町外れにて
静かな村を後にする。怯えるような視線を背中に感じなくなった頃、少女はため息をついた。
周囲はひょろりとした木が疎らに生える広野。最初の集落から都に至るまでに見た景色とそう変わらない。これからも来るかもしれない追手のことを考えると、まだまだ距離を取る必要があるだろう。
「飛べるの、ずるいよなあ」
ぽつりと呟く。あのインコはこの広野がどこまで続いているのか把握しているのだろう。それに都で何かあった場合、具体的に言えば少女を捕らえてこいと再度命じられた場合は、彼なら即座に見つけることができるはずだ。
「夜に動いたほうがいいかな」
多分鳥目だし。
ねえ、と海産物に語りかけたところで我にかえった。話しかけられても海産物も困るだろう。
当の海産物には意思を伝える目も口もなく、ただぐったりと腕の中でとろけた。
とりあえず、太陽の昇る方向へ。そう考えて広野を行く。歩きながらインコの言っていたことを思い返した。発言の数々を理解するには、もう少し反復が必要そうだった。
自身の手のひらを見つめる。何の加護もない分、少女は「流出」とやらから免れているらしい。あの、炎を操る少年のように融解する兆候はここに来てから一度も無いはずだ。
何故だろう。
立ち止まり、片手を伸ばす。加護を問われた時のように、意識を集中してみた。何か起きろ。何か起きろ。
海産物が身震いする。集中が切れて、少女は脱力した。何も起きはしない。だがそれはきっと、訝しみはすれど喜ぶべきことなのだろう。
ぼんやりと前方を見つめ、取り留めなくここに来てからのことを思い返す。それ以前の記憶は、反復するには辛すぎる。唯一の肉親の顔と状況を想像すると打ちひしがれて足が止まりそうだった。心配でたまらないのを堪えて、別のことを考えるよう努める。
ここに来る時に食べた四角い謎の食べ物は、何味だったか。
その瞬間、違和感を覚えた。
そうだ。そうだ。何故、空腹ではないのだろう。何故一度も用をたしていないのだろう。何故疲労はしても、足が動くのだろう。
ぞわぞわと背中を何かが駆け上る。何か、体に異変が起きているような気がした。この世界に来る前の体とは違う。育ち盛りなら、今頃空腹で動けなくなっているはずだ。
何故。
力の抜けた腕から海産物が滑り落ちる。ごめん、と囁いて腰をかがめた。
世界が揺れる。
たわむ大地に膝をつき、空を仰ぎ見る。ただただ、青い空。「怪物」の影も形もない。それでも経験上、何かの予兆ではあるはずだ。
広野に隠れ場所があるはずもない。元来た道を振り返り、戸惑う。
どうしよう。
まだ、微かに集落の影は見える。ひとまず海産物を拾い上げ、踵を返して少女は駆けた。
地を蹴るたびに足元が揺らぐ。短くなる波のスパンに冷や汗が噴き出た。今度は何が出現するのだろう。一人と一匹で、逃げ切れるのか。
それに、集落。
もしあの集落に何かがあっても、なす術もなくただ見ているだけしかできないのに。
この異変を察知したとして都のイジンや兵が派遣されるとも思えない。鳥の補填に村の半分を支給するような人たちだ。おそらく、見捨てるのだろう。
心中と脚が齟齬を訴える。もつれて上体が大きく傾いた。
水面が頬を叩く。
ああ、まただ。世界の波間に落ちていく。
夢か現か、幾度目かもわからない流体が体を包む。散乱する光を見つめながら、胸の海産物を抱きしめようとする。
手応えがない。
辺りを見回す。深い青のどこにも、あの極彩色は無かった。そこに沈んでしまったか、あるいは軽すぎて浮かんでしまったのか。パニックのあまり水面に戻ろうともがく。
潮の流れが大きく捻れた。異変を感じて深淵に目を向けた途端、無数の魚影が泳ぎ去る。
泡をこぼし、腕で顔を庇う。瞬く間に緩やかな流れに戻った。
腕を下ろす。
眼前の魚と目が合った。
あ、と呟く。銀色の鱗にハリのある鰭。多分、青魚と呼ばれる部類の魚だ。ものすごく巨大だけど。
恐ろしく永い一瞬だった。魚が口を開くのを眺めながら、不思議と死を覚悟することも走馬灯とやらが過ぎることもなく疑問符を浮かべる。
瞼のない目が蠢き、ぴたりと焦点を止まった。艶やかな角膜に映る自身の間抜けな顔を見つめる。
見つかったのかな。
吸い込まれるように、口中に向かって流れが起きる。暗闇の向こうで鮮紅がちらついた。鰓か何かだろう。
このまま飛び込んでいったら、このおかしな世界から抜け出せるのだろうか。
目の前の魚が救いのように思えて、少女は脱力する。
そうして、「背中側から」呑み込まれた。
真珠母色の襞に包まれ、青魚が見えなくなる。そう思っていたら、次の瞬間には再び水中に排出されていた。
水が濁る。
嗅ぎ慣れた生臭い匂いが煙のように広がる。水面に目を向けると、煌めく光を背景に肉片が沈んできた。血合の見える断面が真横を通り、深淵へと落ちていく。呆然としていると、再び視界の隅から真珠母色の膜が迫ってきた。
柔らかな肉とより濃くなった血の匂いに目を伏せ、少女は意識を手放した。




