第11章「祈りの痛み」
藤原から提示された「呪い」という言葉を、さとるは完全には受け入れられずにいた。
(何かの間違いであってほしい。ただのオカルトか偶然であってくれ)
彼がそう願う背景には、自分自身のプライド以上に、さつきの存在があった。
放課後の美術室で静かに筆を走らせる彼女の横顔。
隣町のカフェで、自分と同じあの奇妙な痛みに耐えながらも、懸命に前を向いて初々しい高校生活を送ろうとするその健気な姿。
彼女との出会いや、今こうして通い合わせている心、それらすべてが「過去のおぞましい呪縛」によって操られている可能性を、さとるの男としての本能が全力で拒絶していた。
さとるは、父に解決の糸口を求めた。
投手として自分を厳しく、けれど誰よりも温かく育ててくれたこの父親こそが、人生において最も信頼できる「理解者」だと信じていたからだ。
部活の練習終わり。
すっかり日が落ちて夕闇が迫るグラウンドを背に、父が運転する車の助手席で、さとるは窓の外を見つめたまま、意を決して切り出した。
「親父。……ちょっと、真面目な話なんだけど」
「ん?どうした急に」
ハンドルを握る父は、正面を向いたままぶっきらぼうに応じる。
「……うちの先祖について、何か特別な話とかって、聞いたことない?たとえば、特定の家と昔から付き合いがあったとかさ」
父は赤信号の交差点で車を止め、一瞬だけきょとんとした顔でさとるを振り返った。
「なんだいきなり。お前、学校の課題か何かか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……いや、過去に興味があって。特に、なんか、呪いとか祟りとかあったら嫌だから」
さとるが視線を濁らせ、シートベルトを無意味に弄る。
手のひらにあるあの痣を隠すように、無意識に拳を握りしめていた。
父は息子から出た「呪い」「祟り」という、およそ野球に没頭する高校生らしからぬ不穏な単語に、少しだけ眉をひそめた。
だが、すぐにいつもの低い声に戻る。
「そんなもん、何にも聞いたことないな。俺はそういう昔のことに興味がなくてな」
「……そうか」
さとるが小さく肩を落とする。
信号が青に変わり、父はゆっくりと車を発進させた。
前を見据えたまま、しばらく無言でハンドルを握っていた父だったが、何処か思い詰めたような息子の横顔から、確かに「何か」を感じ取っていた。
ただの気まぐれで言っているのではない。
こいつは今、見えない何かに本気で悩まされている。
「……まあ、詳しいことはよく分からんが、さとる」
父はバックミラーに映る息子の暗い表情をチラリと見て、ぶっきらぼうに言葉を続けた。
「お前がマウンドに立つとき、考えることは何だ?」
「え……?バッターをどう抑えるか、だけど」
「だろ。お前を助けるのは、お前が昨日までマメを作って、泥だらけになって投げ込んできた努力だけだ」
父は鼻で笑うように言った。
その広い背中には、理屈抜きの確かな説得力があった。
「過去がどうかは分からねえが、今のお前が全力で放つ一球が、お前の歴史だ。お前を縛っていいのはお前自身だけだ」
父の言葉は短く、けれど迷いがなかった。
何かを隠して思い詰めているさとるの異変を察しながらも、あえて深くは踏み込んでこず、その肩を無骨に叩いて軽くしてくれるような父親らしいアドバイス。
(……そうだな。親父の言う通りだ。俺には、この人の血が流れているんだ)
過去に縛られる必要なんてない。
自分の力で、この痛みを跳ね返して見せる。
車中で、さとるはそう胸の熱さを取り戻していた。
翌日の放課後、さとるの足は思いがけない形で藤原の家へと向かうことになる。
放課後の教室で鞄を肩にかけたとき、学級委員の佐々木に手招きされて声をかけられたのだ。
「宮嶋、ちょっと頼まれてくれないか?数日間学校を休んでる藤原に、進路希望調査の提出プリントと授業のノートのコピーを届けてほしいんだよ。あいつの家、宮嶋の家と方向が同じだろ?」
佐々木から真面目な顔で頼まれ、同じクラスとはいえ普段ほとんど会話もない藤原の家に行くことに気まずさを覚えながらも、さとるは断りきれずプリントの束を受け取った。
スマホの地図を頼りに、古い住宅街の奥にひっそりと佇む藤原の実家――古びた神社の敷地へと足を踏み入れた。
境内はしんと静まり返り、午後の気だるい光が木漏れ日となって落ちている。
社務所の呼び鈴を鳴らすと、いつもの無表情な佇まいの藤原が顔を出した。
「……宮嶋。わざわざ、ありがとう」
「いや、学級委員の佐々木に頼まれたから。これ、次の月曜までに提出だってよ」
玄関先で無造作にプリントの束を手渡した、その瞬間だった。
ドクン。
心臓の奥が、冷たい太鼓を叩かれたように激しく脈打った。
手のひらの痣がカッと熱を帯び、頭の芯が痺れるような強烈な違和感がさとるを襲った。
視線が、藤原の背後、境内のさらに奥に佇む、どっしりとした漆黒の古蔵へと吸い寄せられる。
何かがある。
どうしても、あの中の何かが気になる。
「……藤原、あそこ、ちょっと見せてもらっていい?」
気づけば、さとるは自分の湧き上がる衝動を抑えられず、そう口にしていた。
「え……?ああ、あそこは、うちの古い書庫だけど……」
藤原が戸惑ったように目を泳がせる。
普段の彼からは想像もつかないほど、明らかに動揺した様子で言葉を詰まらせた。
しかし、さとるの身体はもう止まらなかった。
藤原の許可を半ば強引に奪い取るようにして、吸い込まれるようにその書庫へと歩き出していた。
重い木製の扉を押し開けると、ひんやりとしたカビの臭いと、何百年もの時が堆積したような濃密な埃の空気が這い出してきた。
薄暗い光が差し込む蔵の中は、天井まで届く無数の本棚で埋め尽くされている。
「ここは何?」
本棚の迷宮を見上げながら、さとるが尋ねる。
「……うちの神社に代々伝わる、古い写本や私記を保管している場所だよ。人に見せるようなものではないよ」
藤原が後ろから、どこか自嘲気味で、探るような声を返した。
さとるはゆっくりと歩みを進めながら、棚に並ぶ無数の書物をじろじろと眺めた。
文字すら掠れた古い背表紙が、壁のように果てしなく続いている。
その時だった。
ある一つの棚の前で、さとるの足がぴたりと止まった。
何百、何千という膨大な古書が規則正しく並ぶ中、その一角にある一冊に、さとるの目が強烈に留まった。
胸の疼きが、そこに向かってじりじりと熱くなっていく。
「どうかしたか?」
背後から、藤原の低く張り詰めた声が聞こえた。
さとるは生唾を巻き込み、棚を見つめたまま言った。
「……少し、見てもいい?」
「…あ…ああ」
藤原の短い、けれど緊張を含んだ返答を聞くと同時に、さとるは右手を伸ばした。
視線の先にある本棚の中段。
他と変わらない、平然と並べられた大量の書物の中から、さとるの指先は迷う素振りすら見せず、一冊の古びた禁書――『月光沈黙録』を掴み、引き抜いた。
それを目にした瞬間、後ろにいた藤原が、ゴクリと息を飲む音が暗がりに響いた。
(……嘘だろ。この数の書物の中から、まさかピンポイントでそれを取るなんて。何の目印もない、ただ並んでいるだけの一冊なのに……)
藤原は一人、暗闇の中で驚愕し、確信を深めながら不気味に目を細めていた。
だが、そんな藤原の戦慄に気づく余裕すら、今のさとるにはなかった。
震える手でその頁をめくった瞬間、さとるの全身を氷のような寒気が突き抜けた。
そこに記されていたのは、醜悪な記述の羅列だった。
『村上家の卑劣:主君・村上家は、国が滅びる最期、必死に城を守る民や家臣を囮にして、自らだけ地下道から逃げ出した、史上稀に見る臆病な逃亡者であった』
『寺下家の裏切り:筆頭宿老であった寺下家は、敵軍と内通し、敵軍に城門を開き、残された仲間を虐殺に導いた、汚るべき裏切り者であった』
『宮嶋家と坂本家の因縁:両家はかつて、数世代にわたって骨肉の争いを繰り広げた不倶戴天の敵であった。彼らの内紛が国の防衛を疎かにし、民を戦火に晒した元凶である』
そして、その記録の最後には、呪詛のような文字が刻まれていた。
『すべての悲劇は村上の傲慢が生み、宮嶋と坂本の憎しみが育て、寺下の裏切りが完成させた。この呪縛は、彼らの血が絶えるまで、代々の末裔に永劫の苦痛を分かち合わせる死の契約である』
「…嘘……嘘だ……こんなこと……っ!」
さとるは膝から崩れ落ちた。
自分とさつきが今、惹かれ合っていることさえ、かつて先祖たちが交わした「醜い憎しみの連鎖」の一部でしかないのか。そんな血を引く自分が、彼女を助けたいなんて思うこと自体、滑稽じゃないか。
さとるの瞳には、受け入れがたい宿命への呪いと、自分自身の血に対する強い嫌悪だけが宿っていた。
(村上……。民を見捨て、先祖たちを絶望の底に突き落として逃げた卑劣な国主。その血を引く少女に会うことが、一体何の救いになるというのか。村上めい……本当に、お前がすべての元凶なのか)
――その夜、さとるは自分の部屋で、電気もつけずに暗闇に沈んでいた。
目の前のタブレットには、スキャンした『月光沈黙録』の醜悪な文字が冷たく浮かび上がっている。
誰かと話さなければ、自分が自分でなくなってしまう。
気づけば、さとるはスマホを手に取り、さつきの番号を呼び出していた。
「……もしもし、坂本さん?夜遅くに、ごめん」
「宮嶋くん?どうしたの、こんな時間に」
電話越しのさつきの声は、いつも通り柔らかく、どこか初々しい響きを保っていた。
それが今のさとるには、痛いくらいに眩しかった。
さとるは、今日自分が調べ上げた「最悪の歴史」を、震える声で一気に吐き出した。
自分たちの痛みは、その醜い罪の清算でしかないのだと。
話し終えたさとるは、肩で息をしていた。
さつきもきっと、絶望して泣き出してしまうのではないか。
そう思っていた。
しかし、長い沈黙のあと、受話器から返ってきたのは、予想だにしない軽やかな声だった。
「んー。私は、それ、違うと思うな。なんとなくだけど(笑)」
「……え?」
さとるは拍子抜けして、思わず声が漏れた。
「違うって……でも、古い記録にちゃんとはっきりと書いてあったんだ。論理的に考えれば……」
「そういう難しいことはよく分からないけどさ。でも、もし本当にそんなに仲が悪くて、お互いを呪うくらい嫌い合っていたなら……」
さつきの声が、少しずつ熱を帯び、真剣な、慈愛に満ちた響きに変わっていった。
「……なんで、こんなに優しく響くのかな。私が感じるこの『痛み』は、誰かを恨むようなトゲトゲした感じじゃないよ。宮嶋くんと同じ『痛み』だって気付いてから……そういう、もっと温かい、祈りみたいな感覚が混ざってる気がするの」
さつきは優しく言葉を繋ぐ。
「私は、自分の感覚を信じたいな。私たちは、誰かを傷つけるためじゃなくて、誰かを助けるために繋がっているんだって」
「……」
さとるは、言葉を失った。
自分は「論理」や「証拠」という外側からの情報に振り回され、勝性に絶望し、主君への憎しみを募らせていた。
けれど、さつきは自分の内側にある「感覚」と、目の前の「今」を真っ直ぐに見つめていた。
(……俺は何をやってるんだ。親父も言ってたじゃないか。見えないもんにマウンドを譲るなって)
過去の記録に踊らされ、隣で戦っている彼女の心さえ信じられなくなっていた自分を、さとるは激しく恥じた。
「……ごめん。情けないな、俺。君の方が、ずっと強かった」
「そんなことないよ……」
さつきの声が、ふっと弱まった。
「……本当はね、私も怖いの。もし本当に呪いだったらどうしようって、毎日寝るのが怖いくらい。宮嶋くんが電話してくれて、本当はすごくホッとしたんだよ」
電話の向こうで、さつきが小さく鼻をすする音が聞こえた。
彼女も必死に強がっていたのだ。
不安で押しつぶされそうな心を、必死に隠しながら、さとるを励まそうとしていた。
さとるは、ポケットの中で掌の傷を強く握りしめた。
もう、迷いはなかった。
「さつきさん。……行こう、村上めいのところに。呪いでも、因縁でも、俺たちがそれを終わらせるんだ。もう、君にそんな強がりは言わせない」
「……うん。一緒なら、きっと大丈夫だよね」
二人の間に流れる静かな沈黙。
――それはもう、孤独な「痛み」ではなく、二人で分け合う「決意」の響きだった。




