静かな誓い(ライアス視点)
【ライアス視点】
出陣前日だった。
執務室で書類に向かいながら、ライアスは少し、窓の外を見た。
公都の夕暮れが、街並みを橙色に染めていた。
明日、この景色を離れる。
それは以前と変わらない事実だった。
しかし今回は、以前と何かが違った。
エリナが来てから、一週間が経っていた。
ライアスはその一週間を、静かに振り返った。
最初に気づいたのは、厨房からの報告だった。
バルトが珍しく、グラントではなくライアスに直接言いに来た。
「閣下、一つ申し上げてもよろしいですか」
「なんだ」
「フォルセア様が厨房にいらして、ベルナード嬢のことについて色々とおっしゃっていました」
バルトが腕を組んだ。
「俺はこう答えました。ベルナード嬢と一緒にやってきて、うちは良くなったと」
ライアスは黙って聞いていた。
「余計なことを申しましたら申し訳ありませんが、言わずにはおれなかったもので」
「……いや」
ライアスは言った。
「報告に感謝する」
バルトが戻っていった後、ライアスはしばらく、書類に向かえなかった。
(フォルセアが、動いている)
しかし、なぜだ。
フォルセアは副隊長として同行するために来た。
出陣の準備をすれば良いだけのはずだ。
なぜ、公爵家の使用人のところへ行き、事務員のことを話している。
(……令嬢というのは、ああいうことをするものなのか)
貴族の令嬢というのは、近くにいる女性の足を引っ張りたがるものだと、どこかで聞いたことがある。
実感として理解したことはなかったが、今がそういう場面なのかもしれなかった。
(……そういうものか)
釈然としないまま、次にミルダからの報告が入った。
内容は同様だった。
しかしミルダも、バルトと同じ方向の返答をしていた。
ライアスはそれを聞きながら、静かに思った。
(使用人たちが、ベルナード嬢を庇った)
半年ほどで、ノエルが公爵家の中でそれだけの信頼を築いていた。
それは数字でも書類でも表せない、しかし確かな事実だった。
(……流石だ)
ライアスは、それだけ思った。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
のはずだった。
しかし羽ペンを取り直しながら、その言葉が、頭の中でもう一度繰り返された。
(流石だ)
収支の報告の場面も、思い返した。
エリナがノエルに向かって「事務の方がここまで」と言った場面。
ノエルは特に動揺しなかった。
淡々と、事実だけを答えた。
(あの娘は、ああいう場面で崩れない)
補給路の場面も思い返した。
エリナが提案したルートに対して、ノエルが領地内の増水報告を引き出してきた場面。
棚のどこに何があるか、全て把握していた。
それだけではなく、先週スタッフから聞いた個人的な予定まで、頭に入れていた。
(細部まで、全部把握している)
ライアスは書類を置いた。
(フォルセアの動きに対して、ベルナード嬢は一度も声を荒げなかった)
(感情を乱さなかった)
(ただ淡々と、自分の仕事をしていた)
それが、ライアスには。
妙に、頭から離れなかった。
「閣下」
扉をノックして、グラントが入ってきた。
「最終確認の書類が揃いました。ベルナード嬢も参ります」
「わかった」
少しして、ノエルが書類を抱えて入ってきた。
三人で、最終確認を進めた。
グラントへの申し送り、領地管理の引き継ぎ、緊急時の対応手順。
ノエルは一つひとつ、淡々と確認していった。
どこにも、漏れがなかった。
一通り終わったところで、グラントが書類をまとめた。
「以上でございます、閣下」
「ご苦労だった」
ライアスが立ち上がりかけたとき。
「あの」
ノエルが言った。
「なんだ」
「これを」
ノエルが、懐から小さな布包みを取り出した。
机の上に、そっと置いた。
「お守りです」
ライアスは少し、それを見た。
小さな人形だった。
銀色の糸で髪が表現されていた。
淡い色の小さなボタンが、目になっていた。
(……私か)
「手縫いで作りました」
ノエルは続けた。
「不格好ですが、持っていていただければ」
グラントが、静かに微笑んだ。
ライアスは人形を手に取った。
小さかった。
手のひらに収まる大きさだった。
しかし、丁寧に作られていた。
一針一針、丁寧に縫われているのがわかった。
「……ありがとう」
ライアスは言った。
「ご無事でお帰りください」
ライアスは人形を手のひらで包んだ。
そのまま、少し、黙っていた。
黙っていた理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、何か言わなければという気持ちと、何も言えないという気持ちが、同時にあった。
そして。
「……ノエルの人形は、ないのか」
言葉が、出た。
出てから、ライアスは気づいた。
今、何を言ったか。
グラントが、静かに目を細めた。
ノエルが、固まった。
完全に、固まっていた。
動かなかった。
呼吸しているかどうかも、わからなかった。
「……何でもない」
ライアスは言った。
「忘れてくれ」
「は、はい」
ノエルの声が、少し上ずっていた。
グラントが、書類を整理し始めた。
何も見ていないという顔をしていた。
しかし口元が、わずかに動いていた。
(グラントに見られた)
ライアスは内心でそれだけ思いながら、表情を保った。
「下がっていい」
「かしこまりました、失礼いたします」
ノエルが一礼して、部屋を出た。
扉が閉まった。
グラントがライアスを見た。
「……何でもない」
ライアスは先に言った。
「はい」
グラントは静かに答えた。
「かしこまりました」
その声が、いつもより少し、柔らかかった。
◇
【エリナ視点】
執務室の扉の隙間から、声が漏れ聞こえて、エリナは足を止めた。
ライアスの声だった。
「……ノエルの人形は、ないのか」
エリナは、動けなかった。
手が、扉の前で止まったままだった。
数秒、そのままいた。
それから、静かに手を下ろした。
踵を返した。
廊下を歩いた。
いつも通りの足取りだった。
表情も、崩れていなかった。
しかし。
(ノエルの人形)
その言葉が、頭の中で繰り返された。
(ライアス様が)
(あの事務員の)
(人形を)
エリナは廊下の窓の前で、少し足を止めた。
夕暮れの公都が見えた。
しばらく、それを見ていた。
(……私の人形を、持っていってくださるだろうか)
その考えが浮かんだ瞬間、エリナは自分でも驚いた。
そんなことを考える自分が、少し、信じられなかった。
(らしくない)
エリナは顔を前に向けた。
また歩き出した。
いつも通りの足取りで。
ただ、その頬が、ほんのわずかに、赤かった。
◇
夜になった。
屋敷が静まり返った頃、ライアスは一人で外に出た。
手の中に、小さな人形を持っていた。
屋敷の裏手に回った。
石段を上った。
高台だった。
夜の公都が、眼下に広がっていた。
星明かりの中で、無数の灯りが点在していた。
ライアスはその景色を、静かに見た。
手の中の人形を、少し見た。
不格好だった。
しかし、丁寧に作られていた。
一針一針。
(ベルナード嬢が、作った)
ライアスは公都の灯りに目を戻した。
以前は、この高台に一人で来るたびに、自分の立場を言い聞かせてきた。
公爵とは何か。
この街を守るとはどういうことか。
しかし今夜は、少し違うことを思った。
戦場から、帰ってくる。
それだけだった。
以前は、帰る場所という感覚が、ここには薄かった。
今は違う。
未亡人たちが働いている。
孤児院の子供たちがいる。
カルロスとイルマとレントがいる。
レイがいる。
グラントがいる。
そして。
(ベルナード嬢が、いる)
ライアスは人形を、外套の内側のポケットに入れた。
胸の近くに、収まった。
夜風が、静かに吹いた。
公都の灯りが、揺れた。
(必ず、帰ってくる)
それだけを、静かに思った。
言葉にはしなかった。
しかし、これまでで一番、はっきりとそう思った。
ライアスはしばらく、夜の公都を見ていた。
それから、静かに石段を下りた。




