5.5
栗原との待ち合わせ場所であるファミレスで二人を待つ。
時刻は既に午後2時を回っている。
すでに文也はチーズハンバーグとライスのセットで空腹を満たし、食後のコーヒーを飲みながら二人がやってくるのを待っていた。
すぐ隣のテーブルには高校生らしい制服を着た女の子が3人、それぞれ片手に携帯電話を持ちながらケーキを食べながら会話に励んでいる。その向こう側の席ではスーツ姿の男が商談の最中らしく、資料を間に置いて盛んに話し込んでいる。
――君は自分自身が何者なのか理解していない
ふと、あの男の言葉を思い出す。
(いったいどういうことだ?)
あの男はいったい何を言おうとしていたのだろう。まるで自分のことをよく知っているような口ぶりだった。自分でも知らない何か大きな秘密を知っているとでも言うのだろうか。
カランとドアの開く音が聞こえ、文也はハッとして顔をあげた。文也を見つけ近づいてくる栗原だった。なぜか弘子の姿が見えない。
栗原はさも疲れたように文也の前にどっかと腰を降ろした。
「ああ、疲れたぁ」
「弘子さんは?」
「疲れたみたいだから家まで送ってきた。少し熱があるようだしな。本人は帰るのを嫌がってたけど、彼女がいないほうがいろいろ話しやすいこともある。会いたかったか?」
からかうように笑う。
「まさか。だいたいなんで彼女を連れてきたんだ?」
「話をしたら自分もやりたいって言い出したんだ。無理に断る必要もないと思ってさ。それにしても面白い女だよな」
「あのさぁ、前にも話したはずだけど、彼女、結婚してるんだからな」
「知ってるよ。おまえが心配するようなことにはならないよ。それよりお嬢様のほうはどうだった? どこへ行ったかわかったのか?」
そう訊きながらテーブル脇のメニューを開く。
「……うん……」
あの男のことをどう話していいかわからず、文也は曖昧に答えた。
「あまり良い結果じゃなかったわけか」
その表情を見て栗原が言う。
栗原は水を持ってきたウェイトレスにコーヒーとサンドイッチを注文した。文也はウェイトレスが去っていくのを見送ってから口を開いた。
「それで? おまえのほうはどうだったんだ? うまくいったのか?」
「一応な」
栗原は水をゴクゴクと一気に飲み干すと話し始めた。「あの二人、中央線で新宿に出た後、駅裏にあるボロっちいマンションに入っていった。そこに何があったと思う?」
「さあ……」
「便利屋の事務所だ」
栗原はポケットからタバコを取り出して口に咥えた。
「便利屋?」
「もちろん表札が出てるわけじゃない。一見すりゃただのマンションに過ぎないけどな」
「どうしてあの人たちが便利屋なんかに……」
文也の言葉に、栗原はタバコに火をつけながら――
「可能性は二つ。一つは便利屋に何か仕事の依頼に行った。もう一つは彼らがその便利屋で働いている。俺としちゃ後者だと思うぜ」
「あの人たちが便利屋で働いてるっていうのか? あの人は建築士のはずだ。そんなところで働いてるはずがないじゃないか」
「そんな話信じてるのか?」
「でも、どうしてそこが便利屋の事務所だってわかったんだ?」
「実はしばらくの間、マンションの前で見張っていたんだが、しばらくして男のほうが出てきたんだ。真下秀光と言ったっけ? 男はマンションを出て、近くの喫茶店で客らしい爺さんと会っていた。いかにも高級そうなベンツが店の前に止まってた。たぶん、その爺さんのもんだろう。知ってるか?」
「一度、見たことがある」
先日、深夜に訪れた桑島という老人の顔がはっきりと思い出される。
「会話の内容まではっきりと聞き取ることは出来なかったが、どうやらその爺さんに雇われてあの屋敷に真下夫婦のフリをして住み込んでいるようなんだ」
「あの夫婦も偽者ってことか」
「黒幕はあの爺さんかもな。追いかけようとしたんだが失敗しちまった。タクシーの運ちゃんがヘ僕てさ」
栗原は笑いながら水をゴクリと飲んだ。
「いや……あの人は黒幕なんかじゃないよ」
「なぜ?」
不思議そうな表情で栗原は文也を見た。
「この前、その爺さんが夜中にやってきて真下家族と話をしてたのを立ち聞きしたって話したろ? たぶんあの爺さんも誰かの指示で動いてる」
「いったい誰なんだ?」
「たぶん……あの男だ」
「あの男?」
「今日、沙織さんが会ってた男だよ。上野の喫茶店で沙織さんは男と会ってた」
「男? 恋人か?」
「いや、そんな雰囲気じゃなかった。沙織さんはあの男のことを『若先生』って呼んでいた。たぶんあいつがその爺さんを通して皆に命令を出してるんだ」
「何か話を聞けたのか?」
「いや……ほとんど聞き取れなかった」
「若先生か。何者なんだろうな」
その時、ウェイトレスが皿に載せたサンドイッチとコーヒーを運んできた。こんがりと焼けたトーストの間にレタスとトマト、タマゴが挟まれている。それを見ながら栗原が灰皿でタバコの火をもみ消してウェットティッシュで丁寧に手を拭く。
ウェイトレスが離れてゆくと、栗原はコーヒーを一口飲んでからサンドイッチに手を伸ばした。
「たぶん……朝宮という名前の男だ」
「ん? 何がだ?」
サンドイッチを頬張りながら文也を見る。
「沙織さんが会ってた男だよ」
「朝宮? なぜそんなことがわかる? 尾行したのか?」
「うん、後はつけたんだけど……」
「――けど?」
「気づかれた」
「なんだ。おまえも逃げられたのか?」
がっかりしたように栗原は言った。
「逃げられたっていうか……どう言えばいいのかな……待ち伏せされたんだ」
栗原の表情が固くなった。
「待ち伏せ? 最悪じゃんか。それで?」
「どう言えばいいのかな……何か訳わかんないこと言われたよ」
「で、そいつ、名乗ったのか?」
「名乗ったわけじゃない。僕が当てずっぽうにその名前を言ったんだ」
「当たったのか?」
「否定はしなかった……でも、少し驚いてたみたいだ」
いや、驚いていたというより、楽しんでいたと言ったほうが合っているかもしれない。
「へぇ、意外とおまえも度胸あるじゃんか」
「そんなんじゃない。一か八かで言ってみただけだ。でも、あいつ、僕のことも知っていたみたいだった」
「そりゃあお嬢様から聞いてたんだろ」
「いや……そういう意味じゃないんだけど……」
あの男は自分のもっと過去のことまでも知っているような口ぶりだった。
「しかし、それってヤバイんじゃないか? 男とお嬢様が知り合いってことは、おまえが後を尾けたこともお嬢様には伝わってるってことだろ」
「ああ……」
栗原の言う通りだった。あの男が全ての黒幕であるならば、今日のことも沙織に筒抜けになっているだろう。
「どうする?」
一瞬、考えてから文也は答えた。
「言い訳のしようもないな……クビにされても仕方ないだろ」
「クビで済めばいいけどな」
小さく栗原が言った。一瞬、殺された河井礼子の顔が頭に浮かぶ。朝比奈亮平というあの男が河井礼子を殺した可能性だってある。
喉元に押し付けられたナイフの感触が蘇ってくる。
「大丈夫さ」
自分を励ますように文也は言った。
「失敗したなぁ」
大きなため息をともに栗原が言った。「いっそこのまま屋敷に帰らずトンズラするか?」
「いや、それは出来ないよ」
文也はそう言って携帯電話に視線を走らせ時間を確認した。
午後3時15分。
「大丈夫か? 気をつけろよ」
栗原の言葉に文也は小さく頷いてから立ち上がった。
* * *
駅に着いた頃には既に午後5時を過ぎていた。
駅前のターミナルでは、発車間近のバスが停まっている。早足で改札を駆け抜けた高校生たちが次々とバスに乗り込んでいく。
文也はバスの乗り場で一度足を止め、空を仰いでため息をついた。
真直ぐに帰る気にはなれず、文也はそのバスを避けるようにゆっくりと歩き出した。
屋敷に戻るいつものコースではなく公園のほうへと足を向ける。小高い自然林を利用して造詣された公園で、そこまではゆるやかな坂が続いている。文也は次第に暮れはじめた西の空を見上げながら、その坂を上って行った。
この辺りも10年ほど前に住宅地として造成されたばかりだと明美が話してくれたのを思い出す。
どこかで犬が吠えている。
文也は歩きながら、20年前の事件当時のことを想像した。おそらくこの辺一体、雑木林に囲まれた何もない田舎風景だったに違いない。そんな場所で起こった一家殺人事件。当時住んでいた人はその事件に何を思っただろう。
15分ほど歩くと、右手に公園が姿を現した。
滑り台とブランコだけが設置されている小さな公園だ。公園のまわりには植えられて数年しか経っていないと思われるまだ細い桜の木が見える。きっと2、3年後の春には満開の美しい花を咲かせることだろう。
幸い公園に人の姿はなく、一人考え事をするには都合がいい。
文也はベンチに腰を降ろし、そっと目を閉じた。
ひんやりと冷たい風が頬を撫でる。
――君は自分自身が何者なのか理解していない
あの男の言葉が頭のなかをグルグルと回っている。
あの言葉を投げかけられた時、自分の心のなかの何かがそれに呼応するようにビクリと動いた感じがした。
(俺は……誰なんだ)
ズキリと頭が痛む。
自分のなかに、自分でも知らない何かが潜んでいる。そして、そこにどこかに置き忘れてきた何かある。
それは自分でもずっと子供の頃から感じてきたことだ。
だが――
(いったい何なんだ?)
今まで、どんなに考えてもその答えが見つかることはなかった。
あの男は『運命』と言った。
自分の運命とは何なのだろう。
ずっと捜し続けてきた答えが、こんな形で見つかろうとしているというのだろうか。
どこからか『夕焼け小焼け』のメロディーが微かに聞こえてくる。きっとどこかの小学校からでも流れてくるのだろう。
懐かしさが胸の奥からこみ上げてくる。
(懐かしい?)
その感情に文也は戸惑った。
それはこの街を訪れた時からしばしば感じてきたものだった。
文也は立ち上がって改めて周囲を見回した。
こんな公園も、こんな風景もどこの街にもあるものだ。自分が育った仙台の街にもこんな公園はいくつもあった。だが、この街からはそれとは違う何かを感じる。
(僕は……この町を知ってる)
遠い昔、確かにこの町に来たことがある。
真っ暗な記憶の底に掴めそうで掴めない記憶の糸が漂っている。そんなもどかしさに文也は頭を掻き毟った。
公園脇に立てられた街灯にパッと光が宿る。
夕闇が街を包み始めていた。
* * *
屋敷に帰る頃にはすっかり暗くなっていた。
すでに午後6時半になろうとしている。
「おかえりなさぁい。遅かったんですね。小雪お嬢様が部屋で待ってますよ」
いつもと変わらぬ明るい声で明美は言った。「食事はどうします? 小雪お嬢さんの勉強の後にしますか?」
「ごめんなさい。外で済ませてきました」
ファミレスで簡単に食事をした後は何も食べてはいなかったが食欲がなかった。
「そうなんですか? それなら電話してくださいよ」
明美は少し不満そうに言った。
「すいません……あ、沙織さんは?」
「夕方お帰りになって、今、お部屋にいらっしゃいますよ。どうかしました?」
「いえ……」
明美は何も聞かされていないのだろうか。明美だけはこの家の秘密とは無関係なのかもしれない。
文也はそのまま階段を上ると、小雪のところに行く前に一度自分の部屋に向かおうとした。階段を上りきった時、小雪の部屋のドアが開いて沙織が姿を現した。
その姿に思わず足を止める。
沙織はチラリと文也に視線を向け――
「今、お帰りですか?」
いつもと変わらぬ抑揚のない声。
「あ……はい」
そう答えてゴクリと息を飲む。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。そのままの姿勢のままいったい何を言われるだろうと身構える。
だが――
沙織は何の素振りも見せないままに、クルリと背を向けて歩き出した。
(何も言わないのか?)
そう思った瞬間、ピタリと足を止めて振り返った。そして、ビクリとする文也に向かって――
「さっきあなたのお友達から電話がありましたよ」
「友達って? 栗原ですか?」
栗原の部屋を出る時、この家の電話番号を聞かれたことを思い出した。
「どうやらあなたのことを心配しているようでした。後であなたのほうから電話してあげてください」
「どうして?」
「さあ、どうしてでしょうね。なかなか面白い人ですね」
沙織はそう言うと背を向けて歩いていき、自らの部屋に入っていった。あまりに呆気ない沙織の素振りに、文也は気が抜けたような感じがしていた。
ホッと一息ついてドアの前に立った時、再び小雪の部屋のドアが開く。
「あれ、今帰ってきたの?」
小雪が文也の顔を見て言った。
「ただいま。今、沙織さんが部屋に来てたみたいだね」
「うん」
「何かあったの?」
「ううん、別に。ただ夜は部屋から出るなって。あと、部屋にいる時は鍵をかけなさいって言われた」
「部屋から出るな? どうして?」
「わかんない。それより――」
小雪はそう言ってから一度言葉を切ると、周囲を見回して誰もいないことを確認してからさらに続けた。「今夜も勉強するの?」
すでに小雪は文也の前では『小雪』としての演技をしようとはしていない。
「いや、今日はやめとこう」
「良かったぁ。今から明美さんからお菓子の作り方教えてもらうんだ」
そう言いながら小雪は1階へと降りていった。
小雪の後ろ姿を見送ってから文也は部屋に戻りドアを閉めると、すぐに栗原に電話をかけた。呼び出し音が1回鳴り終わらないうちに栗原が電話にでた。
――まだ生きてるな。
冗談のつもりか軽く笑いながら栗原が言った。
「さっき電話くれたんだって?」
――ああ。今帰ってきたのか? ずいぶん遅かったじゃないか。
「うん、ちょっとな。どうかしたのか? 何か用なら携帯に電話してくれればいいじゃないか」
――それじゃ意味がないだろ
「意味って?」
――わかってないなぁ。俺が電話したのはおまえに危険が及ばないように牽制するためだ。おまえに何かあればすぐに警察に駆け込むぞってな。
「そんなこと言ったのか?」
――そこまではっきりとは言わないけどな。どことなく俺もおまえから話を聞いているってことを匂わせておいただけだ。そうしておけばへたにおまえに手を出すこともないだろ。で、彼女、今日のことについて何か言ったか?
「いや……何も」
――何も? ふぅん……何かしら動いてくるかもしれないと思ってたんだけどな。牽制が効きすぎたかな?
「いったいどういうことだと思う?」
――さあな。だが、油断するなよ。相手の正体も目的もまだはっきりしないんだ。おまえの見た男がお嬢様の知り合いだとすれば、今日、おまえのやったことは全部その家の人たちに筒抜けだと考えた方がいい。
「わかってる」
――朝宮って男について、俺のほうでちょっと調べてみる。
「出来るのか?」
――さあ。期待はするなよ。じゃあな。
プツリと電話が切れる。
(油断するな……か)
いつもならただの冗談と笑っていられるものも、今はそれが出来ない。ついつい河井礼子のことを思い出してしまう。
鍵をかけ、ベッドにゴロリと寝転ぶ。
青島に連絡したほうがいいだろうか。
(いや――)
やっと彼らのことがわかりかけてきたのだ。
もう少し自分の力で調べてみたい。
青島に話すのはそれからでも遅くはないだろう。




