冴えない課長(47)のある日
オッサンが異世界転移して、若くなったり強くなったりしない。(しない)
タイトルに『※』のついている話は、ちょっとソワソワするパートとなっております。
詳しくは活動報告をご覧ください。
※R15の範疇を越えることはありません。
カタカタカタ、軽快なタイプ音が響く。
広い事務室。並ぶデスクと事務用PC。
壁にかけられた時計が示す時刻は10時。
と言っても窓から覗く景色は暗い。
午後10時。当然定時はとうに過ぎた社内に、残っている人数はそれほど多くはなかった。
「課長」
声をかけられて、壮年の男――三葉孝則は静かに顔を上げた。
スクエアフレームの眼鏡のレンズが、PCデスクトップの光を反射して白く光った。
「……、あの、計画書、終わりました」
わずかに気圧されたようにぐっと顎を引いた彼の部下は、少し申し訳なさそうにしつつも書類の束を彼のデスクの上へ置いた。
「うん、ありがとうございます。……ええ、もう夜も遅いですから、気をつけてお帰りになってくださいね」
提出された書類を手に取り、パラパラっと流すようにめくって中身を確認した彼は、わずかに眉を顰めた。
しかし何かを言うでもなく、ゆっくりした動作で頷きほとんど表情も変えずに少しだけ首を傾げた。
それを見た部下は大袈裟なほど大きく息を吐き、もう一度ペコリと頭を下げて鞄を掴んで足早に部屋を出て行った。
彼の行動を皮切りにしてか、部屋に残っていた何人かが同じように課長の机の前に進み出て、書類を渡して出て行った。
「……うーん……、これは明日でも良いとして……これとこれは、今日中に確認しておかないと明日の会議までに間に合いませんね……」
一人残された広い事務室で。提出された書類を期日順に分け、ポマードで撫で付けていた髪の毛をクシャリと掻きながら、彼は小さく独りごちた。
上げていた前髪がパラパラと額へかかる。
他の社員がいる時は身なりをキチンとしようと心がけているが、もう他に誰もいないのならば髪の毛くらい崩しても構うまい。
この会社はブラックというほどの労働環境ではないと三葉は思う。
残業代は正しく出るし、有給も必要に応じて取れる。
しかし三葉は他の社員が作成した書類やプロジェクトを確認して割り振りをする仕事があるため、定時になっても彼等より先に帰るという選択はほぼできない。
もう少し早く書類を上げてくれないかな、と心の底で祈ることはあるが、あまり急かしても良くないと思い、自分のできる範囲の仕事を黙々とこなしながら提出を待つ日々である。
「うぅん、このくらいの報告書を上げるのにこんな時間までかかるなんて……もう少し細かく指示を出すべきでしょうか。いや、あまりうるさく言って、やる気が削がれても困るかな。ともかく必要な訂正だけして、良いところは少し褒めて……良いところ、……うーん、『よく頑張って仕上げたね』……?」
それくらいしか褒められるところが無い程度には、上げられてくる報告書も計画書も出来が悪い。
正直、三葉が修正する範囲が多過ぎて、もう一から研修を受け直して欲しいと願ってしまうほどだ。
せめて小まめに指示を仰いでくれれば修正の指示も出せるのだが、定時をこんなに過ぎた時間に提出された書類を当日中に直せと言えるものでもない。
三葉は気付いていなかった。
常に身嗜みを崩さない寡黙な上司が怖くて、中途半端な報告書を手に提出も帰宅も出来ず右往左往している部下が少なからずいることだとか、彼の本心からの丁寧な対応は鋭く刺さる皮肉のように受け取られていることだとか。
寡黙な彼を『ボーッとして大した仕事もしないのに遅くまで残ってて、部下が帰ろうとすると無言で睨んでくる上司』だと言っている者が一定数いることだとか。
記憶力の良い彼にとっての『出来て当然』の業務が大半の部下にとっては苦痛であることだとか。
真面目過ぎる彼の勤務態度が部署のブラック化の一因であることだとか。
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その日も部下が帰ってからたっぷり1時間は仕事をして、三葉はようやく会社を後にした。
ただの確認程度ならばそれほど掛からないかと思ったのだが、いくつかの書類は煩雑な訂正を余儀なくされたのだった。
正直、三葉自身が最初から書類を仕上げた方が速いのではと思わぬでもないが、後進の育成というのは会社にとって重要なものである。
「明日は、9時から会議で……準備はあの子に頼むとして、……あの子、8時半には来られますかね……。僕は企画部と打ち合わせをして、えーと、デザイン部でサンプルを用意しているはずだから、それも誰に取ってきてもらおうか……、皆、僕が声をかけると嫌そうにしますからねぇ……、上司から声をかけられるなんて、そりゃあ嫌なのは分かりますが、社会人として態度に出すのは失礼なんですけどねぇ」
部下達に仕事の仕方を教えてやりたい気持ちはあるが、なにしろ三葉自身も毎日朝から晩まで働き家に帰れば家事をして、心を砕いてやれるだけの余裕は無かった。
仕事終わりの疲れた頭であれこれと悩みながら歩いていたのが悪かったのか。
無意識ながらも前方は見ていたはずだったというのに、突然足元から、がくんっと崩れた三葉であった。
「ふぇっ!?」
普段なら上げないような間抜けな声を上げながら手を突こうとした彼は、地面があるはずの場所に手をつくことができず、そのまま前へ転がるように落ちた。
「え゛ぇぇっ!?」
そこには空洞ができていた。
暗がりでよくは見えなかったが、回転する視界の端には確かに亀裂のようなものが映ったように思った。
不安定な視界の中で落ちる先を探そうとするが、底は見えない。ただの暗闇がある。
浮遊感。内臓の浮かび上がるような不快な重力加速度。落ちる。自由落下。紐なしバンジー。状況を把握しようとする脳裏に、その場に相応しそうな単語が駆け抜けては消えた。
しかしそれも長くは続かず。
だぱんっ!
「ゔぇっ!!」
全身を地面に叩きつけられたと思った。
一瞬、血塗れで横たわる自分の死体を想像した三葉だったが、予想に反して三葉の体はそのまま地面に沈んだ。
――ごぼり。
「――……っ、……ぶはっ!!」
肌を刺すような冷たい感触に、『それ』が地面ではなく水である事に気付いた自分自身の脳に感謝するべきだったかも知れない。
そして、咄嗟にもがかず、全身の力を抜くべきだと判断した事にも三葉は感謝するべきだっただろう。
おかげで彼は思い込みでショック死する事もなく、水の底へ迷い込む事もなく、奇跡的に水面の上に顔を出す事ができた。
「なっ、なにが……」
何が起きた、と思いながら周囲を見回すが、辺り一面が真っ暗で何も見えない。かろうじて、自分の伸ばす手が見えるだろうか。いや、それすら気のせいかも知れない。
ここはどこなのか。
確かに先ほどまで街灯の燈る歩道を歩いていたはずなのに。
自分を捕まえるこの闇色の液体が本当に水かどうかすら、三葉には分からない。
水だとして、岸はどこだ。何も見えない。どうすれば良いのか。
「……」
必死にばちゃばちゃと音を立てて立ち泳ぎをしながら、どうにか周囲を見渡す。
すると目が慣れたのか、なんとなく遠くに岸のようなものが見えた気がした。
もしかしたら、違うかも知れない。しかし、他に縋れるものもない。
何しろスーツは水を吸って腕と脚にまとわりつき、三葉の少ない体力を消費していく。
(あれは岸……、あれはきっと岸だ)
そこには地面があって、きっとこの冷たい水の中よりはずっとマシな状況なのだと、祈るように自分に言い聞かせるように、何度も心中で唱えて重たい腕と脚をバタつかせた。
お話に興味を持っていただきありがとうございます。
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