さらば三兄弟 の巻 86
「捕まって下さぁいっ!」
天浮橋の上、つくしが声を張り上げた。
「なんとっ」
うわずる命もろともつくしもまた、天浮橋をこれでもかと握りしめる。
三度どころか京三の振った鈴は今や鳴りやむ様子にない。両手で押さえつけねば飛んでゆきそうなほど柄頭の中で暴れ回っていた。
「どうなってっ!」
そのとき、動きを止めていた雨粒が天浮橋を、いや乗る雲太と和二の手を目指して空を走る。それはもう、じう、と滅するにあり余る数で、より合い、かたまり、濁流へ姿を変えてだぱん、二人の手へぶち当った。食らって二人は声を上げ、堪え切れず天浮橋の上で足を滑らせる。端から飛び出してしまいそうになったところで天浮橋が身を立てたなら、掴んでおらねば振り落されていたことだろう、雲太らは天浮橋ごと雨粒に殴られ彼方へひと思いと吹き飛んだ。
黒雲、渦巻く嵐の中へぼうん、と飛び込み、止まらず突き抜けどこぞの浜辺へ落ちる。
砂は水しぶきかと吹き上がり、浜をえぐった天浮橋はいくらも滑ってようやく動きを止めていた。
どどん。
波が重たげと打ち寄せる。
押し寄せた雨粒は、ようやくそこで白くけぶると消え去っていた。
「つくし殿っ。命っ」
辛うじて天浮橋を掴み引っかかる二人へ、まだ鳴り続ける剣を捨てた京三が手を伸ばす。
「来るぞ。離れろぉッ、京三ッ」
背へ雲太が投げつけた。
はっ、と振り返ればもう目の前だ。穴を広げながら黒雲の壁は、その足元でオロチとなり、ムカデとなって野を崩す無数の荒魂と共に迫っている。
「こちらです、早くっ」
二人を抱え起こすが早いか京三は天浮橋から飛び降りた。
頭上を、高天原とを通してかつてない強さで風は吹き抜ける。うるさいほど鳴り続けていた剣すらさらって舞い上げた。落ちてさくり、剣は柄頭で暴れる鈴もそのままと浜へ突き立つ。
雲太と和二の足へ、そのとき重みはのしかかった。大きさに天浮橋さえも踏み潰す。足りず砂浜もまたごぼり、落ち窪ませた。真ん中で光は二人の手に小さく、しかしながらこれまでにないほど明るく灯る。見る間に膨れて二人を飲み込んでいった。それは日が降りてきたのかと思うほどの眩しさで、浜は真白と覆われてゆく。
見えぬからこそ見定めて、つくしが、必ずお戻りを、と叫んでいた。
見ておれぬ京三と命は手をかざし、目を細めたところでひゅっ、と縮んだ光に息をのむ。
とたん、だああっ、と雲太に和二から声は上がっていた。その手から飛び散る塩は刃物のごとき鋭さだ。もろともしゅうっ、と風切り神は現れていた。それは一柱にとどまらない。建御雷が、素戔嗚が、軻遇突智命が、瓊瓊杵尊に、獅子に龍に剣が、いや、まだ足りんと無数の兵士さえもが次から次へ飛び出してゆく。勢いに浜の砂は跳び散って、寄せる波が泡立ち舞った。舞い上げ空をここが高天原かと無数の神々で埋め尽くしてゆく。
「今、なんと?」
かたや高天原で天照は首をかしげた。
だが問われたところで烏こそわけがわからない。見つめ返してただぷるぷる、首を振り返す。はしからまたあの声を放っていた。
「恥ずかしめを……」
羽で押さえつけるがもう止まらない。
「忘れまじ」
見下ろす天照の顔でぴくり、と眉も動く。やおら鼻先を烏へ突き出し、ひくひく動かしたなら、その目をきつく細めていった。
「くしゃい」
たちまち、まさか、と過らせたのは烏だ。だからこそ、ぶんぶん、頭を振り返していた。しかしながらもう全ては手遅れだ。
「……そなた、八咫ではありませんね」
みなの出払った高天原にしん、と天照の声は響く。烏は目を潤ませ、裏腹と一筋の煙はそのとき烏の背から立ち上った。だからといって熱くはない。振り返った烏はただ、ぎゃふん、と跳ね上がる。再び祟りをたぎらせつつある鳩の火種へ、あれほど清めたはずなのに、と目を白黒させた。だが消そうにも届かない。見る間に煙の底から炎は立つと、勢いで烏の嘴をまた操りだした。
「我は大国主命の幸魂、奇魂なり。八百万、国津神を束ねて国造る命、かなわぬならば、国津神を束ね祟りて芦原の野を治めん」
「しくじりましたね、八咫」
胸のつぶれる思いで聞いて烏は、かあ、と鳴いた。
それが最後となる。両の翼へぶわ、と炎は燃え広がっていた。黒かった瞳は真っ白と裏返り、劫火、燃え盛る火の鳥と化す。
「しかとその目で見届けるがよい。国中之柱を倒して高天原の底を抜き、なきもとしてくれるわっ」
炎渦巻く翼はもう倍ほどの大きさだ。広げて空を叩きつけ、祟る熱風を送り込むと鳥は、ばさ、と飛び上がる。
「たっ、たわけたことを申すなっ」
降りかかる穢れを払い、天照は袂をかざした。続けさま、出あえ、と声を張り上げかけて、はたと気づき押し止まる。なにしろみなすでに野へ降りた後だ。もう高天原には一柱もおらず、それを知っての口上か、思うままにぎりりと奥歯を噛みしめる。噛んで意を決したなら、かざしていた手で重ね衣の襟を掴んだ。力任せと身から剥がす。なら、ばさばさひるがえった衣の下から、矢羽を背負った勇ましき戦姿は現われていた。なんの、備えのよさは素戔嗚が母、恋しと野を荒らし、担当の配置換えを訴えて高天原へ参じた時からだ。その時も天照はこの段取りで、素戔嗚を出迎えていたのだった。
のみならず払われた衣も弓へ絞れると、天照の手の中へ落ちてくる。
「ええい、そうはさせぬぞっ」
握りしめ、つがえる動きに無駄はない。狙い定めた天照の瞳に鳥の姿は赤く映り、気合もろとも矢を放った。
「は、愚かなり天照っ」
だが熱風、逆巻きひょん、と鳥はしなる矢をかわしてしまう。
「まちやれっ」
鳥が飛び行く方角こそ国中之柱の立つ場所だ。まずい、で天照の手も振り上げた。駆けつけたのは御存じの天浮橋で、ところが飛び込んできたその姿はどんよりねずみ色と、これが冴えない。
「うう、くしゃいっ」
それもこれも空を覆う黒雲のせいだ。
「こんなものに乗れますかっ」
叱りつけ、天照はくわ、と眼を見開いた。この程度ならまだ容易いと、あまねく野を照らす光で隅から隅まで祓い清めてゆく。んくん匂って成果を確かめ、いざ行かん、で飛び乗った。




