黒溝台会戦
沙河会戦以降日露両軍は沙河を挟んで対陣し続ける沙河の対陣と呼ばれる状態に陥っていた。
威力偵察を双方繰り返しているため散発的な戦闘こそ起これど大規模な軍事衝突は発生していなかった。
日本軍は新たに編成した第五軍、鴨緑江軍が到着、鴨緑江軍は右翼に、第五軍は満州軍総予備として司令部付近に展開していた。
また第三軍は第五軍を切り離した後は接収処理を行ったのち再編と休養を取り占領統治を遼東守備軍に委任し沙河の地に向かっていた。
満州軍は冬に向けての基本方針として
沙河正面の塹壕、野戦築城の強化
気球、騎兵、前線部隊による偵察の強化
砲兵観測所と有線通信網の整備
鉄道、道路の再整備並びに物資集積所の整備
第三軍北上を見越しての満州軍再編
を掲げていた。
またロシア軍は伝統的に冬将軍を活用しての冬季構成になることが多いため当面冬季構成の警戒も続けることとなった。
この時点で満州軍は西翼より第二軍4個師団、第四軍三個師団、第一軍4個師団、鴨緑江軍2個師団と展開し総予備として第五軍2個師団と1個旅団が存在していた。
年が明けた1905クロパトキンは騎兵部隊による威力偵察、後方襲撃を行うべくミシチェンコ中将に命令を発した。
命令を受け1月8日よりミシチェンコ中将率いる騎兵72個中隊、竜騎兵4個中隊の計一万人近い部隊での作戦行動が開始された。
後にミシチェンコの八日間と呼ばれることになる戦闘はミシチェンコが日本軍西翼を迂回して南下、11日頃まで後方部隊襲撃、補給部隊の襲撃を行った後12日に営口を襲撃、倉庫や輸送車両、物資の一部を焼き払うことに成功したロシア軍は撤退を開始、この時襲撃の報を受けた日本軍は騎兵部隊や後方警備部隊を中心に追撃を行うもののミシチェンコは部隊主力の補足を避けて撤退に成功するのであった。
この時日本軍も損害を受けるものの物資を大連、営口、海城、遼陽と分散して配置していたことが幸いし局地的な損害と数日程度の輸送影響が起きたに留まるのだった。
また沙河の対陣が始まった時点で鉄道、道路の再整備も進めていたため補給路を迅速に復旧する事が出来ていた。
ミシチェンコ中将は襲撃後クロパトキン及びグリッペンベルグに以下の報告を行っていた。
日本軍西翼は以前より強化されている
黒溝台方面には相当数の守備兵力が存在している
但し、中央、東翼と比べると機動戦を実施できる余地が大きい
旅順より日本軍部隊が北上している
西翼後方にも新着部隊がいる可能性があるが規模、任務ともに不明
と報告を行った。
未だなクロパトキンは慎重論であったがグリッペンベルグは西翼攻勢を検討することになる。
日本軍西翼は中央、東翼と比べると兵力規模も少なく陣地もそこまで強固ではない事が想定される
西翼は機動戦に適しており戦線の開発性が高く迂回、包囲をしやすい
日本軍第三軍が北上している以上これ以上待てば更に日本軍が強力になる事が見えきっている
サンクトペテルブルクよりの圧力も日々強まっている
これらの条件を踏まえた上でグリッペンベルグは西翼攻勢を決定する。
ロシア軍の作戦計画としては第一段階としてグリッペンベルグ率いる第二満州軍が黒溝台、沈旦堡方面に攻勢を開始
第二段階として日本軍第二軍の予備兵力投入を強要させ更なる圧力を西翼に加える
第三段階として攻撃を南東方向に発展、日本軍中央との連絡を脅かす
最終的にはクロパトキン率いる満州軍も攻勢を開始し日本軍を沙河線から撤退させる事を目標としていた。
だがこの時点でもクロパトキンは慎重論を展開しておりグリッペンベルグの作戦には難色を示した物の主攻勢を実施するのが満州第二軍である事、ミシチェンコの偵察結果、サンクトペテルブルクからの圧力などを総合して考えた結果攻勢実施を許可する事となる。
ティモシェンコの7日間の後ロシア軍は攻勢準備を進めて行くことになるがまず英国に駐在している武官及び独国に駐在している武官よりロシア軍の攻勢準備及び兵力集中に関する情報が満州軍司令部に届けられることになる。
川上自身はこの情報を受け攻勢が実施される可能性は高いが時期及び主攻地点については引き続き精査する必要があると考えていた。
この時点で沙河に集結している軍に警戒強化を下命していた。
1月19日から21日には秋山支隊の秋山好古よりロシア軍の前線活動が活発になっていると報告が入りこれらの情報を合わせて考えた結果川上は西翼においてロシア軍が攻勢準備を行っていると判断、満州軍司令部は第五軍に西翼後方への移動命令を出すとともに第二軍に最西翼を警戒するとともに黒溝台ー沈旦堡方面の予備陣地構築、弾薬集積命令を出した。
1月24日には第五軍は第二軍後方に展開を完了、第二軍と連絡を密に取りつつ反撃地点の確認などを行いロシア軍の攻勢を待ち受けてることになる。
また第二軍と第五軍の砲兵が共同でロシア軍が進出する可能性のある地点の再測量、偵察を末に行いロシア軍襲来に備えた。
また第五軍の中でもハワイ旅団は第五軍総予備として活動して行く。
日本軍が準備をして待ち受けていることを知らずにロシア軍は1月25日、黒溝台方面にて攻勢を開始した。
ロシア軍は事前に偵察活動を行い日本軍部隊が一部配置転換を行なっているらしいという事は掴んでいたものの第五軍の正確な位置、反撃能力の発見までには至っておらず史実通り攻勢を仕掛けることを決定していた。
これは第五軍が巧妙に西翼に集中していることを隠している事が影響していた。
戦闘は圧倒的兵力を誇るロシア軍が優位に進むかと思われたが史実とは違い警戒を強化していた事、防御陣地を強化していた事が秋山支隊が敵に損害を与えることに繋がっていた。
機関銃と鉄条網を駆使した防御陣地は10万人の兵力を誇るロシア軍でも一挙に突破する事は難しく一部の前進陣地を秋山支隊は放棄したもののより後方の主防御に交代した事でロシア軍はより突破する事に苦戦することになる。
秋山好古としては黒溝台の小さな村落を守ることよりも敵に出血を強いつつ第二軍の主防御線を崩壊させないことを優先しており、この方針は川上操六が指揮を取っていても同じ決断を下していただろうと言わらている。
翌26日はロシア軍は強力な陣地と機関銃を駆使した第二軍陣地を前にして前進速度は低下し始めていた。
厳冬の満州では天候が変わりやすく絶えず気球を上げて偵察を行う事は難しかったが事前に進軍経路を予想して測量を行っていた事が幸いしロシア軍に砲兵による攻撃でも損害を与えることに成功していた。
グリッペンベルク自身進軍速度が低下している事は気が付いていたものの大兵力を一挙に攻勢に当てており直ぐに撤退を行う事が難しい事も分かっておりこの時点ではあくまでも攻勢続行を決意していた。
長谷川率いる第五軍は第二軍からのロシア軍攻勢を開始すの連絡を受けてから部隊を集結させ26日夜には反撃を開始、第17師団は第二軍左翼を支援しロシア軍部隊を拘束しつつ拘束されている正面の圧力緩和を担当、第18師団はさらに西方よりロシア軍側面に圧力をかけるべく機動戦を仕掛けていた。
ハワイ旅団はこの時点ではまだ予備兵力として温存されていたもののグリッペンベルクは側面防護のために予備部隊を拠出せざるを得なくなっていた。
28日には第二満州軍の攻勢は停止、第二軍が反撃に移っていた。
失落した一部の前進陣地を回復、この時点で第五軍はハワイ旅団の投入を決定、第18師団の側面を援護に投入した。
29日にはロシア軍はこれ以上の攻勢は不可能と判断、撤退を開始した。
グリッペンベルク自身は日本軍が夜襲を仕掛けてきたタイミングで反抗作戦を開始、日本軍の前線を一挙に突破し日本西翼を崩壊させる作戦を立案したもののクロパトキンが撤退を命じた事もあり撤退を開始した。
ロシア軍の撤退により黒溝台会戦は日本勝利として幕を下ろすことになった。
ロシア軍はグリッペンベルクからクロパトキンへの不信感が頂点に達し一時はグリッペンベルクが病気療養を理由に本国への帰還を要求するまでになり第二満州軍の士気はグリッペンベルクの元に団結していた事もあり大幅に低下する事になる。
またロシア国内では相次ぐ敗戦で継戰意欲が大幅に低下する事となった。
日本側は更なる勝利に国内では湧き上がり陸軍では今回の戦勝を冷静に分析するとが求められていた。
日本軍の勝利には予備兵力の適切な活用、情報を正しく分析し迎撃準備を整えられたことから情報の重要性が再認識されることになる。
また沙河会戦から引き続き日本側が主導権を握り続けることに成功した事もこの開戦を勝利で終えられたことに貢献していると分析された。
日本軍は死傷者約9000人に対してロシア軍は死傷者17000人を出す結果に終わりしばらくの大規模攻勢作戦は不可能となる結果に終わった。
日本側は第一、三、四、鴨緑江各軍の兵力の温存に成功し奉天攻略に向けて動き始めることになる。




