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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第二章 隣国との戦争

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静かな誓い(ライアス視点)

【ライアス視点】


 出陣前日だった。

 執務室で書類に向かいながら、ライアスは少し、窓の外を見た。


 公都の夕暮れが、街並みを橙色に染めていた。

 明日、この景色を離れる。


 それは以前と変わらない事実だった。

 しかし今回は、以前と何かが違った。


 エリナが来てから、一週間が経っていた。

 ライアスはその一週間を、静かに振り返った。


 最初に気づいたのは、厨房からの報告だった。

 バルトが珍しく、グラントではなくライアスに直接言いに来た。


「閣下、一つ申し上げてもよろしいですか」


「なんだ」


「フォルセア様が厨房にいらして、ベルナード嬢のことについて色々とおっしゃっていました」

 バルトが腕を組んだ。

「俺はこう答えました。ベルナード嬢と一緒にやってきて、うちは良くなったと」


 ライアスは黙って聞いていた。


「余計なことを申しましたら申し訳ありませんが、言わずにはおれなかったもので」


「……いや」

 ライアスは言った。

「報告に感謝する」


 バルトが戻っていった後、ライアスはしばらく、書類に向かえなかった。


(フォルセアが、動いている)


 しかし、なぜだ。

 フォルセアは副隊長として同行するために来た。

 出陣の準備をすれば良いだけのはずだ。


 なぜ、公爵家の使用人のところへ行き、事務員のことを話している。


(……令嬢というのは、ああいうことをするものなのか)


 貴族の令嬢というのは、近くにいる女性の足を引っ張りたがるものだと、どこかで聞いたことがある。

 実感として理解したことはなかったが、今がそういう場面なのかもしれなかった。


(……そういうものか)


 釈然としないまま、次にミルダからの報告が入った。

 内容は同様だった。

 しかしミルダも、バルトと同じ方向の返答をしていた。


 ライアスはそれを聞きながら、静かに思った。


(使用人たちが、ベルナード嬢を庇った)


 半年ほどで、ノエルが公爵家の中でそれだけの信頼を築いていた。

 それは数字でも書類でも表せない、しかし確かな事実だった。


(……流石だ)


 ライアスは、それだけ思った。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 のはずだった。


 しかし羽ペンを取り直しながら、その言葉が、頭の中でもう一度繰り返された。


(流石だ)


 収支の報告の場面も、思い返した。

 エリナがノエルに向かって「事務の方がここまで」と言った場面。

 ノエルは特に動揺しなかった。

 淡々と、事実だけを答えた。


(あの娘は、ああいう場面で崩れない)


 補給路の場面も思い返した。

 エリナが提案したルートに対して、ノエルが領地内の増水報告を引き出してきた場面。


 棚のどこに何があるか、全て把握していた。

 それだけではなく、先週スタッフから聞いた個人的な予定まで、頭に入れていた。


(細部まで、全部把握している)


 ライアスは書類を置いた。


(フォルセアの動きに対して、ベルナード嬢は一度も声を荒げなかった)

(感情を乱さなかった)

(ただ淡々と、自分の仕事をしていた)


 それが、ライアスには。

 妙に、頭から離れなかった。


「閣下」


 扉をノックして、グラントが入ってきた。


「最終確認の書類が揃いました。ベルナード嬢も参ります」


「わかった」


 少しして、ノエルが書類を抱えて入ってきた。

 三人で、最終確認を進めた。


 グラントへの申し送り、領地管理の引き継ぎ、緊急時の対応手順。

 ノエルは一つひとつ、淡々と確認していった。

 どこにも、漏れがなかった。


 一通り終わったところで、グラントが書類をまとめた。


「以上でございます、閣下」


「ご苦労だった」


 ライアスが立ち上がりかけたとき。


「あの」


 ノエルが言った。


「なんだ」


「これを」


 ノエルが、懐から小さな布包みを取り出した。

 机の上に、そっと置いた。


「お守りです」


 ライアスは少し、それを見た。


 小さな人形だった。

 銀色の糸で髪が表現されていた。

 淡い色の小さなボタンが、目になっていた。


(……私か)


「手縫いで作りました」

 ノエルは続けた。

「不格好ですが、持っていていただければ」


 グラントが、静かに微笑んだ。


 ライアスは人形を手に取った。

 小さかった。

 手のひらに収まる大きさだった。

 しかし、丁寧に作られていた。


 一針一針、丁寧に縫われているのがわかった。


「……ありがとう」

 ライアスは言った。


「ご無事でお帰りください」


 ライアスは人形を手のひらで包んだ。

 そのまま、少し、黙っていた。


 黙っていた理由は、自分でもよくわからなかった。

 ただ、何か言わなければという気持ちと、何も言えないという気持ちが、同時にあった。


 そして。


「……ノエルの人形は、ないのか」


 言葉が、出た。

 出てから、ライアスは気づいた。

 今、何を言ったか。


 グラントが、静かに目を細めた。

 ノエルが、固まった。

 完全に、固まっていた。

 動かなかった。

 呼吸しているかどうかも、わからなかった。


「……何でもない」

 ライアスは言った。

「忘れてくれ」


「は、はい」


 ノエルの声が、少し上ずっていた。

 グラントが、書類を整理し始めた。

 何も見ていないという顔をしていた。

 しかし口元が、わずかに動いていた。


(グラントに見られた)


 ライアスは内心でそれだけ思いながら、表情を保った。


「下がっていい」


「かしこまりました、失礼いたします」


 ノエルが一礼して、部屋を出た。

 扉が閉まった。


 グラントがライアスを見た。


「……何でもない」

 ライアスは先に言った。


「はい」

 グラントは静かに答えた。

「かしこまりました」


 その声が、いつもより少し、柔らかかった。



【エリナ視点】


 執務室の扉の隙間から、声が漏れ聞こえて、エリナは足を止めた。


 ライアスの声だった。


「……ノエルの人形は、ないのか」


 エリナは、動けなかった。

 手が、扉の前で止まったままだった。

 数秒、そのままいた。


 それから、静かに手を下ろした。

 踵を返した。

 廊下を歩いた。


 いつも通りの足取りだった。

 表情も、崩れていなかった。

 しかし。


(ノエルの人形)


 その言葉が、頭の中で繰り返された。


(ライアス様が)

(あの事務員の)

(人形を)


 エリナは廊下の窓の前で、少し足を止めた。

 夕暮れの公都が見えた。

 しばらく、それを見ていた。


(……私の人形を、持っていってくださるだろうか)


 その考えが浮かんだ瞬間、エリナは自分でも驚いた。

 そんなことを考える自分が、少し、信じられなかった。


(らしくない)


 エリナは顔を前に向けた。

 また歩き出した。

 いつも通りの足取りで。


 ただ、その頬が、ほんのわずかに、赤かった。



 夜になった。

 屋敷が静まり返った頃、ライアスは一人で外に出た。

 手の中に、小さな人形を持っていた。


 屋敷の裏手に回った。

 石段を上った。

 高台だった。


 夜の公都が、眼下に広がっていた。

 星明かりの中で、無数の灯りが点在していた。


 ライアスはその景色を、静かに見た。

 手の中の人形を、少し見た。


 不格好だった。

 しかし、丁寧に作られていた。

 一針一針。


(ベルナード嬢が、作った)


 ライアスは公都の灯りに目を戻した。


 以前は、この高台に一人で来るたびに、自分の立場を言い聞かせてきた。

 公爵とは何か。

 この街を守るとはどういうことか。


 しかし今夜は、少し違うことを思った。


 戦場から、帰ってくる。

 それだけだった。


 以前は、帰る場所という感覚が、ここには薄かった。

 今は違う。


 未亡人たちが働いている。

 孤児院の子供たちがいる。

 カルロスとイルマとレントがいる。

 レイがいる。

 グラントがいる。


 そして。


(ベルナード嬢が、いる)


 ライアスは人形を、外套の内側のポケットに入れた。

 胸の近くに、収まった。


 夜風が、静かに吹いた。

 公都の灯りが、揺れた。


(必ず、帰ってくる)


 それだけを、静かに思った。

 言葉にはしなかった。

 しかし、これまでで一番、はっきりとそう思った。


 ライアスはしばらく、夜の公都を見ていた。

 それから、静かに石段を下りた。


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