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忘れがたい一夜(6)

「お待ちを! おやめくださ――」

 オルサスの制止の言葉は、大きな砕ける音によって遮られた。

 人狼となったエベルの拳はやすやすと彫像の顔面を砕いた。まるで柔らかいパンを叩きつぶしたかのようにあっけなかった。破片と埃が舞い上がるのがランタンの明かりでもしっかりと見え、ロックは思わず息をのむ。

 その一撃に、エベルはすべての怒りとやるせなさを込めたのだろう。そう思えた。

 人狼の貌があった部分には大きな穴が開き、さらにその周りにはひびまでできている。すでにそれが人狼の彫像だったとは知る者にしかわからないはずだが、エベルは攻撃の手をゆるめなかった。

「ああ……」

 へたり込むオルサスの背後で、村人たちがおろおろと辺りを見回し始める。

 そんな様子も意に介さず、エベルの拳は二度、三度と彫像に打ち込まれた。人狼の巨体から放たれる体重をかけた拳は彫像を、岩壁から抉り取るように破壊していく。足元に転がる彫像の破片はもはやただの石くれにしか見えなかった。

「うおおおおおおお!」

 エベルはうなりながらなおも暴れまわり、神殿と呼ばれた空間そのものを破壊し始める。やがて岩壁にもひびが入り、地鳴りのような不気味な音が響いてきた。


 ここでロックは我に返り、エベルに言われたことを思い出す。

「カート、逃げるよ!」

 同じく隣であっけにとられていたカートの腕をつかみ、引っ張った。

 カートもはっとしてロックを見返す。

「は、はい!」

 地上へ続く行動には、すでに村人たちがあたふたと駆け込みはじめていた。彼らも正気に戻ったのだろうか、悲鳴を漏らしながら、ロックたちには目もくれない。

 ただひとり、オルサスだけが地面に座り込んだままだ。エベルが壊した彫像の破片が飛んできて頬をかすめても、ただぶるぶると震えて、声ひとつ上げない。

 それを見たカートが足を止めた。

「村長も! 一緒に逃げましょう!」

 声を張り上げ呼びかけても、オルサスは動かなかった。動けなかったのだろう。

 青ざめた唇からはかすかな声が聞こえた。

「わ……私は……一体、何を……!?」

 次の瞬間、頭を掻きむしりながらわめきだす。

「私は何に魂を売ろうと……村の皆に、旅の方々に私は何を――!」

 まただ、ロックは顔をしかめた。

 人狼の呪いに関わった人々は、正気に戻ると誰もがひどく狼狽する。自分の意思とは反する行為を強いられて、しかしおぼろげに残った記憶が彼らをさいなむようだった。そして肝心の、『誰にそれを強いられたか』は思い出せないようになっている――何者か知らないが、まったく逃げ足だけは超一流だ。

 しかしわずかな情報であってもないよりはましだろう。

 エベルはここを破壊しつくすつもりなのだろうし、それに村長を巻き込むわけにはいかない。ロックはあわてて彼に駆け寄り、脇に手を差し込むようにして立ち上がらせた。

「ほら立って! あんたも逃げる!」

「村長、急いで!」

 カートにも肩を貸され、オルサスはよろよろと歩き出す。足取りもおぼつかないその身をふたり掛かりで支えつつ、ロックたちはようやく坑道に飛び込んだ。

 背後では神殿の崩れゆく重々しい音がする。

 エベルの無事を祈りつつ、ロックはあえて振り返らずに脱出を急いだ。


 結果的に言えば、エベルは無事だった。

 黒い毛皮が多少土埃にまみれただけで、あとは大した怪我もなくぴんぴんしていた。彼が現れたのはロックたちが抜け出した納屋の落とし戸ではなく、その隣家にあった広大な畑の真っただ中だ。神殿が壊され埋め立てられたことにより、その上にあった畑は無残に陥没していたが、そこからまるでモグラのように土を盛り上げ現れた。

「エベル!」

「閣下!」

 畑の沈む音に気づいたロックとカートは、それを確かめに行ったところで彼の尖った二つの耳、オオカミそっくりの貌、そして金色に光る二つの瞳を見つけた。ロックは泣きそうになるほど安堵したのだが、エベルはと言えば冷静なものだ。牙の生えた大きな口で穏やかにこう言った。

「ロクシー、手を貸してくれるとありがたい。もう少しで抜け出せそうなんだが、脚が土に取られていてな」

 それでロックは呆然とする村人たちから農具を拝借し、カートとともにエベルを掘り起こすのを手伝った。農村育ちのロックとカートには難儀な作業でもなく、程なくして彼を地中から救出することができた。

 そして後に残ったのは、地盤が沈んで荒れ放題の畑と、泥だらけになりながらも無事を喜びあうロックたち、それに――。

「我々は……私は、なんということを……」

 オルサスは憔悴しきった様子で繰り返しつぶやいている。

 周りを取り巻く村人たちも先程までの険しさはなく、一様に蒼白な顔をしていた。

「あなたがたは、帝国と皇帝陛下に対して反逆を企てた」

 エベルが告げると、オルサスは恐れに表情を引きつらせた。

「そんな! お言葉ですが、それは我々の本意ではございません!」

「無論、わかっている」

 まだ人狼のままのエベルが、ゆっくりとうなづく。

 この事態におののく者はいても、彼のその姿を見て驚く者は誰もいない。オルサスをはじめとする村人たちも、自分たちのなしたことをいくらかは覚えているのだろう。だが、なぜそうしたのかはわからない。

 なぜ、何者かに言われるがまま従ったのか。

「閣下……」

 カートが、遠慮がちに口を開く。

「このことを、帝都の軍にお話になりますか?」

 少年の口調には、言外に『言わないでほしい』という哀願が込められていた。

 反逆の罪は重い。もしこの村の企てが明るみになれば、村ごと消されてしまってもおかしくはない。そして彼らが本意ではなかったと証明できるものは何もないのだ。

「難しい問いだ……私の正体にもかかわる話だからな」

 エベルは言い、大きな口から長い長い溜息をついた。

 ロックにはそれが、ひどく疲れ切ったものに聞こえた。

「一晩、考えさせてくれないか」

 結局、エベルはそう答えた。

 カートと村人たちが緊張を見せる中、それをなだめるように首を横に振る。

「あなたがたを軍に突き出すつもりはない。だが見なかったふりをするということもできない。何が私とあなたがたにとって最善の策となるか、考える時間が必要だ。それに……」

 そこでエベルが気づかわしげにロックを見た。

「休む時間もな、さすがに疲れた」

 言われてみればロックもくたびれていた。この村にはカートの件で立ち寄るだけのつもりだったのだ。本来の目的地はロックの生まれ故郷だったはずなのに、とんだ寄り道になったものだと思う。

 気づけばすっかり夜も更けていた。身も心も休めるべき頃合いだろう。


 馬車で山中に逃げ込んだイニエルは、村での騒ぎを聞きつけ、近くまで戻ってきていた。

「え? 本当にこの村で一泊されるんですか? 大丈夫でしょうか……」

 ここで一晩休むことを伝えると当然のように警戒していたが、かいつまんで事情を説明されれば多少納得できたようだ。彼と馬たちにも休息は必要だった。

 ロックたちが貸し与えられたのは古い民家だった。カートの生家だったが現在は空き家となっているそうで、彼が大人になったら住ませることになっていたそうだ。中はこじんまりとしていたが清潔で手入れも行き届いており、カートがこの村でどんな扱いを受けていたかがわかるようだった。

 勝手知ったる生家とあってか、カートは疲れも見せずかいがいしく働いた。ロックたちのためにきれいな夜具を運び込み、水差しにも新鮮な水を汲んできてくれた。もっともそれらが済んでしまうと、まるで糸が切れた人形のように寝台に倒れ込み、寝入ってしまったのだが――。


 眠るカートに毛布を掛けてあげた後、ロックにはもう一仕事残っていた。

 土にまみれたエベルのために、布でその身体を拭いてあげることだ。

 民家の部屋には寝台やテーブルといった最低限の調度は揃っていた。だがさすがに人狼の身体に合う椅子はなかったので、ロックはエベルを床に座らせてその身を清めた。ふかふかと毛足の長い人狼の体毛は手入れが大変だったが、仕立て屋のロックはこういう毛皮も取り扱ったことがある。

 広い背中をどうにか拭き終えたロックは、村人に頼んで紳士物の衣服一揃いを借り、それを持って部屋に戻った。

 部屋の中ではエベルが背中を丸め、床に座り込んでいる。

 その姿はまだ人狼のままだ。

「えっと……も、戻らないんですか?」

 ロックは恐る恐る尋ねた。

 というのも、現在の彼は服を着ていない。人狼になる時、びりびりに破いてしまったからだ。元の姿に戻ることを勧めたはいいが、目の前で戻られてもロックとしては反応に困る。

 それが伝わったか、エベルは少しだけ笑った。

「今戻ると、気を失ってしまうかもしれない。かなり疲れた」

 そして、そう言った。

 ロックは衣類をテーブルの上に置くと、エベルの隣にしゃがみ込む。彼の肩にそっと手を置き、声をかけた。

「きっとたくさん働いたからです、ゆっくりお休みください」

「そうしたいところだが……」

 人の時よりもなで肩のエベルが、静かに息をついた。

「気が高ぶっているのかもな、ひどく落ち着かない気分だ」

 それはオルサスたちこの村の人々にとっても同じことかもだろう。エベルは『最善の策を取る』と言ったが、必ずしもこの村に有益な決定になるとは限らない。場合によっては今後のために、非情な決断を迫られることもあるのかもしれない。この一夜を過ごす彼らは、やはり不安で落ち着かない気分でいることだろう。

 ロックもエベルがどんな決断をするのか、とても気になっている。だがそれを自分が尋ねたら、かえって彼を迷わせはしないかと思い、聞けずにいた。

 おそらくはそんな心中さえも見通しているのだろう。黙りこくったロックに対し、エベルはまた笑った。

「そう暗い顔をしないでくれ。私は彼らを苦しめたいわけではない」

「わかってます」

 ロックはうなづく。

 エベルが帝国と皇帝らにどれほどの忠心を持っているかは知っている。帝都生まれではなく、皇帝そのものを見たことすらないロックにはまだ理解の及ばない感情だが、それでも今のエベルが複雑な思いにとらわれていることは理解できた。

 反逆の企てを黙っていれば、それもまた裏切りとなる。

 だが村人たちは自らの意思で反逆しようとしていたわけではない。

 これらの事実を消化するのには、もう少し時間が必要となるだろう。今は彼を休ませた方がいい。そう思い、ロックは立ち上がる。

「じゃあ、僕はこれで失礼します。エベルもゆっくり休んでください」

 そして部屋を出ていこうとしたところで、エベルの毛むくじゃらの手に手首をつかまれた。

「待ってくれ」

 彼の手には鋭い爪が生えていたが、それが肌に触れないよう、限りなく優しく触れられた。

「今宵は傍にいてくれないか、ロクシー」

 金色の瞳がひたむきに見つめてくる。

 人の時とはその形も輝きも違うのに、これがエベルの瞳だとロックにはわかる。

「……いいですよ」

 拒むつもりはなかった。

 もともと、彼と旅行に来た時点でそのつもりだったのだ。決意、もしくは覚悟めいた気持ちと共にここまで来た。とはいえ今宵は、ロックが思っていたものとはまったく様相の違う夜となったが――今はそれでもよかった。

 ロックも、エベルの傍にいたかった。


 人間の身体に合わせて作られた寝台は、人狼の身体には窮屈だったようだ。

 それでもエベルは器用に身体を丸め、さらに丸太のような腕でロックを包んでいてくれた。ロックは柔らかい毛皮にくるまれながら、彼に寄り添い目をつむる。温かい。

 明かりを消した薄闇の中、エベルの静かな声がする。

「前にもこんなことがあったな」

「ありましたね。あの夜も、あなたは少し不安そうでした」

 ロックがまだトリリアン嬢の店の上で暮らしていた頃の話だ。思えばあの時から例の彫像には振り回されっぱなしだ。今回こそは尻尾をつかめるかと思っていたのに。

 だが、ひとまずはみんなが無事だった。それでいい。ロックはそう思おうと努めた。

 エベルも傍にいてくれる。分厚い毛皮越しに、体温が感じられるほど近くに。

「私は、あなたがいてくれれば不安などない」

 彼は言う。人狼の姿のまま、先程まで気を高ぶらせていたにもかかわらず、今はとても穏やかな声をしている。

「あなたさえいれば、いいのかもしれないな……」

 つぶやくように言って、エベルの手がロックの短い髪を撫でた。

 その優しい手つきに幸福感を覚えつつ、次第に襲い来る眠気の中でロックは思う。


 今宵もこれはこれで、忘れがたい一夜となりそうだ。

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