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誰も説明してくれない

書いてるだけで、さむい

「ーー……は、っげほ、げほっ、……はぁ、……」


 必死に泳ぎ、幸運にも岸らしいものに辿り着いた三葉は、もがくうちに飲んでしまった水を咳き込むように吐き出し、どうにか息を整えようとしていた。


「ーー……は、ぁ……」


 冷たい水を吸ったスーツが重たく身体にへばりつく。疲労と寒気で全身ががくがくと震えた。

 それでも、這い上がったその場所が土と草の匂いのする、少なくとも自分の認識できる地面であることに、安堵していた。


 こういう時の定石は、服を脱いで火をおこす事だろうか、と頭の隅で考えはしたが、三葉は火の起こし方など知らない。


「……さむい」


 せめて、とスーツの上着を1度脱ぎ、シワが寄るのも構わずぎゅっと絞ってもう一度着た。

 体が重たいのは緩和されたが、寒さに関しては悪化したような気もする。

 肩からかけていた書類鞄は、水の中であまりの重さに自ら捨てた。

 眼鏡だけは胸ポケットに押し込んでどうにか死守したが、水滴まみれのそれが彼の視界をどれほど補助できているかは疑問だった。


「どういう……ことなんだ……」


 水から少し離れた場所に全身を抱きしめるように体育座りで身を縮めながら、三葉はキョロキョロと周囲を見回した。

しかし、周囲に何があるかは殆ど分からない。

 空を見上げればわずかに星か何かの小さな煌めきはある。

しかし、それが地表に到達してはいなかった。


 そして三葉が溺れていた水場は向こう岸が見えないほど広く(もっとも暗くてそう遠くまでは分からないのだが)その水場全体を囲むように森ができているようだった。

 街中を歩いていたら、突如森の中の池かなにかに落下する。

それが常軌を逸した状況だということは確かだった。


 もしも彼が流行りの小説などを娯楽として読むタイプの人間だったとしたら、あるいはこれだけの情報でも『世界の亀裂に落ちるタイプの異世界転移』だの『チート』だの『ステータス』だの思いついたかも知れない。


 しかし、ここ数年仕事をするか家事をして寝るか、という生活だった彼には自分の置かれた状況を把握できる情報があまりにも少なかった。

 かろうじて彼の知識の中から現状に名前をつけるならば、『神隠しに遭った』というのが適当だろうか。


(ここはあの世ということでしょうか、あるいは、妖怪の跋扈する別の世界とか、……まさかこのまま凍え続ける地獄、とか……)


 寒さと不安に身を縮め、年甲斐もなく滲む視界にくしゃりと眉を寄せて膝に顔を埋めた。

 既に嫁に行ってしまった娘のことが脳裏に過ぎった。

 大してマメに連絡を取るような仲でもなかったが、それでも実の父親が行方不明になどなれば、心配の一つもするだろう。


(せめてできるだけ長い間、連絡が行かなければ良いのですが……いや、神隠しならば、親しかった人も皆、僕の事は忘れてしまうんでしょうか)


 以前読んだ怪談では、神隠しに遭うと周囲の人は名前も存在も何もかも思い出せなくなるというような話が書いてあった。


(本当にそうなら、悲しませずに済むのですが)


 自分の思考回路が、徐々に現実的なものから乖離していることには気付いていた。

 しかし現状を打破する方法に思考を巡らせられるほど、三葉にはもはや体力が残っていなかった。

 寒気と疲労と空腹感との混ざり合った絶望感に身を浸しながら、三葉孝則はとうとう意識を放棄してしまった。

はやく愛されおじさんになって欲しい

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