第七十一話 世界はあなたのもの その3
しばらく、無言で歩き続けた。
冬子のいる城まで数十分はかかるだろう。それまで何が起きるか、今は一切わからない。
ローエングリンの霧はいつの間にかすっかり晴れていて、夕闇が周囲を包みつつあった。まだ襲撃の様子はないが、あいつが俺たちをやすやすと冬子に近づけてくれるとも思えない。アンナは「丸腰で行く方がいいか?」と言ってくれたが、ひとまず武器を持ったまま近づいてみることにした。
何より、アンナが弟みたいに大事にしている大槌を手放させるのは悪い気がした。こうして冬子に会いに行こうとしてること自体、完全に俺の個人的な都合だ。
アンナのおかげで俺は完全に一人にはならずに済んだが、その代わりにアンナを今の家族から――騎士団から引き剥がしてきてしまったのだ。これ以上、彼女に負担をかけさせたくなかった。
「……で、どんな子なんだ? あんたの妹」
急に前から聞かれて、口ごもる俺。
「え? まあ……大人しい奴だったよ。少なくとも、向こうにいた頃は」
全く喋らないのを大人しいと表現するなら、だが。
「ふーん。あんたと似たような感じか」
納得したように一人でうなづいて、また背を向けて歩き出すアンナ。
――俺と冬子は、似ていない。むしろ正反対だ。俺は人殺しで、あいつは……良くも悪くも、他人に干渉したがる方じゃない。だけど、そんなことを口に出せるはずもない。
アンナはまだ知らないのだ。俺が冬子を刺したことを。
ほとんど無意識に、キスティニーが近くにいないかどうかふっと周囲を見回している自分に気づく。アンナには他の誰よりも知られたくなかった。ヴィバリーはそれも呑み込んでくれるだろう。ユージーンは多分、最初の時から俺がそういう人間だと知っている。アンナだけが、まだ俺がマシな人間だと思ってくれているんだ。
前を歩くアンナの背中は頼もしい。物理的な障害なら、だいたい何が来ても吹っ飛ばしてくれそうな背中だ。
でも――だからこそ、彼女の信頼を裏切りたくない。裏切るも何も、この世界に来た時からそういう人間だってだけなんだが……それでも。
「なあ、アンナ」
「ん?」
「冬子の近くまで行ったら……近くで待っててくれるか? 会う時は、俺一人がいいと思うんだ」
それ以上の理由は言わなかった。アンナが勝手に理由を察してくれるように。
小狡いごまかしだ。本当は、冬子から俺のことをバラされるのが怖いからだ。
「あー、ま、そうだよな。久々に妹と会うのに、見知らぬ美女が隣にいちゃ気まずいよな」
そっちかよ。黙ってるつもりが、つい口を挟みたくなる俺。
「いや、そうじゃなく……」
「はは、わかってるよ。魔術師殺しの『騎士』が一緒にいちゃ、あんたも敵だと思われちまうかもってことだろ。霧のやつが襲ってきた時みたいに。いいよ、待ってるからあんたはサシで話してきな」
ローエングリンが襲ってきた理由を俺からは話していなかったが、どうやらヴィバリーが適当に説明してくれていたようだ。
「さっき霧が出た時は、借りを返す機会が来たかと思ったんだがな。ま、やらずに済むならそれがいいんだろうけど」
「……」
アンナの声は本気で残念そうだった。不意打ちで殺されかけたのを案外根に持っているようだ。いや、ただの喧嘩好きの性みたいなもんか。
一方、俺は少しほっとする。これで少なくとも冬子との話は聞かれない。
いつかは必ずキスティニーにばらされるとわかってるのに、今この一瞬だけアンナに嫌われないために、小さな嘘をつき続ける。砂上の楼閣ってのはこういう時に使う言葉だったっけか。でも、その嘘のおかげで俺はまだ歩き続けていられる。
アンナが一緒でも、冬子のもとへ足を進めるのは思った以上にきつかった。今度は仕事で偵察に行くわけじゃない。あいつと会って何を話すか考えるだけで吐きそうになる。
俺は何を望んであいつに会うんだろう。頭を下げて謝って、それで全部許されると思ってるわけじゃない。でも、他に何を言えばいいかわからない。ただ、言わなきゃならないことを言いに行く。滅びの山に指輪を捨てにいくフロドの気分だ。あの話と違って、捨てたからって世界も俺も救われるわけじゃないが……重荷を手放したい。
「……トーゴ。あんたはさ、色々考えすぎだと思うよ」
アンナが前を向いたままぽつりと言った。
俺の考えを見透かしたような言葉に、一瞬困惑する。でも俺が何を考えてるか、気づいてるはずはない。彼女はどうやら、俺がアンナをヴィバリーたちと引き離したことを気にしていると思ったらしい。まあ、それも気にしてはいる。
「やっぱあの子と――ヴィバリーと似てる。誰かの人生背負ったような顔して」
――ような、じゃないんだ。俺は確かに冬子の人生を壊した。その重みは勝手に降ろせるもんじゃない。
それを声に出せないまま、俺は黙ってアンナが先を続けるのを聞く。
「あんたたちが何を考えてようが、大して変わりゃしないよ。あたしもユージーンもやりたいようにやってきたし、これからもそうするってだけ。ヴィバリーにもあんたにもお互い負い目なんかない。どんな結果になってもね」
きっとそれは、ヴィバリーに言ってやりたい言葉だったんだろう。でも、言う必要がなかった。ヴィバリーにはもう伝わってるから。
アンナはひょこひょこと肩をふざけた調子で揺らしながら、くくっと笑う。
「誰でもそうだろう。生きたいように生きて死ぬ。だからあたしは、フユコちゃんの魔術ってのがいまいち納得いかないんだよね。因果がどうこうってさ」
「納得いかないって、どういう意味だ?」
「そんなの、誰にわかるんだって思うわけ。あたしの世界は、あたしに見えてるものだけ。あたしが生きてる人生だけでいい。それを外から誰かが糸引いてどうこうしてるって言われても……あたしから見れば、そいつが勝手に言ってるだけだよ」
すごい暴論だ。アンナらしいが……実際、彼女にとってはそれでいいんだろう。
「でも起きたことを考えたら、冬子の魔術のことは間違いないんじゃないか。そんなに都合よく物事が運ぶわけないんだし」
俺が冷静に反論すると、アンナは舌打ちした。
「運なんてその都度変わるもんだろ。大体、因果術なんてあの魔術師女が言ってるだけじゃんか。あんたもヴィバリーも頭が回るくせに、なんで『流言師』なんて名乗るような奴の話を鵜呑みにするのかね」
言われてみればまあ、それはそうだ。「嘘つき」をカッコよく言っただけみたいな感じだし……。
でも、やはり疑う理由はないはず。キスティニーを信じたというより、あいつの言葉はただ欠けたピースを埋めただけでしかないのだから。
「まー、どっちでもいいか。もしフユコちゃんが本当にあたしたちの運命を左右できるんだったら、あたしだけは殺さないでって言っといてよ」
馬鹿なことを言ってくすくす笑いながら、アンナは不意に立ち止まった。後ろを歩く俺も、自然と立ち止まる。
それから少し遅れて、目の前に聳える古城の存在に気づいた。もう、目的地に着いてしまったのだ。
「結局、特に妨害はなしか。あたしが着いてきた意味、あんまりなかったな」
「そんなこと……」
ここまで一緒に来てくれただけで、どれだけ助かったか。
「見つからない程度には近くにいる。何かあったら、大声出せよ」
――そうだ。ここからは、本当に俺一人で行くんだ。
考えたら、足が震えてきた。この震えは覚えてる。そう、冬子を刺しに行った時と同じだ。
あの時にふるい立てた暗い勇気は、ただこの世で俺だけを救うためのものだった。
今踏み出す勇気は、誰のためのものなのか。
「行ってきな、兄貴」
その問いの答えもまだ出ぬまま、アンナの言葉に押されるようにして俺は石段を上がっていった。




