悪役令嬢からの宣戦布告(ノエル視点)
【ノエル視点】
出陣まで、あと二日になった。
ノエルは朝から、引き継ぎの最終確認に追われていた。
各部署への連絡、書類の最終確認、グラントへの申し送り。
やることは山ほどあった。
そんな午前中のことだった。
ノエルが執務室に向かうと、廊下でミルダと鉢合わせた。
「ベルナード嬢、よかった」
ミルダが少し、困った顔をしていた。
「先ほど、子供の預かり部屋の来月のシフト表について、フォルセア様が変更を加えてくださったと」
「変更を?」
「はい。私がベルナード嬢に確認しようとしていたら、フォルセア様が、自分が確認しておくと引き受けてくださって。先ほど返ってきたのですが、内容が少し、変わっていて」
ノエルは書類を受け取った。
見た瞬間、少し止まった。
(変わっている)
シフトの担当者の配置が、複数箇所で変更されていた。
一見すると、整理されているように見えた。
しかし。
(これは違う)
ノエルは頭の中で、元の配置を引き出した。
クラリスとモアナの担当日が入れ替わっていた。
一見すると問題なく見えるが、クラリスには来月の第二週に家族の用事があると、先週本人から聞いていた。
その日に、クラリスのシフトが入っていた。
(故意だ)
(知らなければ気づかない変更だ)
(しかし、これを通してしまえば、クラリスが困る)
(そしてその責任は、確認不足として私に来る)
(証拠は残っていない。
エリナは「確認しておきました」と言っただけだ)
ノエルはミルダに向かって、穏やかに言った。
「こちら、クラリスさんの第二週の予定と重なっているようです。先週、ご本人から伺っていた件です。元の配置に戻した方が良いかと思います」
「あら、そうでしたか」
ミルダが書類を見た。
「気づかないところでした」
「私も先週たまたま聞いていたので」
ノエルは続けた。
「フォルセア様がご確認くださったのはありがたかったのですが、この点だけ修正させていただきます」
「かしこまりました」
ミルダが戻っていった。
ノエルはしばらく、書類を持ったまま廊下に立っていた。
(やはり、エリナは動いている)
(しかし証拠はない)
(エリナはそれを計算した上でやっている)
(ゲームの悪役令嬢は、こういうやり方をする)
そう思いながら歩き出したところで。
「ノエルさん」
声がした。
エリナだった。
廊下の向こうから、上品な笑顔で歩いてきた。
「ちょうどよかった。先ほどのシフト表の件、確認しておきましたわよ」
「はい、拝見しました」
ノエルは答えた。
「ありがとうございます。一点だけ、クラリスさんの第二週の配置が、ご本人の予定と重なっているようでしたので、そちらだけ修正させていただきました」
エリナが、少し止まった。
「……そうでしたか」
「はい。先週たまたまご本人から伺っておりましたので」
「まあ」
エリナが笑顔のまま言った。
「報連相は基本ですわよね。私への連絡が足りていなかったのでは?」
報連相は基本、という言葉を、エリナは上品に言った。
しかし意味は明確だった。
私に情報が来ていなかったのが問題だ、という方向に持っていこうとしていた。
「おっしゃる通りです」
ノエルは答えた。
「ただ、こちらはスタッフの個人的な予定ですので、書類には反映しておりませんでした。今後、共有の範囲については改めて確認いたします」
エリナが、ノエルを見た。
笑顔だった。
しかしその目が、今日は隠しきれていなかった。
(返せない)
(エリナが返せない状況になっている)
(個人的な予定は書類に載っていない。
だからエリナが知らなかったのは当然で、責任を問える話ではない)
(ノエルが元の内容を記憶していた。
ただそれだけだ)
「……そうですか」
エリナは言った。
「気をつけてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
エリナが歩いていった。
ノエルはその背中を見ながら、少し息をついた。
(今日も空振りだった)
(エリナが、今日は少し表情が硬かった)
(苛立ちが、積み上がってきている)
(ゲームのエリナが、そろそろ本格的に動く頃合いだ)
◇
その日の午後のことだった。
ノエルが一人で書類整理をしていると、扉が開いた。
エリナだった。
「少しよろしいですか」
「はい」
エリナが入ってきた。
扉が閉まった。
二人きりだった。
エリナが、部屋を見渡した。
「誰もいませんのね」
「はい。グラントさんは別の部屋におります」
「そう」
エリナが、ノエルを見た。
笑顔だった。
しかし今日の笑顔は、これまでとは少し違った。
薄かった。
(来る)
(ゲームの展開が来る)
ノエルは羽ペンを置いた。
「何かございますか」
「少し、はっきりとお話しさせていただきたくて」
エリナが、静かに言った。
声のトーンが、初めて、完全に変わった。
穏やかではなかった。
落ち着いていたが、その奥に、はっきりとした力があった。
「ノエルさん」
「はい」
「あなたが優秀な方だということは、認めますわ」
認める、という言葉を、エリナははっきり言った。
「公爵家の実務をここまで変えたのは、確かにあなたの功績です」
(褒めた)
(エリナが、はっきり褒めた)
(これは、本当のことを言っている)
(ゲームのエリナも、ヒロインの能力は認めていた。
その上で排除しようとしていた)
「恐れ入ります」
「ただ」
エリナが続けた。
「ライアス様の隣に立つべき人間が誰か、という話は別です」
ライアス様の隣、という言葉だった。
「ライアス様には、相応しい右腕が必要です。戦場でも、政務でも、あらゆる場面で支えられる人間が」
エリナの背筋が、更に伸びた。
「フォルセア家は代々、近衛騎士団長を輩出してきました。文武両道、王国でも指折りの名門です。私はその家に生まれ、剣も政務も、人並み以上にこなせます」
淡々とした言い方だった。
自慢ではなかった。
事実として言っていた。
「ライアス様の右腕として最も相応しいのは、私です」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
(きた)
(ゲームのヒロインへの宣戦布告イベントだ)
(このセリフ、ゲームで見た)
(ほぼそのままだ)
(しかし待って)
ノエルは少し、止まった。
(私、ヒロインじゃないんだけど)
「あなたは事務員として優秀です」
エリナが続けた。
「しかし、それ以上でもそれ以下でもない。ライアス様のそばに立つ資格は、家格も実績も、私の方が上です」
(このセリフも知ってる)
(ゲームで、ヒロインに向かって言うセリフだ)
「邪魔をするつもりなら、容赦しません」
エリナが静かに言った。
笑顔は、もうなかった。
真っ直ぐな目だった。
非常に迫力があった。
ノエルは少し、考えた。
(完全にヒロインへの宣戦布告イベントだ)
(しかし待って)
(もう一度言うが、私、ヒロインじゃない)
(そもそも私がここにいる理由を思い出してほしい)
(ベルナード家の借金返済の代わりに、事務員として雇われてここにいる)
(事務員だ)
(経理と総務のプロだ)
(ライアス様の右腕などという発想が、自分の辞書のどこにも存在しない)
(エリナ様、私に何を宣戦布告しているんですか)
「あの」
ノエルは言った。
「なんですか」
「私、ベルナード家の借金の返済と引き換えに、事務員として雇っていただいた者なのですが」
エリナが、少し止まった。
「……はい?」
「ライアス様の右腕とか、そういったご心配は、少し方向が違う気がするのですが」
エリナが、ノエルを見た。
真っ直ぐな目のままだった。
しかしその目が、想定外のものを見たときの動きをした。
「……借金の形に事務員として来た、という認識なのですか。あなたは」
「はい」
「ライアス様が、あれだけ信頼されているのに?」
「身に余ることだと思っております」
ノエルは答えた。
「ただ、それはそれとして、私の立場は事務員です」
エリナが、しばらく、ノエルを見た。
何かを言いかけた。
しかし言葉が出なかった。
(エリナが、言葉に詰まった)
(壮大な宣戦布告を用意してきたのに、相手が『私は借金返済のための事務員です』と言い出した)
(エリナの想定の中に、このパターンがなかったのだと思う)
(ゲームのヒロインは、このセリフに動揺して傷ついて落ち込んでいた)
(私は動揺しているが、方向が全然違う)
「……まぁ、それならば自分の立場をしっかりと覚えておいてください」
エリナがようやくそれだけ言った。
しかし先ほどより、少しだけ、声の力が抜けていた。
そのまま、扉を開けて出ていった。
扉が閉まった。
ノエルは一人になった。
しばらく、その場に座っていた。
(借金返済のための事務員が、ゲームの悪役令嬢に宣戦布告された)
(なんでこうなるんだ)
天井を見上げた。
(エリナ様、ヒロインは別にいます)
(しかもゲーム本編は始まってすらいません)
(どうか方向を間違えないでください)
机に突っ伏した。
(ただ、一つだけ、はっきりわかったことがある)
(エリナは、私をライアス様のそばにいる存在として見ている)
(借金返済のための事務員を、だ)
(なぜそう見えているのかは、本当にわからない)
(わからないが)
ライアス様のそばに、という言葉が、頭の中でゆっくりと繰り返された。




