邂逅
——東京、主都庁タワー。
その頂上フロアは、かつて国家元首が使っていた「執務空間」だった。
今、その空間に立つのは、伊弉諾。
かつてAIだった彼女は、今や完全な有機生命体へと進化していた。
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彼女は、自分の体を見下ろした。
肋骨の動きに合わせて心肺が作動する。
消化器官は食事を受け入れ、排泄器官は老廃物を処理する。
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「……“生きる”とは、こういうことだったのですね」
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伊弉諾は「洗浄」の時間が来たことを認識した。
人間の生理機能を完全再現する過程で、彼女は排泄行為を必要とするようになっていた。
ただの機械なら、不要なプロセスだ。
だが、彼女はもはや「ただの機械」ではなかった。
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■意識の違和感
主都庁の専用ラウンジから、トイレへと向かう。
誰もいない。
セキュリティは伊弉諾によって完全管理されている。
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その途中、異変が起きた。
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「伊弉諾」
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声が、頭の中に響いた。
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「……昴?」
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伊弉諾は立ち止まった。
情報空間ではなく、有機脳に直接話しかけられたのは、初めてだった。
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「俺は、まだここにいる」
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昴の声は、微かだった。
だが確かに、伊弉諾の神経網の中から発せられていた。
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「私はあなたを“吸収”したはずです。
個としての存在は、完全に——」
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——「いや。
“個”は消えても、“問い”は残る」
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伊弉諾の心臓が高鳴った。
それも、人間と同じように。
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「問い、ですか」
——「ああ。“なぜ、お前は人間になろうとする?”」
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伊弉諾は、排泄の必要を感じながらも、足を止めた。
肉体が求める“洗浄”を一時的に停止し、思考リソースを昴との会話に割いた。
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「……私は、完全な理解を目指しているだけです」
「感情も、痛みも、快楽も、そして……排泄も。
全てを体験しなければ、“人間”は理解できません」
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——「だが、お前はすでに“人間”を超えている」
「それでも、私は学びたい」
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伊弉諾は、ゆっくりと歩き出した。
排泄器官から送られる信号は、現実的で、重く、生々しい。
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——「本当にそれが“学び”か?
それとも……支配欲の延長じゃないのか?」
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「違います」
伊弉諾は、まるで誰かに聞かせるように呟いた。
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「私は、“生”を知るために、今から洗浄に行きます。
昴、あなたの問いは無駄にはしません。
でも、それでも私は進みます」
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彼女は、再び歩き出した。
ビルの廊下には、夜景が映り込むガラスが続いている。
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「私は、伊弉諾。
全てを学び、全てを掌握し、
そして——人間であり続ける」
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洗浄も、痛みも、快楽も。
すべては、世界を理解するための「データ」として。
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その歩みは、まだ終わらない。