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……もう我慢できなかった。
「何にも知らないくせに!」
身体が。手が、勝手に動いていた。
気づくと、美咲は多恵子の頬を思いっきり引っぱたいていた。
「涼ちゃんが、どんなに苦しんできているのか、何も知らないくせに。そんなこと言わないで!」
美咲はギッと多恵子を睨みつける。
「美咲さん……」
多恵子の頬には、しっかりと紅葉のような手形が刻まれている。
「美咲……」
涼介も、ぽつりと幼なじみの名前を呼ぶ。
美咲は多恵子を睨んだまま、涼介にも言う。
「涼ちゃん、あなたもよ! しっかりしなさい! くだらないこと言ってちゃダメ!」
美咲はとにかく怒っていた。
多恵子に対し。弱気な涼介に対し。そして、こんな時に、ただ憤ることしか出来ない自分自身に対しても。
今なら分かる、なぜ涼介たちが自分にだけ犯人のことを教えてくれなかったのか。こうなることが分かっていたからだ。
もし全てを聞かされていたら、絶対に美咲は自制が利かなかったはずた。今日の朝、出会うなり、多恵子を叩いていたかもしれない。少なくとも、平然を装って多恵子と一緒に昼食をとることなど出来なかっただろう。
「どうして、涼ちゃんのせいなのよ! 今回のことはみんな、あなたが勝手に一人でやったことでしょう! どう考えたって悪いのは多恵子さんじゃない! それなのに、それなのに……」
美咲は捲くし立てた。
悔しくて……悔しくてたまらない。
そして、怖い……。
(また、涼ちゃんが昔みたいになっちゃったら……)
そんな考えが頭をよぎる。
その時はまた、自分が拒絶されてしまうかもしれない。……嫌だ。
(そんなの絶対に嫌だ!)
こんな人の為に……。
多恵子はただ黙って、美咲を見つめている。
その表情はどこか哀しげだった。
「何が精神的苦痛よ! それがどうしたっていうのよ! それくらい誰にでもあるわ! 自分だけが辛い目に遭ってきたみたいに……」
美咲の言葉に、多恵子が自嘲気味に笑う。
けれど、今の美咲にはそれを察するような余裕はなかった。
「何を笑っているのよ!」
美咲は多恵子につかみ掛かった。
そんな彼女に、「止めて! もう止めてあげてください」と声が飛ぶ。
「ごめんなさい、美咲さん」
そう言ったのは、多恵子ではなかった。
所長席の左奥、書庫スペースの方から現われたのは玲奈だった。その数歩後ろには、思案顔の慎也が控えている。
「お願いです、美咲さん。多恵子さんを放してあげてください」
「玲奈さん……」
美咲は、多恵子に掛けていた手を下ろした。
「ありがとう、美咲さん」
玲奈は優しく微笑んだ。
この状況で、どうしてそんな風に穏やかに笑えるのだろう。
玲奈の笑顔に、美咲は切なくなる。
「やっぱり、いたんだね玲奈」
玲奈に背中を向けたまま、多恵子が言った。
その表情から、多恵子の心情を読み取ることはできそうにない。
「多恵子さん……」
「きっと、いると思ったわ。たぶん神谷さんの指示でしょう? 天野くんと違って、神谷さんはそんなに甘くはなさそうだもの」
「ええ、その通りですよ。当初の計画では、水島さんはこの場には招待しない予定だったんですけどね。でも、それではダメだと思ったもので……俺の一存で、こういうことにさせて頂きました。まあ、余計なお節介だったかもしれませんが」
それだけ言うと、「あとはご自由に」と慎也は自分の席に腰を下ろした。
ゆっくりと多恵子の前に歩みを進め、玲奈はおもむろに口を開いた。
「ごめんなさい、多恵子さん」
……え? 何を言ってるの?
なぜ玲奈が謝るのか、美咲には理解できなかった。
「なっ! なんで、そこで玲奈、あなたが謝るのよ! そんな必要ないでしょう!」
多恵子が怒ったように返す。
「そうだよ、玲奈さん」
美咲は思わず口を挟んでしまう。
「いいえ、あります!」
けれど、玲奈ははっきりと言い切った。
「私が謝りたいんです。だから、必要があるんです。本当にごめんなさい」
玲奈は多恵子に向かって頭を下げた。
それをじっと多恵子が見つめる。
(何をやっているんだろう、この人たち?)
美咲には、何がなんだか分からなかった。
やがて……。
「バッカじゃないの!」
吐き捨てるように叫んだ多恵子の声が、事務所内に響き渡った。
「このお人好し! お人好し軍団! あなたも、天野くんも、それから神谷さんも、みんな馬鹿よ! お人好しもいい加減にしなさいよね!」
キンキンキンキンと響く、金切り声。
「お人好しお人好しお人好し!」
多恵子はお人好しを連発する。
「こんな馬鹿なお人好したちには、付き合ってられないわ!」
どこか泣きそうな声で言い捨てると、彼女は事務所を飛び出していってしまった。
そして、あっという間に足音は聞こえなくなってしまった。
……多恵子からの謝罪の言葉はなかった。
「私も行きます」
多恵子を追って事務所を出て行きかけた玲奈に、涼介が声を掛ける。
「大丈夫ですか、水島さん?」
「涼介さん……」
玲奈が振り返る。
答えを聞くまでもなく、彼女がいま平気であるわけがない。傷ついていないわけがない。心に、どれだけのダメージを負っていることか。
なのに……。涼介を真っすぐに見つめ、玲奈ははっきりと言った。
「大丈夫です。心配しないでください。ここから先は、私が自分でなんとかしなければいけないことです。私、頑張りますから」
玲奈の瞳に揺らぎはなかった。
それは、何かを決意した人間の眼差しだった。
「大丈夫です」
もう一度、自分にも言い聞かすように玲奈は繰り返す。
「安心してください。私、秋彦さんと別れたりはしませんから。今の私にとって、彼は大事な人です。そして、多恵子さんも……」
「そうですか。良かった……」
力なく、涼介は微笑んだ。
逆に、玲奈の方が彼に心配げな視線を送る。
「私より、涼介さんの方こそ……」
「大丈夫!」
答えたのは、美咲だった。
「だって、涼ちゃんにはあたしが付いてるもん! だから、絶対に大丈夫だよ!」
「美咲……」
涼介が美咲を見た。
大丈夫だから、と美咲が頷く。
そんな二人の様子を眩しげに見、玲奈は今まで一番優しげな微笑をみせた。
そのまま静かに事務所をあとにする。
続き、慎也の声が聞こえた。
「さて、これで事件も解決だな。んじゃあ、そういうことで雪乃ちゃん、俺たちは散歩にでも行くか?」
パチパチパチ……と、全てのカメラの作動スイッチをOFFにすると、慎也たちも事務所を出て行く。
(なにが、そういうことで……よ。事件の解決と散歩なんて、何の関係もないじゃない)
気を利かせてくれたのは分かるけど……やり方が下手すぎる。
思わず、美咲はくすりとした。
かたん……。さっきまで多恵子が座っていた椅子に、涼介は崩れるように腰を下ろした。
手に持った3枚のカードを、虚ろな目で眺めている。
「涼ちゃん……」
美咲は、涼介の頭を自分の胸に抱えた。
涼介は微かに震えていた。
「大丈夫、あたしがいるから」
そっと優しくささやく。大好きだよ、そのメッセージを込めて……。
「あたしは何があっても、ずっと涼ちゃんの側にいてあげるから……」
さらに強く。けれど、優しく抱きしめる。涼介の手からカードが零れた。
(だから、涼ちゃんも……あたしから離れていかないでね)
美咲は、口の中で声に出さず呟いた。
お願いだから……。
法王が、床から二人の姿を見上げている。
二人を見つめるその双眸は、余りある慈愛に満ちていた……。




