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【第1話 油の匂いと、借りた車】

大きな菓子工場の甘い匂いと、小さなネジ工場の金属音が混ざる御幣島の片隅に、松本健の整備工場があった。

「おぉ、健坊やってるかー」

軽い声が、シャッターの隙間から入ってくる。

顔を上げる前から分かっていた。慎二や。金本慎二。美容師のくせに、この工場にはやけに馴染んでいる。

「ちょっと借りたいなーって」

「なんや、またか」

健はレンチを置かないまま返した。慎二は笑っている。

「最近の女は贅沢なやつ多くなってのー」

「女なんか前からそんなもんやろ」

軽い会話や。けど、いつもこのあとが問題やった。

「これ、ええかな」

クラウンのキーを指で揺らす。

「アカンアカン」

「ちょっとだけやんか」

「アカンて」


慎二は一歩、工場の中へ入ってくる。

「けんちゃん」

昔の呼び方や。この呼び方を出す時は、決まって押し切る時や。健はそれを知っている。

「すぐ返すって。女と飯食って、それからや」

軽い。軽すぎる。

健はため息をついた。止める言葉を探した。けど、出てこなかった。

「こすったら言えよ」

「分かってるって」

慎二は笑って工場を出る。クラウンのドアが閉まる音。静かに、エンジンがかかった。

その音は、やけに軽かった。

健はしばらく、その音を聞いていた。

クラウンの中は、思ったより静かやった。慎二はハンドルを軽く叩く。車内に演歌が流れ出した。

「なんやねん、これ」

すぐに携帯を出してBluetoothに切り替える。低いビートが流れ始めた。ラップや。これでええ。

けど匂いだけは残っていた。

「……しかし芳香剤、きついのー」

窓を少し開ける。夜の空気が流れ込む。それでも足りん。キャメルに火をつける。煙が甘ったるい匂いと混ざる。

車はそのまま、十三の方へ流れていく。ネオンが見え始める。まだ早い時間やのに、人は多い。

信号で止まる。窓を少し下げる。目が合った女に声をかける。

「乗る?」

「え、いいん?」

あっさりやった。香水の匂いが変わる。

「仕事何してんの?」

「美容師」

「ほんまに? そっちは?」

「キャバやで」

やっぱりや。

店の近くで止める。女はあっさり降りようとする。慎二は名刺を一枚取り出した。

「ほら」

窓越しに渡す。

「駅の反対側や。暇やったら来いや。安くしたるで」

女は名刺を見て、少し笑った。

「ほんまに?」

「タダちゃうんやろ?」

「そこはちゃんと取るで」

笑い合う。女はそのまま店の中へ消えた。

慎二はアクセルを踏んだ。最初から決まっていた流れや。女を降ろしたあと、別の女と会う。そのために、この車を借りている。

信号を抜けたところで、携帯が震えた。

《着いたで》

コンビニの前に、女が立っている。ライトに気づいたのか、軽く手を上げた。

「おそ」

助手席のドアが開く。

「車ええやん」

「やろ」

「どこ行く?」

「イタリアンにするか?」

「ええやん」

それで決まりや。クラウンは何事もなかったみたいに、夜を流れていく。

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