ライアスの帰還(ノエル視点)
【ノエル視点】
戦勝の知らせが届いたのは、ライアスが出陣してから二ヶ月が経った頃のことだった。
早馬が公爵邸に駆け込んできた。
グラントが受け取り、ノエルのところへ来た。
「勝利の報が入りました」
ノエルは書類から顔を上げた。
「……本当ですか」
「はい」
グラントが静かに言った。
「王国の勝利です」
ノエルは少し、目を閉じた。
(勝った)
(勝ったんだ)
目を開けた。
「閣下は」
「ご無事との報告です」
ノエルは深く、息をついた。
(よかった)
それだけで、十分だった。
グラントが続けた。
「ただ、詳細についてはまだ情報が錯綜しております。いくつか入ってきている話がございますが、真偽は不明です」
「聞かせてください」
「はい」
グラントが静かに整理しながら話した。
「まず、アルベルト殿下の采配により、当初の見立て通り、王国軍が有利に戦争を進めていたとのことです」
(それは、ゲームの展開通りだ)
「次に」
グラントが続けた。
「隣国が、謎の魔法で兵を操ったという話がございます。通常の兵とは思えない動きをする兵が現れ、アルベルト殿下の隊が一時的に窮地に追い込まれたとのことで」
(あれ)
(ゲームにそんな展開あったっけ)
(なかった気がする)
(全然違う)
「そして」
グラントが続けた。
「ヴァルトハイン公爵閣下が、獅子奮迅の活躍でその窮地を救われたとのことです。ほぼ一人で、その謎の兵をほとんど討ち倒されたと」
(えっ)
「王都では既に、閣下を讃える声が上がっており」
グラントが少し、間を置いた。
「戦場の血鬼、という名で呼ばれているとのことです」
ノエルは、しばらく黙っていた。
(戦場の血鬼)
(ゲームの異名だ)
(ゲームの異名が、出た)
(でもゲームとは全然違う展開で出た)
(ゲームでは恐れから呼ばれていた異名が、現実では尊敬から呼ばれている)
(しかも全然違う経緯で)
(何これ)
(ゲームと全然違うやんけ)
「ベルナード嬢」
グラントが静かに言った。
「大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
ノエルは答えた。
「まだ噂レベルですし、詳細はお帰りになってから聞けばいいですね」
「さようでございます」
(落ち着け)
(まだ噂だ)
(でも、閣下がご無事というのは確かだ)
(それだけで、今は十分だ)
ノエルは書類に向かった。
しかし羽ペンが、しばらく動かなかった。
◇
その日の夕方、ノエルは孤児院に向かった。
子供たちに伝えたかった。
孤児院に着くと、カルロスとイルマとレントが揃っていた。
「勝利の報が届きました。閣下もご無事です」
カルロスが、短く息をついた。
「そうか」
それだけだった。
しかし肩が、少しだけ、下がった。
イルマが目元を押さえた。
「よかった……本当によかった」
レントが窓の外を見た。
何も言わなかった。
しかし目が、潤んでいた。
子供たちが騒ぎ始めた。
「やったー!」
「かえってくる!」
「公爵様かえってくるー!」
その中で、レイが少し離れたところに立っていた。
手を振らなかった。
騒がなかった。
しかし。
ノエルと目が合ったとき、レイは前を向いたまま、口元が、わずかに緩んだ。
(レイが、笑った)
(ほんの少しだが、確かに笑った)
ノエルはそれを見ながら、静かに思った。
(みんな、待っていた)
(ここで、ずっと待っていた)
◇
戦勝報告から数週間が経った、ある朝のことだった。
グラントが執務室に入ってきた。
「ベルナード嬢、閣下がお帰りになります。間もなく正門に」
ノエルは立ち上がった。
正門の前に、グラント、ノエル、クラウスが並んで待っていた。
遠くから、馬の足音が聞こえた。
次第に近づいてきた。
正門をくぐって、馬が入ってきた。
先頭に、銀髪の人物が見えた。
(閣下だ)
ノエルは少し、前を向いたまま止まった。
(帰ってきた)
(本当に、帰ってきた)
馬が止まった。
ライアスが馬から降りた。
二ヶ月ぶりに見るライアスは、出陣前と変わらなかった。
表情も、立ち方も、変わらなかった。
それがなぜか、非常に、安心した。
(変わっていない)
(閣下は、変わっていない)
(よかった)
(本当に、よかった)
(ってちょっと待って)
脳内の別回路が、全力で起動した。
(二ヶ月ぶりの閣下を、まじまじと見てしまっている)
(戦場帰りの閣下を)
(まじまじと)
(格好いい)
(変わらず格好いい)
(というか、なんか、少し、凄みが増してる気がする)
(戦場帰りのライアス様、概念が違う)
(尊い)
(尊いが)
(なんか今日は、いつもの尊いと少し、形が違う気がする)
(なんでだ)
(帰ってきてよかった、という感情が、推し活の喜びとは少し違う形で出ている)
(なぜ)
(今は考えない)
(後で考える)
(絶対に後で考える)
そのとき、後ろから馬の足音がした。
エリナだった。
馬から降りたエリナが、ライアスの方を見た。
その瞬間。
(あれ)
ノエルは少し、目を細めた。
(エリナの顔が、今までと全然違う)
◇
エリナが、ライアスを見ていた。
いつもの凛とした立ち方が、少し、崩れていた。
気づかない人間なら気づかない程度だった。
しかしノエルには、はっきりと見えた。
背筋は伸びていたが、肩の力が、少しだけ抜けていた。
目が、熱を帯びていた。
戦場帰りのライアスを見る目に、明確な熱があった。
(何この顔)
(エリナがこんな顔をするの、初めて見た)
ライアスがグラントと話しながら、歩き始めた。
エリナがその横に並んだ。
「閣下、お疲れ様でした」
「ああ」
ライアスが短く答えた。
その一言だけで、エリナが少し、固まった。
(固まった)
(エリナが、たった一言で、固まった)
エリナが、続けて何かを言おうとした。
「あの、閣下、戦場では」
「後でグラントに報告する」
「は、はい」
声が、上擦った。
はっきりと、上擦った。
エリナが自分で気づいたのか、軽く咳払いをした。
取り繕おうとしていた。
しかし頬が、わずかに赤かった。
(赤い)
(エリナの頬が赤い)
(ゲームのエリナはこんな顔、一切しなかった)
(というか、この顔は)
(これは)
(なんだこの可愛い生き物)
ノエルは内心で、全力でそう思った。
(悪役令嬢が)
(あの超ハラスメント令嬢が)
(戦場帰りのライアス様を前に)
(頬を赤くして、声を上擦らせて)
(取り繕おうとしている)
(待って)
(これはキャラとして大変良いんですが)
(萌える)
(萌えてしまう)
(悪役令嬢に萌えてしまっている)
(どういうことだ私)
ライアスが屋敷の中に入ろうとした。
エリナがその後に続こうとして、ライアスとの距離が少し近くなった。
エリナが、一瞬だけ、足を止めた。
もじもじした。
凛とした騎士令嬢が、もじもじした。
(もじもじした!!)
(エリナが!!!)
(もじもじした!!!!)
ノエルは表情を保つのに、全力を使った。
ライアスが振り返った。
「フォルセア、疲れているなら休んでいい」
「い、いいえ! 全然疲れておりません!」
声の大きさが、若干、普段より高かった。
エリナが、すぐに「失礼しました」と言って、声のトーンを戻した。
しかし耳まで赤かった。
ライアスは特に気にした様子もなく、また前を向いた。
エリナがそのライアスの背中を見て、そっと胸に手を当てた。
一瞬だった。
気づいていない人間には気づかれない動作だった。
しかしノエルには見えた。
(見えた)
(エリナが、ライアス様の背中を見て、胸に手を当てた)
(これは)
(これは完全に)
(乙女だ)
(超ハラスメント悪役令嬢が)
(乙女をやっている)
エリナがノエルの視線に気づいた。
目が合った。
エリナが、瞬時に凛とした表情に戻った。
完璧な切り替えだった。
しかし頬の赤みは、まだ残っていた。
(ノエルに見られたと気づいた)
(すぐに戻した)
(でも頬が赤い)
(可愛い)
(待って)
(エリナに可愛いと思ってしまった)
(これはいけない)
(でも可愛かった)
(どうしよう)
ノエルは平静な顔のままを保ちながら、内心でひとしきり悶えた。
◇
翌々日の朝、エリナが帰ることになった。
玄関に荷物が並んでいた。
エリナはライアスに一礼した。
「閣下、此度は大変お世話になりました」
「ご苦労だった」
ライアスが言った。
「フォルセアの働きには感謝している」
エリナが、少し止まった。
感謝している、という言葉を、もう一度噛み締めるように。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ、柔らかかった。
それからエリナは、ノエルの方を向いた。
凛とした目だった。
乙女の顔は、もうなかった。
いつものエリナだった。
「ノエルさん」
「はい」
「いいですね、貴方は事務員」
エリナは静かに言った。
「事務員として、ライアス様に尽くしなさい。それが貴方の立場というものです」
釘を刺す声だった。
しかし以前より、少しだけ、力が違った。
(なんか、以前より覇気が薄い)
(もしかして、帰りたくない?)
(未練たらたら?)
(エリナさん、未練たらたらじゃないですか)
「かしこまりました」
ノエルは真顔で答えた。
エリナが、少し、止まった。
何かを言いかけた。
しかし言わなかった。
「……では」
エリナが馬に乗った。
門の方に向かいながら、一度だけ振り返った。
ライアスを見た。
一瞬だった。
それから前を向いて、馬を進めた。
遠ざかっていった。
ノエルはその背中を見ながら、静かに思った。
(エリナ、また来るんだろうな)
(絶対また来る)
(来たときはまた大変なことになるんだろうな)
(でも)
ノエルは少し、考えた。
(あの乙女な顔は、嫌いじゃない)
(キャラとして、嫌いじゃない)
グラントがノエルの横に来た。
エリナが消えた方向を見ながら、静かに言った。
「……嵐のような方でしたね」
「そうですね」
「しかし、根は真っ直ぐな方だと思います」
ノエルはグラントを見た。
「グラントさんは、エリナさんのことを悪く思っていないんですか」
「悪く思うほどのことは、されておりませんので」
グラントが静かに言った。
「それに、ああいう形であれ、閣下を大切に思っている方を、悪くは思えません」
ノエルは少し、前を向いた。
(グラントさんは、全部見えている)
(いつも、全部)
◇
エリナが帰ってから数日が経った。
公爵邸が、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
そんなある夕方のことだった。
「ベルナード嬢」
廊下でライアスに呼び止められた。
「はい」
「少し時間があるか」
「はい」
「高台に、行かないか」
ノエルは少し、止まった。
(高台)
(あの場所だ)
(出陣前にも行った、あの高台だ)
「かしこまりました」
二人で、屋敷の裏手に向かった。
石段を上った。
高台に出た。
夕暮れの公都が、眼下に広がっていた。
出陣前に見たのと同じ景色だった。
しかし今は、ライアスが隣にいた。
しばらく、二人とも黙っていた。
ライアスが、口を開いた。
「噂が飛び交っているのは、知っているか」
「はい」
ノエルは答えた。
「色々と聞こえてきております。戦場の血鬼、という名前も」
「……物騒な名前だ」
ライアスが静かに言った。
「戸惑っている」
「噂では、閣下が戦場で大変なご活躍をされたと聞いております」
ノエルは言った。
「詳しいことはわかりませんが、何か、普通ではないことがあったのではないかと」
ライアスが少し、ノエルを見た。
「……そうだ」
ライアスは静かに言った。
「実は、そのことで今日ここに来てもらった」
ライアスが前を向いた。
少し、間があった。
「戦場で起こったことについて、話したいことがある」
ノエルが、ライアスを見た。
「報告書にはこれからまとめるのだが」
ライアスは続けた。
「しかしどうにも、うまく言葉にならないことがあって」
少し、止まった。
「……君に、聞いてもらいたい」
夕暮れの光が、公都を橙色に染めていた。
ノエルはその景色を見ながら、静かに答えた。
「はい。聞かせてください」
ライアスが、少し頷いた。
それから、話し始めた。




