらんと穴の縁へ手を伸ばし、もろとも転がり落ちてゆく荒魂どもだ。
「突っ込むぞぉッ」
そんな壁が目の前に迫る。叫んで雲太はつくしの頭を抱え、みなを乗せて天浮橋は中へ飛び込んでいった。
うわああ、と悲鳴は上がる。
中はひどい嵐だ。上も下もありはしない。なぶられてつくしは雲太へしがみつき、雲太も和二も京三も、命ですら次々と投げ込まれてくる稲光に身を縮めた。その体はずぶ濡れとなり、やがてぼむ、と天浮橋は黒雲の中から飛び出す。
風が止んでいた。
ただしとしとと雨だけが降っている。
震わせてどうん、どうん、と響く音はあった。
額から落ちる滴もそのままだ。雲太は顔を上げてゆく。足元に、いや見える限りに広がる大穴へ目を見張った。果たしてここは野であるのか。見失いそうになって、どこからともなくまたどうん、どうん、と響く音を耳にする。
誰もがそぞろに、そちらへ顔を向けていた。
あ、と息をのんだきり動けなくなる。
赤黒く焼けた土だ。それは天浮橋の飛ぶ早さが遅くなってしまったのかと思うほどの大きさで、穴の底から噴き出している。そのたびに音はどうん、と空を揺らし、凄まじさにも大きさにも雲太らはただ背を反らせると仰ぎ見た。
向かって天浮橋はまっすぐ空を飛んでゆく。やがて三輪のお山はここだと教え、柱の周りをなぞり飛んだ。ならそれは一周するかどうかという所だ。赤黒い柱の中に焼け焦げることなく浮かぶ人影があることに気づかされる。
や、と命が声を上げていた。
「あの者がわしの幸魂、奇魂なるぞっ!」
なにを、と雲太も目を寄せてゆく。市で会った人も良さげなあの男だ。命とうり二つの姿で浮かんでいた。
見据えて、ぐぐぐ、と雲太は背を膨らませてゆく。まだ烏の忠告も耳に新しく、だからしてつくしをそうっと遠ざけた。遠ざけて右、左、と天浮橋に足を立ててゆく。
「京ぉッ、三ッ」
「まさか、ここでですかっ?」
察した京三の声は信じられない、と言わんばかりだ。
「地がないッ」
だとしてもう和二も、小鬼と浮かべた笑みで跳ね上がっている。
「がってん、うんにい。おいらは引き受けたぞっ」
つまりやるしかない様子で、京三の目はそのとき命へ飛んでいた。
「つくし殿をお願いいたしますっ」
かまわんことよ、と返した命は、ささ、とつくしを天浮橋の一番後ろへ退かせる。共にその場で身を低くした。
かばって前に立つと京三は、腰より剣を引き抜く。
「祀られずいたことは不憫ではありましょうが、さりとて野を祟るなどと過ぎたる所業」
濡れて湿った剣はいつもにまして手に馴染み、ひとたび握りなおして柄頭から布を取り去る。それきり布は風に揉まれて彼方へ消え、あとを雲太が継いでいた。
「怒り、鎮めんがため……」
傍らで、履物を脱ぎ捨てた和二も腰を落としている。
様子に男も焼け土の中、気づいたようだ。周りを飛ぶ雲太らを追いかけて、その肩をひるがえした。
目と目は合い、瞬間、穴の底めがけて互いの間に稲妻は走る。
「高天原より御力、降らしたまへッ」
光が唱える雲太の顔を照らした。背でジャン、ジャン、ジャン、鈴は振られ、絡めてぱんぱん、手を打ちつける。鈴の音に祈りを乗せて、高く祈請を打ち上げた。
男も、えいや、で腕を振り上げる。焼け土はどうん、と噴き上がって真っ赤な土をぱらぱら、降らせた。
だが降らず、そのとき雨粒だけがぴたり、動きを止める。
来る。
神の気配は身の内より。
感じて雲太と和二は、そうっと顔を上げていった。
「つまり、これですね」
ぱしり、掴んだ天照の手で音が鳴る。いわずもがなそこに野より撃ち上げられた祈請は握られていた。烏は、は、と短く答えて頭を垂れ、戦の支度を整えた神々らもざわめく。
「先に木偶らを差し向けるとは、さすが八咫。気が利きますよ」
祈請へ天照は目を通してゆき、もったいないお言葉、と烏はなお頭を下げるがそれこそ謙遜であることは天照にもお見通しだ。だからして読み終えたそこから投げた目で、ふ、と烏へ微笑んだ。返して烏も同じに笑む。だが和むにはまだ早い。頬を引き締め集まる神らへ、t魏の瞬間にも天照は身をひるがえしていた。
「あの影は大国主命の幸魂、奇魂が荒魂となったもので間違いなしっ。国津神らを束ね、野を祟らんと荒ぶっているとのことっ。その祓いを求める祈請が今、野より届きましたっ」
成り行きにごくり、生唾を飲み込む音が聞こえてきそうだ。
「ゆえに天津神は全勢力を上げ、これより野を鎮めに向かう。用意はよいかっ。いざ鈴の音へ参られよっ。そこで荒魂をひとつ残らず祓い、芦原の野を我らのものと取り戻すのじゃっ」
握る祈請を突きあげた。なら天照の頬はつるり、と照って、高天原全体から、おう、と応える勇ましい声は上がる。
これはたのもしい。見回す烏の嘴もゆるんだ。
前で天津神らは次々と、その身を野へ投じてゆく。追って数え切れぬほどの兵士もまた連なれば、軌跡は光となって尾を引き、遥か足元に浮かぶ星と高天原をつないできらめいた。それはまさに流れ星の大群が野へ降り注いでいるかのような光景で、まこと壮大な有様に烏も目を丸くして、かあ、と鳴きかける。
押し止まった。
いや、思うように出ない声のせいで喉が詰まったのだ。その妙なあんばいに、どうしたものかと調子を探る。だがようやく出せた声はといえば、こうだった。
「我、天下らせし天照へ、申し立てる……」
低い。のみならず、身に覚えのない言葉に烏は驚き慌てて嘴を押さえつけた。
前でいぶかしげと天照は振り返ってゆく。