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予定より早い婚約破棄

「エレノア・ヴァレンシュタイン。そなたとの婚約を破棄する」


 王宮の大広間に、その声はよく響いた。


 磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた無数のシャンデリア。金糸で縁取られた緋色の絨毯の先には、王国の次代を担うはずの青年が立っている。


 アレクシス王太子。


 私の婚約者だった男だ。


 彼の隣には、一人の少女がいた。淡い金髪に、春の湖を思わせる青い瞳。清楚な白いドレスをまとった彼女は、怯えたように王太子の袖をつまんでいた。


 聖女リリア。


 この国で、いま最も愛されている少女である。


「そなたがリリア嬢に対して行った数々の嫌がらせについて、証言が集まっている。贈り物を破棄し、侍女を使って彼女を脅し、さらには王宮の庭園で恥をかかせたそうだな」


「……そのような事実はございません」


「まだ言い逃れをするか」


 王太子の眉間に皺が寄った。


 広間を満たしていたざわめきが、いっそう大きくなる。


 私は周囲を見渡した。


 父の姿はない。ヴァレンシュタイン家の代理として出席している叔父は、目を伏せていた。ほかの貴族たちも、私と目を合わせようとはしない。


 なるほど。


 すでに話はついているらしい。


 証人も、証拠も、判決も。


 私がここに呼ばれたのは、断罪の儀式にふさわしい衣装を着せるためだったのだろう。


「殿下。一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「私がリリア様に嫌がらせをしたという、その証拠を拝見できますか」


「証拠ならば、ここにある」


 王太子が手を上げると、側近の一人が書類を差し出した。


 侍女の証言。贈り物を受け取った商人の証言。庭園で騒ぎを目撃したという貴族の証言。


 私は一枚ずつ目を通した。


 日付が違う。


 私が王宮に滞在していなかった日にも、嫌がらせをしたことになっている。


 贈り物の記録には、私の署名を模した筆跡があった。しかし、私はそのような品を注文した覚えがない。


 反論はできる。


 できるが、意味はない。


 この場にいる人々は真実を知りたいのではなく、真実が決まったという事実を共有したいだけなのだ。


 私は書類を閉じた。


「承知いたしました」


「……何?」


「婚約破棄をお受けいたします」


 広間が静まり返った。


 王太子は、予想していた反応と違ったのか、わずかに目を見開いた。


「そなた、自らの罪を認めるというのか」


「いいえ。私は、殿下のお決めになったことをお受けすると申し上げたのです」


「言葉遊びをするな!」


 怒声が飛んだ。


 私は頭を下げた。


「これまでのご厚情に感謝いたします、殿下」


 嘘ではなかった。


 少なくとも、婚約が決まった当初の彼は、こんな男ではなかったからだ。


 いや。


 私がそう思いたかっただけなのかもしれない。


 頭を下げた瞬間、視界が揺れた。


 ひどい頭痛だった。


 こめかみの奥で、何かが砕けるような感覚がした。


 知らないはずの景色が、脳裏に流れ込んでくる。


 見たことのない教室。


 白い壁。


 蛍光灯。


 コンビニの袋。


 深夜のパソコン画面。


 そして、何度も読み返した物語の文章。


 ――公爵令嬢エレノア・ヴァレンシュタインは、王太子への執着ゆえに聖女を陥れ、婚約を破棄された。


 ――その後、領地に帰された彼女は、没落した家とともに歴史の片隅へ消えていく。


 私は息を呑んだ。


 知っている。


 この世界を知っている。


 私は、かつて日本で生きていた。


 平凡な会社員だった。仕事に追われ、帰宅しては物語を読み、休日には寝坊をする。そんな、どこにでもいる人間だった。


 ある日を境に、その記憶は途切れている。


 そして、気がつけばエレノア・ヴァレンシュタインとして生きていた。


 十七年間、当たり前のように。


 自分の過去が二つあることに、今の今まで気づきもしなかった。


 けれど、記憶が戻ったことで、もう一つ思い出したことがあった。


 王国の滅亡。


 それは、物語の本編では描かれなかった結末だった。


 物語の舞台となる王都では、聖女が魔王を封印し、王太子と結ばれる。国は繁栄し、平和が訪れる。


 しかし、読者向けの本編が終わった後、作者が公開した設定資料には、別の未来が記されていた。


 三年後。


 北方の防衛機構が停止する。


 魔物の群れが国境を越える。


 王都は陥落し、王家は滅びる。


 原因は、長年にわたる防衛設備の劣化と、王宮内部の腐敗による内紛だった。


 私はその設定を読んだとき、ずいぶん救いのない結末だと思った。


 まさか、その世界で自分が生きることになるとは思わなかったけれど。


「エレノア?」


 王太子の声で、意識が現在に戻った。


 私は顔を上げた。


 彼はまだ何かを言っていたが、もう耳には入ってこなかった。


 私にとって重要なのは、婚約破棄でも、名誉の失墜でもない。


 三年後に、この国は滅びる。


 そして私は、その滅亡を知っている。


 もっとも、知っているからといって、救わなければならない理由はなかった。


 しかし、生まれた家には責任がある。領地には暮らしている人々がいる。彼らの生活を守ることは、領主の娘である私の責務だろう。


 だが、王都の貴族たちまで救う義理はない。


 彼らは私を切り捨てた。


 ならば、私も彼らに背を向ければいい。


「それでは、失礼いたします」


 私はもう一度礼をして、広間を出た。誰も私を引き止めなかった。


 背中に向けられた視線には、嘲笑と安堵と、ほんの少しの困惑が混じっていた。


     *


 王宮の正門を出ると、冷たい風が頬を撫でた。


 秋の終わりだった。


 馬車の前には、我が家の紋章をつけた御者が立っていた。彼は私を見ると、気まずそうに帽子を取った。


「お嬢様……」


「帰りましょう」


「よろしいのですか。王宮に、もう一度お話を……」


「必要ありません」


 私は馬車に乗り込んだ。


 座席に腰を下ろした途端、全身から力が抜けた。


 窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。


 石畳の道。商店の軒先。焼き菓子の甘い匂い。夕暮れの市場で笑い合う人々。


 ここには、まだ平和があった。


 誰も三年後の滅亡など知らない。


 知らないまま、明日の仕事を考え、家族の帰りを待ち、冬支度をしている。


 私は窓に額を寄せた。


 この世界の人々にとって、明日が来ることは疑いようのない前提なのだ。


 けれど、その前提が崩れる日を、私は知っている。


 だからといって、私に何ができるだろう。


 前世の知識といっても、私は技術者でも軍人でもない。魔法の使い方すら知らない。王宮の権力争いに勝てるほど、人脈があるわけでもない。


 ただ、未来の一部を知っている。


 それだけだ。


 それだけでも、何もしないよりはましなのかもしれない。


 私は目を閉じた。


「お嬢様」


 御者が、窓越しに声をかけてきた。


「領地から、先触れが来ております」


「先触れ?」


「はい」


 御者の声が少し低くなった。


「何と書いてありましたか」


「冬の備蓄について、です」


 私は封を切った。


 中には、領内の食糧事情と資金繰りについて、細かな数字が並んでいた。


 読み進めるにつれ、指先が冷たくなった。


 今年の収穫は不作。


 倉庫の備蓄は、当初の報告より大幅に少ない。


 騎士団への給金は二か月分滞納。


 工房は閉鎖され、修繕費の支払いも止まっている。


 そして、最後の一行。


『現状のままでは、領民の全員が冬を越すことは困難と考えられます』


 私はしばらく、その文章を見つめていた。


 王都を救うことはしない。


 それは決めた。


 だが、この領地はどうだろう。


 ここには、私の帰りを待っている人がいる。私の顔を見て、頭を下げる人がいる。私の名前を呼ぶ人がいる。


 彼らは王都の貴族とは違う。


 少なくとも、私を断罪するために集まった人々ではない。


 私は書状を膝の上に置き、深く息を吐いた。


「……まずは、冬を越しましょう」


 誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。


 それが、私の最初の仕事だった。


     *


 ヴァレンシュタイン領に到着したのは、三日後の夕方だった。幸い野党や獣に襲われることなく帰ることができた。


 馬車の窓から見える景色は、記憶の中にあるものよりもずっと荒れていた。


 かつては一面に広がっていた麦畑が、ところどころ茶色く枯れている。街道沿いの村では、屋根の壊れた家が目立った。


 領都の門をくぐっても、出迎えの人影は少なかった。


 私は馬車を降りた。


 出迎えた家令は、深く頭を下げた。彼の顔には疲労が刻まれ、以前よりもずっと老けて見えた。


「お帰りなさいませ、エレノア様」


「ただいま戻りました」


「長旅でお疲れでしょう。お部屋をご用意しております」


「その前に、領内の帳簿を見せてください」


 家令が顔を上げた。


「……今すぐ、でございますか」


「はい。財務官も呼んでください。それから、倉庫の責任者と工房の管理者も」


「工房の管理者、でございますか?」


「工房はまだ動いていますか?」


「閉鎖されました。もう十年近く前のことでございます。管理者も、今はおりません」


「そうですか」


 私は頷いた。


 そのことは、いずれ調べる必要がありそうだった。


 王都の使者が来るより先に、領地の実情を把握しなければならない。


 食糧。資金。人手。設備。


 何もかもが足りない。


 けれど、何もかもが失われたわけではないはずだ。


 私は、家令に向き直った。


「明日の朝までに、領内の収支をすべて整理してください。帳簿と実際の在庫が合わないものは、理由も添えて」


「承知いたしました」


「それから、閉鎖された工房の場所を教えてください」


 家令は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……あの場所は、もう使いものになりません」


「それでも構いません」


「お嬢様。あそこには、古い魔道具が残されております。危険なものもあると聞いておりますので、近づかれないほうが……」


「危険かどうかは、見てから判断します」


 家令は困惑した表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。


 私は屋敷の中へ入った。


 長い廊下。冷え切った空気。壁に掛けられた歴代当主の肖像画。


 この屋敷もまた、少しずつ衰えているように見えた。


 部屋に戻り、窓を開ける。


 遠くに、領都の外れが見えた。


 あの向こうに、閉鎖された工房がある。


 私は、まだ知らない。


 あの場所に何が残されているのか。


 なぜ、十年前に工房が閉鎖されたのか。


 そして、なぜ王都の記録に、ヴァレンシュタイン家の名前が残されているのか。


 ただ一つ、確かなことがある。


 三年後、この国は滅びる。


 ならば、それまでにできることをするしかない。


 王都のためではない。


 王太子のためでもない。


 私が守ると決めた人々のために。


 私は窓を閉め、机の上に領地の地図を広げた。


 最初に取りかかるべきことは、決まっていた。


 この領地が、どこから壊れ始めたのかを知ることだ。


 そして翌朝。


 私は、十年間誰も開けていないという工房の扉を叩くことになる。


 その奥で、壊れた魔道具が私を待っているとも知らずに。

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