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いつか、どこかで(1)

 山鳥の賑々しい声がする。

 帝都ではめったに聞けないその声も、田舎育ちのロックにとっては懐かしい。

 くすぐったいような気分で瞼を開けば、真っ先に飛び込んできたのは見慣れない部屋だ。組まれた木の高い天井と、狭いながらも必要最低限の調度が揃った室内、そして自分がいるぽかぽかと暖かな寝台――その中に自分以外の体温があることにも、目が覚めてすぐ気づけた。


 ロックが恐る恐る隣を向けば、金色の瞳と視線が絡まる。

「おはよう、ロクシー」

 その瞳を細めて、エベルが言った。

 彼は昨夜とは違い、人の姿をしていた。

 鳶色の髪は少しも跳ねずに朝陽を浴びて光っていたし、切れ長の瞳は幸せそうに輝き、唇には微笑が浮かんでいる。改めて見ても美しい顔立ちにロックは一瞬見とれ、それから自分の寝起きの顔が恥ずかしくなった。

「お、おはようございます。もう起きていたんですか?」

 目をこすりながら応じると、エベルは静かにうなづいた。

「あなたの寝顔を見ていた」

「やだな、恥ずかしいですから……」

 ロックは照れたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ目覚めてすぐに彼の顔が見られて、ほっとしていた。

「お戻りになったんですね」

「気づいたら戻っていた、落ち着いたということかもな」

「それはよかったです」

 心から喜ぶロックに、エベルも安堵の表情を見せる。

「あなたが傍にいてくれたからだ。ともすれば考えがちになる夜を、あなたが心安らぐ温かなひとときに変えてくれた」

 その言葉がよりうれしいとロックは思う。

 自分が傍にいることで彼の心が休まるのなら、これ以上の幸いはない。同じように傍にいたいと思っているなら尚更だ。


 忘れがたい一夜が明け、朝が来た。

 今日はこれからオルサスと会い、この村の行く末を決める決断をしなくてはならない。エベルが非情な裁定を下すとは思っていなかったが、ここで起きたことを見て見ぬふりというわけにもいかないだろう。

 ロックにできることは、エベルの決断を傍で見守ることくらいだ。


 それはさておき、起きてから髪も梳いていないことが気になっていた。

「顔、洗ってきてもいいですか?」

 ロックはエベルにそっと尋ねる。

 返ってきたのは少し拗ねたような笑みだ。

「もう離れてしまうのか? まだ朝は早い、急ぐこともないだろう」

「ま、まあ、そうですけど……」

 身づくろいをしておきたい気持ちはありつつも、エベルの腕が夜具を掛け直してくれると、まだ出ていかなくてもいいかと思ってしまう。彼の身体から伝わる体温は心地よく、離れがたいのも確かだった。

 ただ、気になることがある。

 夜具を直すために伸ばされたエベルの腕は、二の腕どころか肩まで素肌をさらしていた。

 ちらりと視線を下げると、夜具の隙間に彼の裸の胸が覗いている。

 そういえば昨夜、人狼になった彼は着衣を全て破いてしまったはずだ。替えの服は村人に頼んで借りられてはいたが、人狼の姿のままでは着られなかった。だからテーブルの上に、畳まれたまま置いてある。

 それを目で確かめた後、ロックはふと眉をひそめた。

「つかぬことをうかがいますが、エベル」

「どうかしたのか?」

 エベルが目をしばたたかせる。

「今って、何かお召しになってます?」

「いや」

「あの、何も?」

「ああ、何ひとつ」

 大変な答えだった。

 聞いた瞬間、ロックは絶叫した。

「わあああああああああ!」

 こんな時にかわいらしい悲鳴など上げられないのがロックのロックたる所以だ。

 ともかく悲鳴と同時に寝台から転げ落ち、その拍子に夜具をつかんでしまって、床に叩きつけられるのを追いかけるように夜具もするりと落ちて覆いかぶさってくる。

「あ、何も着ていないと言っているのに」

 エベルが笑うのが寝台の上から聞こえ、いよいよいたたまれなくなったロックは夜具から這い出て壁際まで移動する。

 どきどきうるさい胸を押さえながら振り返れば、エベルは夜具を引っ張り上げてその身体を隠した。それでも腕や胸は剥き出しのままで、いやそれ以前に彼はずっと何も着ていなかったということで、そしてそんな彼の隣にロックはずっといて普通に眠ったり普通に話をしたりしていたということで――。

「お願いですから服を着てください!」

 ロックの叫ぶような訴えに、エベルは苦笑で応じる。

「今さら裸を見たくらいで動じる仲でもないだろう」

「まだ動じる仲ですよ!」

 そこは強く主張しておきたかった。

 間の悪いことにその時、部屋のドアが勢いよく開いた。現れたのはまだ寝間着姿のカートで、心配そうにこちらを見回している。

「あの、今の悲鳴は? 何かあったんですか?」

 果たして寝起きの少年の目に、寝台の上のエベルと壁際にうずくまるロックはどう映ったのだろう。

 真相がわかるのは数年後のことかもしれないが、今は怪訝そうに見比べてくるカートに対し、ロックは何も、何ひとつ答えられなかった。


 起床後、身支度を整えたロックたちは再びオルサスと顔を合わせた。

 昨夜はまんじりともしなかったのだろう。ロックの前に現れたオルサスは目の下に隈を作っていた。

「閣下、昨日は本当にご無礼を働きまして――」

 そして挨拶よりも先に謝罪を口にしようとしたが、エベルはそれを押しとどめる。

「謝れば、あなたがこの一件の責任を負わなければいけなくなる。やめておこう」

「お言葉ですが、私に一切の責任がないとはとても……」

 オルサスが弱った様子でうつむくと、カートが労わるように背をさすっていた。

 それでもエベルはきっぱりと続ける。

「あなたがすべきことは、この村の今後を見守ることだ。例の神殿とやらは昨夜潰したが、あれで終わりかどうかはわからない。もしまた妙な声を聴いたり、妙な発掘物を見つけた時には、必ず私に知らせてほしい」

「無論、承知いたしました」

「それと……」

 ちらりとロックの顔を見た後、エベルはさらに語を継いだ。

「帝国軍には、この村への見回りの機会を増やしてもらうよう頼むことにする」

 意外な宣告にロックは目をみはったし、言われたオルサスもにわかに顔をこわばらせた。だがエベルは二人の動揺を読み取り、すかさず言った。

「ありのままを報告するわけではない。ここへの往来を増やし、風通しをよくするというだけだ。訪れる者が増えれば、今回のような事態の発覚も早まることだろう。軍には適当に話しておく――『近頃、山中に獣が出るようだから見回りを増やしてほしい』などとな」

 帝国軍に、この村を脅威として報告するつもりはない。彼はそう言いたいようだ。

 真意はオルサスにも伝わったらしい。安堵の長い息をついた後、彼は深々と頭を下げた。

「ご温情に感謝いたします、閣下」

 同じように、カートもまた黙ってお辞儀をする。

 その姿が少しだけ大人びているように、ロックには見えた。

「いや、温情などではない」

 対してエベルは、苦い表情でかぶりを振る。

「ただの保身だ。何より知られてまずいのは、私自身のことだからな……」

 ロックは傍らでその顔を見つめていた。深い苦悩の色がうかがえる一方で、迷いはないように見えた。当然だろう、『知られてまずい』のはエベルのことだけではない。

 帝都に何人の人狼がいるか、存在そのものを知られてはならなかった。

 だから彼はそう応じるしかなかったのだ。

「我々はそろそろこの村を離れる。存外に長い寄り道になってしまったが、本来の目的地は別の村だったからな」

 話が一段落したところでエベルは切り出し、ずっと黙っていたカートに目を向ける。

「改めて問うが、カート。君はこれからどうする?」

「前に申し上げたとおり、閣下の下で働かせていただけたらと存じます」

 即答だった。声にも、表情にも迷いはなかった。

「閣下にご恩返しがしたいですし、それに……人狼の呪いについて、僕も真実を知りたい。僕が不幸にした人たちがいるなら、知らなくてはいけないと思うんです」

「全ては呪いのせいだ、君は何も悪くない」

 エベルは静かに告げた後、少しだけ表情を和らげる。

「だが、君がうちで働いてくれると助かるな。ヨハンナも君の元気な顔を見たがっているはずだ」

 それでカートの顔色もぱっとよくなり、その様子をロックは微笑ましいと思った。

 ヨハンナは主不在の家で、今頃何をしているのだろう。掃除や洗濯に打ち込んでいるのか、得意の妄想にふけっているのか、あるいはエベルやカートのことを思って少しそわそわしているのか。何にせよ、カートが元気に帰っていけばきっと喜ばれるに違いなかった。

 その後で、ロックは父のことを考えた。一晩傍を離れただけなのに、ずいぶんと会っていないような気さえする。父は今頃何をしているだろう。店は休みにしているから、ちゃんと羽を伸ばしていてくれたらいいのだが――。

 元気に帰らなくてはならないのは、ロック自身もそうだった。


 挨拶を済ませた後、一同は馬車に乗り込んでカートの故郷を離れた。

 うねる山道を超え、鬱蒼と生い茂る木々ばかりの景色を過ぎた後、ロックの故郷に辿り着いたのは昼過ぎのことだった。


 この辺りの農村の眺めはどこも似たようなものだ。

 帝都より背の低い民家と広大な畑、踏み固められただけの道、色彩に乏しい麻の服を着た農作業中の人々――それでもロックにはわかる。故郷の景色は胸にしっかりと焼きついている。

 もっとも、故郷を離れてすでに四年近く経っている。そして帝都暮らしに慣れたロックを見て、かつてこの村に住んでいた小娘だと気づいた者はいないようだ。停まった馬車から降りた時も、エベルを案内して墓地へ向かう途中にも、誰からも声はかけられなかった。

 母ベイルの墓は、村の墓地の隅の方にある。比較的新しい墓標の下にはすでに枯れている花束がそのまま置かれていて、誰かが手向けてくれたことがわかった。花束には風雨で汚れて色あせたリボンが結ばれていた。

 手で触れたらそのまま塵になってしまいそうな花束を丁寧に片づけた後、ロックはエベルと共に母の墓前で祈りを捧げた。

「……来てくださり、本当にありがとうございました」

 長い祈りの後で、ロックはエベルに感謝を告げる。

 エベルは優しく微笑んでくれた。

「私も一度ご挨拶をしたいと思っていた。こちらこそ、連れてきてくれたことに感謝している」

「母はびっくりしていると思いますよ、僕が伯爵閣下を連れてきたと知って」

 その反応を見ることは叶わないが、見てみたかったと思う。

 それ以上に、もう一度父と顔を合わせた母を見てみたかった、とも思う。

 今のロックの暮らしを知れば、きっと驚くどころではないだろう。ずっと会っていなかった父と暮らし、伯爵閣下を恋人とし、自分の店を持ち、おまけに今度は皇女殿下の花嫁衣裳を手掛けようと考えている――墓前で話しても、信じてもらえないような気さえする。

「僕もずっと来ていなかったから、ろくに報告もできませんでした。一緒に来ていただけてよかったです」

 不思議と、幸せな気持ちになっていた。

 墓地で幸せをかみしめるというのも妙な話かもしれない。それでもロックはここにエベルを連れてきたこと、彼が傍にいてくれることに安心感とうれしさを覚えていた。今までここに連れてきたいと思えた相手は彼だけだった。きっと、これからもそうだろう。

「花を手向けてくれる人が他にもいるようだ」

 エベルが先程の花束について触れると、ロックは笑って首をすくめた。

「もしかしたら父かもしれません。僕に黙って来ていたことがあったのかも」

「なぜそう思う?」

「花束のリボンの色、母の髪の色に似ていましたから」

 色あせる前は葡萄酒色だっただろうリボンは、母の墓標に結わえておいた。本当は誰が供えてくれたのか、ロックが知ることはないだろう。父は正直には言わないだろうし、ロックも触れるつもりはなかった。

「素敵なご夫婦だ」

 エベルのしみじみとしたつぶやきに、ロックは黙ってうなづいた。


 墓地に吹く風は埃っぽく乾いていたが、ふたりはずっと墓前から動かなかった。

 風に揺られて唇に張りつく髪を指先で時々払いつつ、ロックは黙ってエベルを見つめていた。墓標を見るエベルの横顔は真摯で、それでいて穏やかだ。この人をここに連れてきて本当によかったと思う。

 いろんなことがあった。いいことも、悪いことも。

 悲しい出来事も、命からがらの目にだって遭った。それでも今、ふたりは無事で、強く想いあいここにいる。それはとても幸いなことだ。


「これからも傍にいてください、エベル」

 そう告げて、ロックは彼の手を握る。

 エベルはその手を、指を絡ませるようにして繋ぎ直してから答えた。

「当然だ。離せと言われても離さない」

「言うわけないです」

「わかっているが、念のために言っておいた」

 ふたりは同時に顔を見合わせ、それからくすくすと、仲睦まじく笑いあった。

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