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「町外れ」にて

 防風林が屋敷に影を落とす。微かな潮騒に耳を傾け、一番座の天井を眺める。


 雨の日には雨漏りもする旧い家で、少女は横たわっていた。畳の跡のついた腕を掲げ、ゆっくりと指を握り込む。


 何か、夢を見ていたような気がする。半覚醒のまま上体を起こし、辺りを見渡した。


 砕けた珊瑚をまいた庭も、仏桑花の生垣も、変わりはない。


 何と比べて?


 首を傾げて立ち上がる。


「じいちゃん」


 唯一の家族を呼ぶ。


 返事はない。少し耳が遠いから、一度の呼びかけで反応がないのはよくあることだ。諦めて家の中を探すことにする。


 ガスは通っているけどまだ土間の台所を覗き、別棟のトイレを覗き、自室を覗く。祖父の姿は影も形もない。大方、畑か港だろう。


 家を一周して、元の仏間に戻ってくる。海老の剥製や遺影を掛けた欄間を見上げて、ふと気付く。


 額が増えている。


 一番端の真新しい額を眺め、ゆっくりと視線を動かす。知る限り一度も閉めたことのない観音開きの仏壇が、閉ざされていた。


 戸に手をかける。軋む音を立てて開いた隙間から、位牌が覗いた。記された文字を、勝手に目が追う。


 まだ祖霊にもなっていない親戚の名、家族の名、そして。


 誰かの名前。


 弾かれるように庭に駆け出す。焼け付きそうな砂利道の先で、陽炎が踊った。


 正午でもないのに、集落にも畑にも人の気配はない。それでもたった一人の家族を探して、少女は足を動かした。


 最後に辿り着いたのは港だった。船の一隻もついてない波止場には、釣果を狙う猫や海鳥の影すらない。


 何も、何も無い。


「じいちゃん」


 呼ぶ。


 海鳴りが返ってきた。


 悪夢なのだと、少女は気付く。そうであってくれと願って堤防の縁に立った。


 海面を見下ろす。


 暗い外洋の水が揺らぐ。透明なはずなのにただただ青黒い水面が盛り上がった。あ、と小さく声を上げて後ずさる。


 水が弾けて、世界を裏返した。細かな飛沫が頬を滑る。


 再び少女は水中を漂っていた。水面から落ちる光の襞がそよぐ。テレビの中でしか見たことのない、オーロラというものによく似ていた。


 その合間に、見覚えのある魚影を見つける。大きな巨きな人魚は髪を他靡かせ、何故か逆さまに泳いでいる。金属のように輝く鱗が、鰭が、光の中できらきらと散った。天女のように絡まる肉色の羽衣を手繰り寄せるように腕が泳ぐ。


 振り乱した髪の合間から、目が覗く。


 白く濁った瞬膜に覆われていた。


 ふと、どこかで聞いた言葉が脳裏をよぎった。目を合わせてはいけない。酷い目に遭うのだと、誰かが言っていた。でももう遅いのだろう。人魚は瞬膜ごしに、確かに少女を見つめていた。


 腹を水面に向けていた人魚が体を捩る。羽衣が沿うように動き、赤い靄を周囲に滲ませた。


 あ、と少女は泡をいくつか吹く。


 臓物だ。


 水面の光に照らされた羽衣は、裂かれた腹から溢れた腸とも浮き袋ともつかないものだった。自身の臓物を集めて、まとわりつかせ、人魚は尾鰭をくねらせる。


 瞬間、少女の体が重量を増した。力の抜けた腕が地面に投げ出される。


 再び、青い空を見上げていた。仰向けのまま目だけを動かして海産物を探す。こうなるのは何度目だろう。起き上がって、腰回りで蠕動する海産物を抱えあげる。


 先程と同じ、広野のように思えた。変わり映えのしない景色を眺めた後振り返る。


 背後にもまた、荒野が広がっていた。


 あれ?


 自身の居場所を見失う。天に輝く太陽の位置はそう変わってはいない。ただ、あの巨大な鳥と出会った集落の影形がすっかり無くなってしまっていた。


 見えなくなるほど歩いたわけでもない。ただ、ほんの僅かな間気を失ってしまっただけだ。


 もう一度、注意深く周囲を見渡す。風景と微かな足跡から自身が歩いてきた道のりを推測して、元来た道を辿る。


 ふと気がつけば、倒れる前の振動も無くなっていた。穏やかな風が吹き抜け、少女は身震いをする。


 気味が悪い。何かがそっくり抉り取られてしまったようだ。


 歩いても歩いても、村は見えてこない。不安に駆られて少女はもう一度振り返った。元々迷子を恐れているわけでもない。明確な目的地などこの世界にはないからだ。それでも、人の気配すら無いのはどうしようもなく不安になる。


 海産物を抱きしめる。


「ぱふ」

「うわっ」


 突如、海産物が空気を噴き出した。体から離す。


 触覚の生えた頭部のちょうど真裏、真珠母色の腹にぽつりと孔が開いていた。もごもごと収縮するそれは、何かを訴えているように……「口」のように見えた。


「ぎゅ」


 呼気とも鳴き声ともつかない音が漏れる。目が離せないまま、少女はぽかんと口を開けて立ち尽くす。


「ぶ、お」


 段々と、音がはっきり「声」になっていく。しばらく発声練習のように鳴いた後、海産物は黙した。


「……鳴くんだ」


 呟く。そもそも、口をはっきりと見てとったのもこれが初めてだ。感心するようにため息をついて、海産物を抱えなおす。


「聞き取れているようで、なにより」


 突如流暢に海産物は囁いた。


 思わず放り出す。


 たっぷり水の入った風船が落ちたように、海産物は地面に転がった。

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