第七十話:世界はあなたのもの その2
「……イクシビエドの返答を待つ。変更はない」
相手の目を見ないまま答えるヴィバリー。
「大丈夫。状況を考えれば、この場にいる私たちはイクシビエドにとって貴重な手駒の一つよ。簡単に捨てることはしないはず……私も全力を尽くす。誰も死なせないわ」
さすがに棘があると思ったのか、少し気遣うような言葉を添える。だが、それはどこか確信が足りず言い訳じみて聞こえてしまった。何より、いつものヴィバリーならこんな死亡フラグじみた努力目標なんか口にしない。ただああしろこうしろと言うだけだったはずだ。
おかげで、俺にもヴィバリーの内心が少しわかった。たじろいたのは、ユージーンに気圧されただけじゃない。この状況に対して、彼女も少なからず恐怖しているのだ。戦いになるとして、勝てるのか、生き延びられるのか自信を失っている。俺たちの手前、表に出さなかっただけで。
「だめだよ……」
ユージーンの悲しげな声。顔を背けるヴィバリーに、神妙な表情でじっとうつむくアンナ。
付き合いが長いからこそ、これ以上踏み込めばお互いの関係が崩れるということを知っている。プロとしての自尊心を捨てて、生きるためにただ「逃げる」という選択をヴィバリーはできない。だがユージーンが初めて口にしたわがままを無碍にすることも、彼女たちにはできなかった。ましてそのわがままはユージーン自身のためでさえない、俺たちを死なせたくないという心からの願いなのだ。
三人はある種の膠着状態になっていた。それはつまり、部外者に近い俺が口を出すしかないってことだ。
「……ユージーンが正しい」
集まる視線。俺は勇気を出して、言葉を続ける。
「仕事なんて捨てて、逃げちまった方がいい。イクシビエドに命かけるほどの義理があるわけじゃないだろ。死ぬぐらいなら報酬なんかチャラでいい。冬子は……今の冬子は、俺たちがどうこうできる相手じゃない。それに、冬子も言ってたんだ。そう――」
……何と言っていた?
「降りかかる火の粉を払う、って。だから、あいつの領土に踏み入ろうとしなければ、危険はないんだ。無事に帰してくれる。きっと」
最初はそれほど自信がなかったが、口にするうちに言葉に力がこもり始める。そう、冬子の言葉を思い返せば、この考えは合ってるはずだ。あいつはきっとこの世界でも引きこもるつもりなんだ。このまま廃墟に放っておけば、俺たちにも外の人間にも手は出さないはず。
だが、ヴィバリーの反応は冷たかった。
「無責任なことを言わないで。我々は騎士としてここにいる。請けた任務を放棄するのなら、兜を捨てて勝手に行けばいい!」
ユージーンの時とはずいぶん違う言いように、思わず圧倒される。まるで、あいつに言えなかった言葉を俺にぶつけているみたいで、少し胸が痛い。ヴィバリーは畳み掛けるように言葉を続けた。
「私たちはただ金のために魔術師を殺すわけじゃない。そうすることが社会にとって必要だから殺すのよ。踏み入らなければ危険はない、ですって? 彼女はすでにこの世界の原理にまで土足で踏み入っている。魔術師たちが人間の生活を踏みにじるように、何の呵責もなく。それを止めるのが騎士なのよ。騎士がいなければ、人間は踏まれるだけの虫と同じになってしまう。だから……」
言葉を吐き出すうちに冷静になったのか、ヴィバリーは少しずつ感情のトーンを落としていった。
「だから、やめるわけにはいかない。相手が何者だろうと、それが人間という種にとって害であるなら。たとえ、その行為が魔導師の掌の上であったとしても。私は……全身全霊をもってその魔術師を殺す」
そう言い聞かせることで、ヴィバリーは自分の内の恐怖と折り合いをつけたようだった。一瞬見せた感情的な勢いは消え、静かな瞳で俺たち三人を見渡した。
「異論のある者は?」
ヴィバリーがそう問うと、アンナが黙って手を上げた。緊張した面持ちで息を吸いながら、ヴィバリーはうなづいて彼女に発言を促す。
「それは『あんたの』矜持だ。騎士団の白として決めたことじゃない。自分でもわかってるだろ」
アンナは静かに、叱るように言った。ヴィバリーは反論するでもなく、うつむいて唇を噛む。
「……そうね。そう……わかってるわ」
「いいから、深呼吸して一旦座りな。焦って結論出せるような話じゃないんだ。落ち着いて……なんて、あたしがあんたに言う日が来るとはね」
どこか可笑しそうに、しかし優しく言って、アンナはヴィバリーのそばに立って背中をぽんと叩いた。ヴィバリーは首を横に降りつつも、すとんと折れるようにその場に座り込んだ。
「……キスティニー」
「んー?」
「ここからオーランドまで何人転移させられる?」
不意の問いかけに、にまっと笑うキスティニー。
「あら、あら。逃げちゃうの? せっかくここまで近づけたのに、もったいなぁいなー」
「質問に答えて。代償は払える限り払う」
ため息混じりに言うヴィバリー。立場が弱いことを理解してか、その声にはいつもの棘がない。
「シシ……あらあら。まだそんなに美味しい秘密があるの? ま、別にいいよぉ、何人でも。前みたいにフユコちゃんが禁じなければだけど」
「結構。それだけわかればいいわ」
そう言うとヴィバリーは、長い間着けていた白の兜を頭から外して立ち上がった。幾筋かの黒髪がぱらりと垂れて、端正な顔にかかる。その唇には、あきらめの混じった微笑みが浮かんでいた。
「どうやら、冬寂騎士団としてはここまでね」
きょとんとした顔のユージーンと、同じ顔の俺。一人、苦い顔のアンナ。
「……どういうつもりだよ」
「あなたの言う通りだわ。理屈や命令で聞かせられることじゃない。聞かせてはいけないんだわ。これからどう動くかは、それぞれ自分の意志に任せる。ここを去りたい者は、今すぐ彼女の魔術で離れなさい」
初めは自暴自棄にも見えたが、ヴィバリーの声は落ち着いていた。
「どうして、今それを決める? 返答を待つと言った」
そう問うアンナも、彼女が本気なのをよく理解しているようだった。意地や、投げやりな感情で言っているわけではないのだと。
「答えが出てからでは遅いからよ。遅いとわかってたから待つつもりだった。イクシビエドがフユコを殺すと決めたら、その瞬間から冬寂騎士団は彼女を害する存在になる。ユージーンの放った矢は空中で弾けた……私たちも、放たれてしまってからでは遅い。立場が曖昧な今のうちに、これからの態度を決めておかなければいけない」
一度言葉を切って、ふっとため息をつくヴィバリー。
「そうでしょう、トーゴ」
「……っ」
急に名前を呼ばれて、返事に詰まる俺。
「いつまでも曖昧にはしていられないわ。私もここまで、あなたのそういう態度を利用してきた。だけど……あなたは最初から私たちと同じじゃない。騎士ごっこはもう終わり」
その言葉は、言葉の持つ意味以上に鋭く胸に刺さった。
ヴィバリーが言いたいことはわかる。俺は異世界の人間で、ヴィバリーのような矜持や危機感は何もない。だけど、いつのまにかすっかり仲間のつもりでいた俺は、急に目の前で自分だけ命綱を切られたような、ひどく孤独な気分にさせられていた。
「あなたは妹に会いにきたんでしょう?」
俺は答えられなかった。
冬子に会いにきたのか。それともただ、こいつらについてきたかっただけなのか。
ヴィバリーの言う通り、とっくに曖昧になっていたからだ。
「迷う理由が何かは知らない。でも、行くなら早くした方がいいわ。私が彼女を殺すことになる前に」
ヴィバリーはもう「私たち」とは言わなかった。一人でも行く気だし、誰もついてこないと思ってる。そういう奴だ。アンナとユージーンもそれぞれ自分の身の振り方を決めたのか、じっと俺を見た。
「俺は……」
俺はこいつらと離れたくないと思っていた。
それが正直な気持ちだ。冬子に謝りたい気持ちも嘘じゃない。だけど、それ以上にこいつらと本当に別の道をゆくことこそが、何より辛かった。誰かに対して、こんな風に思ったことは生まれて一度もなかった気がする。血のつながった家族に対してさえだ。
どうしてなんだろうな? 思い出してみると、俺はいつも誰かを名残惜しいと思ったことがなかった。
いろんな背中をただぼんやりと見送ってきた。早くから仕事に出かけてゆく母親の背中。自分の世界にこもるため、部屋に帰っていく妹の背中。友達だと言ってくれた奴らも、疎遠になるならそれでいいと受け入れて、遠ざかる背中を俺はただ眺めていた。
そうやって、俺は誰も彼も自分の世界から切り捨ててきたのだと思う。冬子と同じだ。だから俺には向こうに帰りたいとこれっぽっちも思えない。会いたい人間が誰一人いないから。俺はずっと一人ぼっちで、今また一人ぼっちになる。
どうして、俺が見つける温かさはこんな風に、石のような冷たさと表裏一体なんだろう。家族を殺せるような人間は、心の半分ぐらい石でできてたりするんだろうか。だから、実の家族よりもゆきずりの見知らぬ他人に温かさを感じてしまうのか。まるで、新しい家族みたいに――今さら。
ユージーンの言葉に乗って、ヴィバリーたちに「逃げよう」と言ったのは、きっと俺が冬子から逃げたかったからだ。俺が家族になり損ね、自分の人生から切り捨てようとした少女が、恐ろしかった。あいつの存在そのものが、俺の醜さとおぞましさを何度でも思い出させてしまう。
見たくない。逃げたい。永遠にどこかに押しやってしまいたい。
でも――ここで逃げたらきっと、俺はもう今度こそ本当に、何もかも失うんだ。
この小さな温かささえ、感じる資格をなくしてしまう。
いやだ。それは、いやだ。
「俺は……うん。行ってくるよ」
どうして俺がこんな悲壮な顔をしていたか、三人はわからなかっただろう。ただキスティニーだけがほくそ笑み、秘密を暴く瞬間を探って楽しんでいるようだった。……ひとまず、今ではないらしい。
「冬子に会ってくる。会ってどうなるか、俺にもわからないけど……」
俺がそう言うのを待っていたように、アンナがすっと大槌を担いで立ち上がった。
「あたしはトーゴに付き合うよ」
「知ってるわ」
一瞬、ヴィバリーがアンナから目を逸らして寂しげな顔をした。
その彼女らしくない表情に気づいたのは、俺だけみたいだった。長年の戦友、親友が自分を置いていくのだ。状況次第では殺し合うことにもなりかねない……誰だって、そんな顔になるだろう。
対照的に、アンナの顔には一片の迷いもなかった。口では冷徹なことを言うヴィバリーより、本当はこいつの方が割り切っているのかもしれない。目的さえはっきりしてしまえば、その過程でどうなろうと受け入れてしまえる。その迷いのなさは少し、うらやましい。
それからヴィバリーは、ずっと押し黙って考えている風だったユージーンに目を向けた。
「ユージーン、決められないなら――」
「ヴィバリーと一緒にいる」
即答されて、ヴィバリーは喜ぶよりも驚くよりもまず怪訝な顔をした。
「……どうして?」
「んー……うう……」
ユージーンは少し首を捻った後、説明をあきらめたのか全く同じ言葉を繰り返した。
「ヴィバリーと、一緒にいる」
きっとユージーン自身にも上手く言語化できなかったのだろう。ヴィバリーは何か言いたげに口を開いたが、ユージーンの真っ直ぐな目を見てあきらめたようだった。
最初に逃げようと言い出したユージーンがここに残ることを選ぶのは少し意外だったが、ヴィバリーを見る目の優しさで俺にはなんとなく理解できた気がした。こいつはきっと、一番弱ってる人間が本能的にわかるのだ。今、放っておいてはいけないのが誰なのか。
「頼んだよ」
アンナも同じことに気づいたらしく、ユージーンの肩を叩いてそう言った。
「うん」
ユージーンは少し寂しそうにしながらも、頼もしくこくりとうなづいた。
「それじゃ行こうか、トーゴ。あんたの家族に会いに」
その言葉にちくりと胸の痛みを感じながら、俺は乾いた唇で笑った。