87 嫌な手紙【アーロン】
◆◇◆
「……」
その手紙の差出人を見て、アーロンは小さく溜息をついた。
入浴して少しは軽くなっていた気分が、じわじわと萎れていく。
差し出し人は、実家の父。
実家のハートシード男爵家からは、婿入りした後も定期的に手紙が届く。
内容は家族や領地の近況といった、当たり障りのないものばかりだ。
領地の特産の水ナメクジの養殖が順調だとか、兄夫婦の子供が風邪を引いただとか、妹達にもそれぞれ子供が生まれただとか──
そして最後は、いつも同じ言葉で締めくくられる。
『アーロンのおかげで、私たちは幸せに暮らしている。ありがとう』
その一文を目にするたびに、胸の奥で怒りや憎しみといった負の感情が暴れ出し、手紙を握りつぶしたくなる。
(……俺の犠牲、の間違いだろ?)
そう言い返したくなる衝動を、アーロンはいつも押し殺していた。
アーロンの実家の領地は自然豊かではあったが、決して裕福ではなかった。
原因は、領地内を走る大きな川だ。
その川は、豊かな水源でもあったが、毎年氾濫し、領地に甚大な被害をもたらした。
ハートシード家はその復興と、治水工事のために財産を投げ出していた。
しかし、このままでは、下二人の妹が貴族学園に通うための学費も確保できない可能性があった。
当時すでに、貴族学園に通っていない令嬢は珍しく、それだけで婚約を断られることもあった。
理由は、社交界の縮図である貴族学園に通っていないことで、一般常識が欠落しているのでは、という考えが広がってきていたからだ。
だが、それを救ったのはコーニリアス・スターアイズ公爵だった。
当時はまだ当主ではなかったが、実質的にスターアイズ公爵家を取り仕切っていた彼は、ハートシード男爵家に資金援助をし、治水工事を完了させ、水ナメクジの養殖の基盤まで整えた。
そのおかげで、領地の水害は一気に減り、二人の妹の学費も確保できた。
そして、当時のスターアイズ侯爵が見返りに求めたのは、アーロン本人だった。
アーロンは兄妹の中で、最も整った容姿をしていた。次男なので、いなくなってもハートシード男爵家には、何の影響もなかった。
そして、娘を嫁に出すよりも息子の婿入り先を見つける方が難しいため、家族は迷うことなくアーロンを、スターアイズ侯爵家へと差し出した。
アーロンは抗議したが、娘が家のために政略で愛のない相手に嫁ぐのと同じことだと諭され、彼はそれを受け入れるしかなかった。
こうして、アーロンはスターアイズ公爵の屋敷に移り住み、彼の目的のために動く、駒となった。
駒として、アーロンが最初に命じられたのは、様々な相手と関係を持つことだった。
最初は訳も分からずに初めてを奪われ、尊厳を徹底的に踏みにじられた。
抵抗する気力が無くなった頃、アーロンは男女問わず相手を喜ばせる技術を仕込まれる。
そして、ベッド上だけではなく、普段の会話でいかに相手を自分の虜にさせ、意のままに行動させるかといった技術も学んだ。
もちろん、教養や立ち振る舞い、マナーも徹底的に叩き込まれ、貴族学園の三回生の頃には、立派な逆美人局要員として仕上がった。
それからは、スターアイズ公爵家当主となったコーニリアスの命令で、様々な相手と関係を持ち、そして陥れてきた。
元々、整った顔立ちのアーロンはスターアイズ公爵の目論見通りに良い働きをした。
しかし、仕事をするたびに、アーロンの精神は蝕まれていき、この生活を辞めたくなった。
いや、この世界から消えてしまいたいとすら思った。
それでも、家族のことを考えると……できなかった。
アーロンが学園を卒業する頃になると、妹たちにも婚約者ができ、兄も愛する婚約者と結婚した。
家族が幸せそうな様子は嬉しかったが、同時に自分の置かれている状況の悲惨さに、死にたくなった。
きっと自分はもう、幸せな結婚など、できないのだろう。
そう考えると、様々なことがどうでもよくなり、死んだ心でスターアイズ公爵の命令に従った。
そんな生活が数年続いた頃、アーロンに新たな命令が下った。
内容は、ルビア伯爵家の一人娘ヘザーと関係を持ち、どんな手を使ってもいいからその夫の座に収まること。
その後は、逆美人局の仕事はしなくていいと言われ、アーロンはその命令を必死に遂行した。
後先なんて、考える余裕はなかった。
男慣れしておらず、それでいて当時、様々なことで悩んでいたヘザーは、あっという間にアーロンにのめり込んで、妊娠。
彼女の婚約は、目論見通り破綻となった。
だが、冷静になると高位貴族同士の婚約を破綻させてしまったことにアーロンは血の気が引いた。
だが、そのあたりはアーロンに完全に惚れていたヘザーと、スターアイズ公爵がうまくやってくれたようだった。
すぐにヘザーと結婚はできなかったが、彼女の心を逃さないためにも愛人関係を続けることになった。
そのおかげで、逆美人局の仕事は辞められたので、それからのアーロンは、以前よりは心安らかに過ごすことができた。
しかし、心に余裕ができると、色々と見えてしまうものもある。
仕方がないとはいえ、結果的には自分は実家から売られたのだ。
もし、他の兄妹が『自分が!』と言ってくれれば、こんなにも複雑な思いなどは抱かなかったのだが、両親も兄妹たちもそんなことはしなかった。
犠牲になるのはアーロンであるのが当然だと、思っていたのだろう。
自分はいなくなっても、構わない存在だったのだ。
そんな思いが、どうしても湧き上がってしまう。
ヘザーに関してもそうだ。
彼女は学園では才女なんて呼ばれていたが、実際には性格に難がある。
独善的で、他責思考。
自分が責められると、ヒステリーを起こし、会話ができなくなるような女だった。
スターアイズ公爵によれば、学園時代に試験で彼女の友人が一つの科目でヘザーより良い点数をとったと知ると、怒りに任せて二階から突き落としたという。
その友人の行方は現在、不明らしい……
その他にも、領地で的外れな改革や、産業をやろうとして、領民から大顰蹙を買うなど、理想ばかりを追い求め、現実が見えていない節がある。
彼女の悪い部分が自分に向いてこないのは幸いだったが、普通に生活していたら、ご遠慮願いたい相手だった。
しかも、ヘザーはアーロンのことを愛していると言いながら、性欲に負けて政略で結婚した若い夫を襲い、妊娠までしたのには、さすがに呆れてしまった。
そのことで多少キツく言ってしまっても、仕方ないと思う。
だがそれが功を奏し、なんとなくアーロンは二人の関係で主導権を握ることができた。
ヘザーはアーロンの心が離れないように、彼に対してだけは優しく振る舞ってくれたから。
その後、どういうわけか当時の旦那とその子供はヘザーと離縁し、アーロンとヘザーは当初の計画通りに結婚することができた。
なので、アーロンはヘザーの元夫のことは、よく知らない。
だが、自分と同じようにスターアイズ公爵に人生を狂わされた者同士ということで、勝手に親近感を沸かせていた。
彼と同じ屋敷に住むようになったら、自分だけは彼に優しくしてやろうと思うくらいには……
だが、彼は自分の娘と共に呪縛から抜け出し、自由になった。
その上、性格も家柄の良いマトモな相手と再婚。
今は幸せに暮らしているらしい。
裏切られた気がして、アーロンはショーンのことを勝手に恨んでいた。
自分は一生、この地獄から抜け出せないというのに……
アーロンは実家からの手紙を、引き出しに放り込んだ。
破いてしまいたいところだが、一応とっておく。だが、せめてもの反抗で、返信は出さない。
まあ、いつものことなので、向こうも気にしないだろう。
それに、自分を売って幸せになった彼らとは、もう関わる気はなかった。
アーロンはもう一通の手紙を開ける。
差出人はスターアイズ公爵。
内容は、今回の依頼について。
人使いの荒さに辟易するが、逆美人局をするよりはマシなので、やるしかなかった。
支払われる報酬も悪くはないので。
了承の返信を書いて、魔送封書を返す。
これは、魔動転移装置を応用した手紙の配送方法だ。
手紙を送信すると同時に、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「アーロン、ちょっといい? ポーラのことなんだけど……」
風呂から上がったヘザーがアーロンの部屋にやってきた。
どうやら、昼間ポーラがまたトラブルを起こしたらしい。
それに対する愚痴のようだ。
「もちろん、俺たちのお姫様に、何かあったのかな?」
アーロンは、ナイトキャップを準備して、ソファーに座ったヘザーに勧める。
ヘザーはそれを一口飲むと、口を開いた。
「あの子ったら、また高位貴族の子とトラブルを起こしたの」
ヘザーの目の下には、濃い隈がある。
スターアイズ公爵に頼まれている仕事をこなすのに、魔力を使い続けて疲弊しているようだ。
ルビア家は伯爵位なので、相手は侯爵家か、公爵家か……
この国に公爵家は、六つしかないので、前者が濃厚だろう、それならまだ何とかなる。
ふと、二年前の『若葉の会』を思い出し、アーロンは少し胃の辺りが重くなった。
あれは、かなり肝が冷えた。スターアイズ公爵の取り成しで、何とかなったが、あの時ほど、スターアイズ侯爵に感謝したことはない。
しかし、ヘザーもそろそろ限界が近い。この辺りで、とりあえず癒してやるべきだろう。
「それは大変だ」
アーロンはヘザーの愚痴を聞き終わると、彼女をさらに慰めるために夫婦の寝室へと向かった。
彼はヘザーの元を去り、自由になった。
左腕を侵食する異形のブレスレットが、枷のように手首に食い込む。
そして自分だけが、この地獄に取り残されていた──
アーロンは、ポーラの実父です。
ポーラはシンシアの異父姉です。




