【第1話 油の匂いと、借りた車】
大きな菓子工場の甘い匂いと、小さなネジ工場の金属音が混ざる御幣島の片隅に、松本健の整備工場があった。
「おぉ、健坊やってるかー」
軽い声が、シャッターの隙間から入ってくる。
顔を上げる前から分かっていた。慎二や。金本慎二。美容師のくせに、この工場にはやけに馴染んでいる。
「ちょっと借りたいなーって」
「なんや、またか」
健はレンチを置かないまま返した。慎二は笑っている。
「最近の女は贅沢なやつ多くなってのー」
「女なんか前からそんなもんやろ」
軽い会話や。けど、いつもこのあとが問題やった。
「これ、ええかな」
クラウンのキーを指で揺らす。
「アカンアカン」
「ちょっとだけやんか」
「アカンて」
慎二は一歩、工場の中へ入ってくる。
「けんちゃん」
昔の呼び方や。この呼び方を出す時は、決まって押し切る時や。健はそれを知っている。
「すぐ返すって。女と飯食って、それからや」
軽い。軽すぎる。
健はため息をついた。止める言葉を探した。けど、出てこなかった。
「こすったら言えよ」
「分かってるって」
慎二は笑って工場を出る。クラウンのドアが閉まる音。静かに、エンジンがかかった。
その音は、やけに軽かった。
健はしばらく、その音を聞いていた。
◆
クラウンの中は、思ったより静かやった。慎二はハンドルを軽く叩く。車内に演歌が流れ出した。
「なんやねん、これ」
すぐに携帯を出してBluetoothに切り替える。低いビートが流れ始めた。ラップや。これでええ。
けど匂いだけは残っていた。
「……しかし芳香剤、きついのー」
窓を少し開ける。夜の空気が流れ込む。それでも足りん。キャメルに火をつける。煙が甘ったるい匂いと混ざる。
車はそのまま、十三の方へ流れていく。ネオンが見え始める。まだ早い時間やのに、人は多い。
信号で止まる。窓を少し下げる。目が合った女に声をかける。
「乗る?」
「え、いいん?」
あっさりやった。香水の匂いが変わる。
「仕事何してんの?」
「美容師」
「ほんまに? そっちは?」
「キャバやで」
やっぱりや。
店の近くで止める。女はあっさり降りようとする。慎二は名刺を一枚取り出した。
「ほら」
窓越しに渡す。
「駅の反対側や。暇やったら来いや。安くしたるで」
女は名刺を見て、少し笑った。
「ほんまに?」
「タダちゃうんやろ?」
「そこはちゃんと取るで」
笑い合う。女はそのまま店の中へ消えた。
慎二はアクセルを踏んだ。最初から決まっていた流れや。女を降ろしたあと、別の女と会う。そのために、この車を借りている。
信号を抜けたところで、携帯が震えた。
《着いたで》
コンビニの前に、女が立っている。ライトに気づいたのか、軽く手を上げた。
「おそ」
助手席のドアが開く。
「車ええやん」
「やろ」
「どこ行く?」
「イタリアンにするか?」
「ええやん」
それで決まりや。クラウンは何事もなかったみたいに、夜を流れていく。




