第8話 ターゲットロックオン
「後方に敵影反応あり!」
「来やがったか……!」
助手席で小型のノートパソコンを睨みつける小畑の声につられて、うしろを振り返る。
静まり返る車内に、息を飲む音だけが響いた気がした。
鳴りやまない警報。
早鐘を打つ鼓動。
冷たいなにかが背すじを伝い、手のひらにじんわりと汗がにじむ。
脳天からサー……っ、と血の気が引き、体じゅうの体温が一気に下がった。
無意識に浅くなる呼吸に、こわばった全身が小さく震える。
知らず知らずのうちに、体は警笛を鳴らしている。
ここにいてはダメだ。
危険だ。
本能がそう訴えていた。
「なっ、なんだよあれ!!」
「おいおいおいおいマジかよ!?」
「やべぇよ! やべぇって!!」
誰かの上げた声を皮切りに、車内は一瞬にして混乱に包まれる。
シュウ自身も、その目で捉えた状況を理解しきれずにいる。
「なんなんだよっ、あれ……!」
マイクロバスのはるか後方に、『それ』はいた。
道幅いっぱいにうごめく黒、黒、黒――。
波打つように揺れる闇黒は、いましがたバスが通りすぎてきたばかりの道路を瓦礫もろとも飲み込んでいく。
無残にも踏みにじられた地面が、低いうなりを上げていた。
「……やっこさんのお出ましか」
ミラー越しの光景に、キョウヤはぽつりとこぼした。
『敵影、なおも接近中。本件は輸送を最優先に、プランβに移行します』
「了解」
片耳に装着したインカムからは、状況報告と作戦指示を伝える小畑の声とともに、耳ざわりな警報が絶えず鳴り響いている。
インカム越しに聞こえる慌ただしい喧騒に、キョウヤはちらりとバスの様子を確認した。
「うーわ……あいつらパニックじゃん」
車内を右往左往する人影に、キョウヤはおもわず苦笑した。
「……まあ仕方ないか」
組織に属するがゆえに見慣れてしまった光景も、つい先ほどまで一般人として生活してきた若者たちからすれば未知の恐怖そのもの。
『あれ』はいったいなんなのか。
混乱を極めている若者たちにたずねたところで、明確な答えは望めないだろう。
なにが起きているのか。
この先どうなるのか。
それはあまりにも想定外のできごとで、突如として突きつけられた現実に、若者たちはただ身をゆだねるしかない。
「ハル、いけそうか?」
インカムのスイッチを切り替えて、キョウヤはハルに問いかける。
だが彼女からの返答はない。
ハルはバスから顔をそむけるようにして、キョウヤの背中に張りついていた。
「おーい、ハルさんやーい」
「…………」
「そんなにぎゅってされると、俺、苦しーんだけど?」
軽い調子で言いながら、キョウヤは自身の腰にまわされた細い腕をぺちぺちと軽く叩いた。
それを合図にしたかのように、ようやくハルが顔を上げた。
スッとほどいた手を、今度はキョウヤの肩に乗せる。
彼の広い背中に押しつけていた体を離せば、二人の間を冷たい風が吹き抜けた。
名残惜しさを感じる間もなく、それは一瞬で互いのぬくもりを吹き飛ばしてしまう。
ハルはステップに足をかけたまま静かに腰を上げると、まっすぐに前を見据えた。
「……プランβ、了解しました」
ひとつに結んだ髪の束が、風に乗ってうしろに流れる。
そこに、先ほどまでの不安げな彼女はいない。
「キョウヤ、あとで迎えにきてね」
「おう、任せとけ。気をつけてな」
「うん、いってきます」
プライベート回線を通して鼓膜を揺らすキョウヤの声に、ハルは小さくうなずき微笑みをこぼした。
そうして、体重を乗せていたステップからシートの上に右足を上げる。
キョウヤの体を支えにして、ハルは軸足にぐんっ、と力を込めた。
全身をバネのようにしならせ、ハルの体が宙を舞う。
ハルは空中で後方に一回転すると、すとん、と地面に着地した。
ゆっくりと体の向きを変える。ふわりとワンピースの裾がひらめいた。
「ターゲット、捕捉……」
ゴーグルの奥、漆黒の瞳が、獲物を狙うかのように妖しく煌めく。
彼女は口元だけで妖艶に笑った。
一方バスの車内では、ハルの行動が若者たちの動揺をますます大きくさせていた。
「バイクの女の子が落ちたぞ!?」
「うそだろ!? やべぇよ!!」
「どうすんだよ!! どうすんだよっ!?」
シュウ自身も、目の前で起こった光景に目を疑った。
「……落ちたんじゃねぇ。アイツ、自分から飛び降りたんだ……!」
なぜ彼女はそんな行動に出たのか。
考えてみてもまったく検討もつかないが、その先の未来は想像するにたやすい。
あの場にひとり残ったところで、彼女にいったい、なにができるというのか。
「なに考えてんだよ……! あのバカっ」
「シュウ……? きゃあっ」
腕にしがみつくエリカを振りほどいて、シュウは通路の若者たちを押しのけて運転席へと駆け寄った。
「いますぐ引き返せ! 見捨てる気か!?」
すべてを飲み込まんとする勢いで迫りくる闇黒の波。
個々の姿を捉えられずとも、あれがよくないものだということは、一般人であるシュウでも本能的にわかる。
「あれが敵なんじゃねぇのかよ!? それなのに!」
それなのに、ハルひとりを残して速度を上げたバスは、みるみる彼女から遠ざかっていく。
彼女を乗せていたはずのバイクは、いつの間にか先導するようにマイクロバスの前方を走行していた。
自然とシュウは声を荒らげる。
「心配せんでも大丈夫だ」
「ハルさんは、『スペランツァ』ですから」
「…………は?」
「全員座れー。シートベルトしてしっかり掴まっとけよー。でないと、ケガするぞ」
真木と小畑はこの状況がさも当たり前であるかのようにさらりとそう言って、さらにアクセルを踏み込んだ。




