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リングの外では、まだ本当の自分になれていない。  作者: 黒黒の白描 / 黒ノ橙
第五章 霧が晴れた後も、歩みは止まらない
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番外編三 堀口奈々と星のピック

 ギャルアイドルの堀口奈々は、当時、ネット上で伝説的な存在だった。人気絶頂期にはフォロワー数が七百万人を超え、何気なく自撮りを一枚投稿するだけで、トレンドのトップ3に入った。


 メイクにもこだわりがあった。ベースメイクはきれいで、脂っぽさは一切ない。アイラインは太く、目尻を跳ね上げ、つけまつげは密度が高く、くるんとカールしている。下まぶたには自然な涙袋を作り、瞳にはピンクのカラーコンタクト。頬から目の下にかけて淡いピンクのチークを入れ、唇にはマットなヌードピンクを塗り、輪郭はあえてぼかしていた。


 メイクは濃いのに、驚くほど清潔感があった。


 毎週土曜の夜に配信を行い、同時視聴者数が五十万人を下回ったことは一度もなかった。


 歌を歌うだけでなく、自分で曲も書いた。彼女の曲は、メロディーを口ずさんだ瞬間に誰もが覚えてしまう。歌詞も一言一言、自分で書き上げたもので、十代の女の子が口に出せない心の内が綴られていた。


 ギターを抱えてカメラの前に座り、ゆっくりと弦をつま弾きながら、スローバラードを人々の心に染み込ませることもあった。


「皆さん、ありがとうございました。またね!」


 配信を終え、カメラとマイクをオフにする。配信が完全に終了したことを確かめてから、ギターをスタンドに戻した。


 ギャルファッション一式を脱ぎ、ピアスを外す。厚くて重い鋲付きのロングブーツも脱ぎ、コンタクトレンズを外して顔のメイクをすべて落とし、再び眼鏡をかけた。


 三沢葵。清水高等学校に通う現役の生徒会長である。


 生徒会長とギャルアイドル。この二つの顔が同じ人間に備わっているとは、どこから見ても思えない。


 現実には珍しい組み合わせだが、小説や漫画ではよくある設定だ。


 ちょうど休暇中の今、彼女は東京で開催されるステージイベントに招待されていた。


 普段から一人で行動することに慣れている葵は、両親に一言告げて荷物をまとめ、東京行きの飛行機に乗り込んだ。


 ただ、今回は何人かの知り合いに出会った。


「あっ、会長!」空港で葵を見かけた万里葉が声をかけた。「まさか休みの日まで、そんなにきちんとしているなんて。」


 葵は足を止めて振り返った。


「ああ、こんにちは、小笠原さん。どこへ行くの?」


「東京でイベントに参加するんですよ。」


「ああ、そうなんだ。」


 葵は、万里葉の後ろに小柄な女の子が隠れていることに気づいた。長い前髪がほとんど目を覆い、髪の隙間から怯えたような視線だけが、こちらをうかがっていた。


「後輩なんです。八月一日奈津実さん。」


「こんにちは、八月一日さん。」葵はできるだけ柔らかな声で挨拶した。


「か……会長……」


 奈津実は蚊の鳴くような声で何とか言葉を絞り出した。だが、言い終わる前に胃の中がひっくり返るような感覚に襲われ、全身が石のように固まった。思わず遠くの隅に隠れ、今すぐこの世界から消えてしまいたいとさえ思った。


「大丈夫?」


「うん……ちょっと人見知りなだけです。」


「ところで、小笠原さん。」葵は両腕を胸の前で組み、背筋を伸ばして立ち、万里葉と目線を合わせた。いかにも生徒会長らしい厳格な口調で続ける。「普段のあなたは、こんな服装ではないでしょう。今日はどうしてそんなにフォーマルなの?」


「え?」万里葉は、少し大人びていて、どこか上品な服の裾を無意識に引っ張った。「会長、この服のことですか?」


「あなたは毎日のように生徒会室に来るから、普段の気取らない格好はだいたい分かっているつもりよ。」葵はわずかに眉をひそめ、事実を淡々と述べるような口調で続けた。「今日は急に雰囲気を変えて、話し方までわざと落ち着かせている。何か特別な理由でもあるの?」


「会長、それはですね……」万里葉は一瞬、後ろに隠れている奈津実に目をやり、声を潜めて真面目な顔で説明した。「先輩として、後輩に大人っぽくて頼れるお手本を見せなきゃいけないと思いまして。今日はわざわざ、きちんとして見える服を選んだんです。」


 そう言うと、彼女はさらに背筋を伸ばし、何とか上品な姿勢を保とうとした。


 葵はわずかに眉をひそめ、万里葉の純白のパンツスーツに目を向けた。幅広の袖口に、同色の太いベルトで締めたウエスト。中にはピンクパープルの襟ぐりの広いシャツを合わせ、足元は黒のローヒール。普段の彼女とは別人のように、きりりとした装いだった。


「葵!」


 二人は声のする方へ振り返った。


「万里葉もいるじゃないか。」


「佐伯先輩!」


 佐伯凛太郎。現体育部長である。今のところ葵とはまだ付き合っていないが、普段は生真面目な生徒会長の顔が驚くほど赤くなっている。二人の関係がはっきりする日も、そう遠くはなさそうだ。


 彼の後ろから、片山志哉と久守達雄の二人も顔をのぞかせた。


「君たち三人も東京に行くの?」葵が尋ねた。


「ああ、試合があるんだ。」佐伯凛太郎が答えた。


「先輩、三人とも競技が違いますよね?」葵は彼らを見た。「先輩は水泳、片山くんは陸上、久守くんは自転車。何の試合ですか? トライアスロン?」


「トライアスロンには出てみたいけど、まだ持久力が足りなくてね。」佐伯は笑った。「関東地区の高校合同合宿交流戦だよ!」


 久守の視線も、いつの間にか万里葉に釘付けになっていた。あの洗練された白いスーツが、普段の大ざっぱな彼女から意外なほど上品な雰囲気を引き出し、思わず目を離せなくなっていた。


 葵は万里葉の隣で生徒会長らしい端正な佇まいを保っていたが、心の中では佐伯の登場に胸が高鳴っていた。三人が遠ざかってから、ようやくこっそり安堵の息をつき、誰にも気づかれないほど小さく息を吐いた。


 そのささやかな動揺を、隣にいた万里葉は見逃さなかった。彼女は意味ありげに、笑っているようないないような目で葵を見た。


 そろそろ搭乗時刻だ。


 万里葉は奈津実の手を引いて飛行機に乗り込んだ。葵はまるで母親のように、そばに立って二人を見送った。


 八月一日奈津実。オタクで、人と話すのが苦手。それなのに、社交的な万里葉と知り合った。だが数年後には、二人の性格はすっかり逆転することになる。


 東京。うだるような暑さだった。


 空港から市街地へ向かう高速道路では、熱気が幾重にも押し寄せ、車窓越しにも遠くのビル群が揺らいで見えた。


 佐伯たちは体育館の停留所で先に降りた。


「夜七時、見に来いよ!」片山志哉がドアにつかまりながら叫んだ。


「行けたらね。」万里葉は手を振った。


「行けたらって何だよ。」


「こっちが疲れてるかどうか次第。」


 ドアが閉まり、エアコンの冷気が戻ってきて、熱気を再び窓の外へ押しやった。


 ホテルは会場から徒歩十分。


 葵は部屋の前でルームキーを万里葉に渡した。もう片方の手には、すでにバッグを持っていた。


「夕方、会場に行く用事があるの。友達のリハーサルの確認を手伝うことになっていて。」


「会長、主催者の人とも知り合いなんですか?」


「……まあ、知り合いよ。」


 エレベーターのドアが閉まる直前、彼女は振り返って一言付け加えた。


「先にご飯を食べてて、待たなくていいから。」


 午後、ホテルの部屋で奈津実はスーツケースの中身を三度もひっくり返した。


 唯一まともだと思える服を手に取り、鏡の前で体に当ててみては、また戻した。


「変じゃないかな。」


「変じゃないよ。」


「目立ちすぎないかな。」


「それもないよ。」


 万里葉はベッドの端に座って彼女を眺め、思わず笑った。「ライブを見に行くんでしょ。面接じゃないんだから。」


 奈津実は服を抱きしめて、黙ってしまった。


 窓の外の光が少しずつ黄色くなっていった。


 六時半。万里葉のスマホは、バッテリー残量があと一目盛りになっていた。


 彼女は上階に行って葵の部屋のドアをノックした。


 応答はなかった。


 ドアは半開きで、指一本分ほどの隙間が空いていた。


「会長? あれ、どこに行ったんだろう。」


 万里葉が部屋のドアを押し開けると、葵はすでに着替えを済ませ、メイクをしていた。


 万里葉が部屋に飛び込んでくると、葵は反射的に顔を隠した。学校で生徒会長を務める三沢葵の威厳は跡形もなく消え、そこにいたのは、顔を真っ赤にした堀口奈々だった。


「う、嘘でしょ……会長が、堀口奈々さんだったなんて!」


 万里葉は慌ててドアを閉め、それから声を潜めた。


「ほ、本当なんですか!」


 葵は顔を覆っていた手を下ろし、椅子を回して万里葉の方を向いた。


 ピンクのカラーコンタクトは照明の下で現実離れした輝きを放ち、アイラインは目尻から跳ね上がっている。唇はマットなヌードピンクで、輪郭はぼかされていた。


「紙袋を取って。」


「あ……うん。」


 万里葉は紙袋を渡した。手はまだ震えていた。


 紙袋の中には、色とりどりの小さなクリップがびっしりと付いたジャケットが入っていた。目がくらむほど派手な一着だ。


「じゃあ、本当にあなたが……」


「うん。」


「あの、七百万人のファンがいる……」


「数字は言わないで。」葵はジャケットを広げて羽織った。「指名手配犯みたいに聞こえるから。」


 ファスナーを上げ、鏡の前で体の向きを少し変えながら、イヤリングの位置を整えた。


 その動きはあまりにも手慣れていて、まるで千回も繰り返してきたかのようだった。


 万里葉はふとあることを思い出した。


 去年の秋、生徒会室の明かりはいつも夜遅くまで消えなかった。あの頃、万里葉は会長が書類を整理しているのだと思っていた。


「高校一年の時、渋谷でね。」葵は鏡に向かって話した。「ある人に名刺を渡されて、写真を撮ってみないかって誘われたの。」


「その日は気分が落ち込んでいたから、行ってみたの。」


「撮影を続けているうちに、今度は配信をしてみないかと言われて、その後、曲を書いてくれる人も現れた。」


「学校の人たちは知らないんですか?」


「知らないわ。」葵はブラシを手に取り、手の甲で色を試した。「佐伯以外はね。」


「佐伯先輩?」


「一度、駅で私がポスターを貼っているところを見られたの。」葵は淡々とした口調で言った。「アルバイトだと言ったら、信じてくれたわ。」


「余計なことは一言も聞かなかった。」


 万里葉は「へえ」と声を漏らした。あの体育部長も、見た目ほど鈍くはないのかもしれない。


「このことは秘密にしておいてね!」


「うん……分かった。」


「ありがとう。」


 葵は椅子を回し、リップを一本、万里葉に差し出した。


「ちょっと持っていて。イヤリングを着けるから。」


 万里葉はそれを受け取り、そばに立って、鏡の中に映る見慣れているようで見知らぬ人物を見つめた。


「会長。」


「ん?」


「その格好……すごく素敵です。」


 葵の手が一瞬止まった。


「言わないで……」


 会場は新宿にある、古いビルを改装したライブハウスだった。入り口には巨大なネオンサインが掲げられ、列はそこから街角まで続いている。熱風に乗って、香水やヘアスプレー、焼きとうもろこしの匂いが漂っていた。


 奈津実は万里葉の袖をつかみ、歩くにつれてますます足取りが遅くなった。


「人、多いね。」


「うん。」


「私たち……もうちょっと後ろの方に立ってもいい?」


「いいよ。」


 万里葉は彼女を脇の出入り口のそばへ連れて行った。そこは人が少なく、楽屋へ続く通路の入り口も、スタッフが行き来する様子も見えた。


 奈津実を少し落ち着かせようと、ただ外の空気を吸わせるつもりだった。すると、通路の奥から誰かが出てきた。


 カラフルなジャケットに、ゆるく波打つ髪。長いイヤリングが、歩くたびに揺れて音を立てていた。


 堀口奈々だった。


 万里葉が声をかけるべきか迷う間もなく、奈々の方が先に二人に気づいた。


 正確には、奈津実に気づいたのだった。


 彼女は足を止め、首をかしげ、それから歩み寄ってきた。


「堀口奈々さん!」奈津実も彼女を見た。


 奈津実は全身がすっかり硬直していた。


 口を開けたまま、しばらく声も出せずにいた。手にした飲みかけのミネラルウォーターのボトルは、ぎゅっと握られてギシギシと音を立てていた。


「お名前は?」


 奈々はしゃがみ込み、奈津実と目線の高さを合わせた。


「は……八月一日(ほづみ)……奈津実です。あまり親しくない人には、名字を八月一日(はちがつついたち)と読まれることがあるんです。」


「八月一日(はちがつついたち)。でも、早口で言うと確かに舌を噛みそうね。」


 奈々は微笑み、もう一度確かめるように尋ねた。


「ほづみ、と読むのよね?」


 奈津実はそっとうなずいた。


「うん。」


「覚えたわ。八月一日(ほづみ)奈津実さん。」


 奈々は手を差し出した。その掌には、透明なギターピックが一枚載っていた。


 透明なピックには、小さな星が一つプリントされていた。


「あとで客席から、これを掲げてね。」彼女は言った。「私にも見えるから。」


 奈津実は受け取れなかった。


「持ってて。」


 奈津実はようやく手を伸ばした。指先がピックに触れた瞬間、手全体が震えた。


 奈々は立ち上がり、スカートを軽く払った。


「それからね。」彼女は振り返った。「前髪はそのままでもいいけど、目は見えるようにしてね。」


 六時ちょうど、照明が落ちた。


 奈津実はそのピックを握りしめた。手のひらは汗でびっしょりだった。やがて堀口奈々がステージに上がった。


「こんばんは!」その一言だけで、会場の歓声が一気に沸き上がった。


 歌う時、彼女はステージの端まで歩いてしゃがみ込み、最前列の女の子にマイクを差し出した。


 踊る時の動きは決して一番上手とは言えなかったが、一つ一つの拍が観客の呼吸とぴたりと重なっていた。


 MCでは、彼女はステージの端に腰掛け、両脚をぶらぶらさせた。まるで自宅のベランダに座っているかのようだった。


「今日、開演前に楽屋口で一人の女の子を見かけたの。」


 会場が静まった。


「その子は会場の外に立っていて、前髪が目を覆うほど長かった。ずっとうつむいて、地面を見つめていた。」


「その時、私は思ったの。あの子は何から逃げているんだろう、って。」


「後になって分かったの。」奈々はマイクを反対の手に持ち替えた。「あの子は他人から逃げているんじゃない。自分自身から逃げているの。」


「私も以前はそうだった。」


「デビューしたばかりの頃は、配信のたびに部屋の電気を消して、小さな卓上ライトだけをつけていたの。暗くしておけば、みんなに私の姿をよく見られずに済むと思っていた。」


「ある時、電気を消し忘れたことがあったの。」


「私はそこに座って、緊張で手まで震えていた。ところがコメント欄は『今日は照明が明るいね』『今日の奈々ちゃん、すごくかわいい』という言葉で埋め尽くされた。」


「その時、私は気づいたの。ずっと誰かに『あなたはダメだ』と言われるのを待っていたんだって。」奈々は小さく笑った。「でも、他人は私のことなんて見ていなかった。みんな、自分自身を見ていたの。」


 客席から笑い声が上がり、口笛を吹く人もいた。


 奈々も笑った。


「だからね。」奈々は手を上げ、客席の後方を指さした。「今日、客席にいる前髪の長い女の子。もしそこにいるなら……」


「目を見せて、私に見せて。」


 万里葉の隣にいた奈津実は、ゆっくりと手を上げ、前髪を横に払った。


 ステージの照明が彼女の顔を照らした。


 これほど離れていては、ステージ上から彼女の顔がはっきり見えるとは限らない。


 それでも奈々は、その方向に向かってそっと頷いた。


 それからマイクをマイクスタンドに戻し、ステージ脇へ歩いていって、ギターを手に取った。


 最後の一曲だった。


 奈々は背の高いスツールに腰掛け、ギターを抱えて、うつむいたままコードを一つ鳴らした。


 会場が静まり返った。


「この歌は、顔を上げられずにいるすべての女の子に贈ります。」


 彼女はうつむいたまま、演奏を始めた。


 前奏は短かった。


 最初のフレーズが聞こえると、客席の誰かが先に歌い始めた。


 二人目、三人目と歌声が増えていき、最後には会場全体が明るくなった。無数のスマホの光が暗闇に浮かび、まるで引き潮のあと、砂浜に残された星のようだった。


 奈津実も歌っていた。


 声は小さく、音程も外れていた。途中で一度、声が詰まった。それでも彼女は歌うのをやめなかった。


 歌い終えると、奈々は立ち上がって一礼した。


「皆さん、ありがとうございました。またね!」


 彼女はステージを駆け下りた。


 楽屋へ続く廊下は狭く、スピーカーケーブルや空き箱が積み上げられていた。


 彼女は鏡の前に座り、クレンジングシートを顔に押し当てた。ピンクのカラーコンタクトを外し、小さなケースにしまう。


 つけまつげを剥がす時、彼女は「痛っ」と小さく声を上げた。


 鏡の中の顔は、少しずつ三沢葵に戻っていった。


 ジャケットを脱ぎ、スタッフから渡された濃紺のTシャツに着替える。長い髪をすべて帽子の中に押し込み、つばをさらに少し深く下げた。


 それから通路の入り口まで歩き、人目につかない隅に立って、二人を待った。


 八時。イベントが終わった。


 万里葉と奈津実は、人混みを抜けて外へ向かっていた。


 奈津実は前髪を耳にかけ、手の中のピックを強く握りしめていた。


「今日は……ありがとう。」奈津実がふいに口を開いた。


「何が?」


「連れてきてくれて、ありがとう。」


 万里葉は微笑み、何か言おうとした。その時、視界の端に通路口に立つ人影が入った。濃紺のTシャツに、目深にかぶった帽子。手にはバインダーを持っている。


「会長?」万里葉は一瞬驚いた。「もう仕事は終わったんですか?」


「うん、ちょうど終わったところ。」葵は二人の前まで歩いてきて、奈津実の顔に一瞬視線を留めた。「イベントはどうだった?」


 奈津実は珍しく先に口を開いた。


「と、とてもよかったです。」


「へえ?」葵は眉を上げた。「どこがよかったの?」


「歌……」奈津実はピックを握りしめた。「彼女が歌っている時、会場全体が静まり返っていました。」


「それから?」


「それからMCも。」奈津実は少し考えた。「彼女がある話をしてくれたんです。」


「どんな話?」


「前髪が長くて、ずっとうつむいている女の子がいるって……」奈津実はそう言いながら、無意識に自分の前髪に触れた。「他人は実はあなたのことなんて見ていない。みんな、自分自身を見ているんだって。」


 葵の歩みが一瞬だけ遅れた。


「……そうなの。」


「うん。」


 奈津実はうつむいて手の中のピックを見た。


 奈津実は小さく笑った。自分でも少し照れくさかった。


「八月一日(ほづみ)……でも、早口で言うと確かに舌を噛みそうですね。」


 彼女はごく自然に、当たり前の事実を口にするように言った。


 万里葉は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。今の言葉は、一字一句違わなかった。


 楽屋へ続く廊下で、あの人が奈津実の前にしゃがみ込んで、まったく同じことを言ったのだ。


 万里葉は思わず葵の方を振り向いた。


 葵自身も気づいていた。空気が半秒ほど静まり返った。


 奈津実も一瞬きょとんとし、顔を上げて葵を見た。両手で額の前髪をそっと払い、微笑みながら彼女を見つめた。


 彼女は何も聞かず、葵も説明しなかった。


 結局、葵にも万里葉にも、奈津実がこのことに気づいているのかどうかは分からなかった。


 ホテルへ戻る途中、万里葉のスマホが震えた。


 佐伯凛太郎からのメッセージだった。たった一言、「俺たち、勝った」。


 彼女は「おめでとう」と返し、スマホをポケットに戻した。


 ホテルに戻ってから、万里葉は生徒会に入り、書記を務めることになった。向かいに座る生徒会長を見上げるたび、彼女はどうしても、あのステージで輝いていた姿を思い出してしまう。それもまた、面倒な仕事を引き受けた小さな理由の一つだった。


 その夜、奈津実はあのギターピックを、引き出しの一番奥に大切にしまった。後年、万里葉が落ち着いて内向的になり、奈津実がようやく自信を持って顔を上げ、さらにはギャルファッションに身を包むようになってからも、彼女はあの夏を思い出した。初めて、自分の前髪を払ってみた夏だった。

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