第41話 交換条件
◇◇◇
「アキトってさ、あんまり怒ったりしないよね」
「ハル! あんた、だまされてるわ!」
電気ケトルのスイッチがカチリと切れるのと同時に、ホノカはわずかに腰を浮かせて両手をテーブルについた。
からっぽのティーカップが、カチャンと振動して音を立てる。
「ホノカ危ないー」
「ごめん」
短く返したホノカが腰を落ち着けると、ハルは電気ケトルからカップに湯を注いだ。
湯気に乗って、ふわりと紅茶のかおりが立ちのぼる。
「だって、キョウヤみたいに大きい声出したりとかしないし。なんか、いっつも穏やかなかんじ?」
常日頃から微笑みを浮かべている印象しかないアキトの怒ったところなど、ハルには想像がつかなかった。
たとえ腹が立つようなことがあったとしても、彼ならにこにこと受け流しそうなイメージである。
「だめよハル。だまされちゃだめ」
だが、どうやら現実はそうではないらしい。
苦笑いを浮かべたホノカが、小さく首を振りながら視線をずらした。
「目が、笑ってないのよ。なんてゆーの? 眼光で殺す! みた、い……な……っ!?」
視線を戻して力説するホノカの声が、どういうわけか尻すぼみになっていく。
小さく息を飲んだ彼女の視線は目の前のハルではなく、彼女の後方に釘づけになっていた。
ホノカの表情がうっすらと青ざめているように見えるのは、きっと気のせいではない。
「僕が、どうしたって? ホノカ」
満面の笑みを浮かべたアキトがそこにいた。
「あ、アキトおかえりー。あのね、ホノカがねー」
硬直したままのホノカを放置して、ハルが無邪気にそう切り出す。
ホノカはハッ、と我に返ると、慌ててハルの腕を引き彼女の口をふさいだ。
ハルがなにを言おうとしていたかなど考えなくともわかる。アキト本人に知られでもしたら、それこそ眼光で射殺されかねない。
いきなりの仕打ちにジタバタと抵抗するハルにお構いなしに、ホノカは引きつった笑みをアキトに向けた。
「なななななんでもないわよ! ね! ハル!」
「ん"~!!」
「ふーん、そう。眼光でねぇ、へぇー?」
その瞬間、ホノカは声にならない悲鳴を上げた。
「ぷはっ……そういえば、アキト仕事は? 休憩?」
「そそそそうよ、こんな時間に戻ってくるなんて珍しいじゃない!」
ようやくホノカの腕から解放されたハルは、肺いっぱいに酸素を取り込みながらアキトを見上げた。
いつもならまだマリアにこき使われている時間帯である。
「あー……それが……」
とたんにアキトの表情が曇る。
いつも穏やかな表情を浮かべているはずの彼が、いつになく真剣な面持ちでハルとホノカを見つめていた。
自然と彼女たちも、アキトから発せられる次の言葉に身構える。
「……ちょっと、まずいことになった」
「どーいうこと?」
「なにかあったの?」
アキトは静かに息を吐く。
そうしてひと呼吸ほど目を伏せると、再度二人に視線を合わせた。
「実は――」
突如として外部回線から入った通信に、司令室内は騒然としていた。すぐに通信電波の逆探知がおこなわれたが、妨害されているらしく発信源は不明。
手がかりになるような情報は、今のところなにも引き出せていない。
『あたくしのこと、覚えてらっしゃる? 阿内所長』
モニターの向こうで、女がにこりと微笑んだ。
名指しされたユキノリをおもわず振り返る職員たちがわずかにざわめく。
だが、本人はいたって冷静に状況を把握していた。
「秋穂、ミズホか……」
ユキノリの返答に、女はうれしそうに目を細めた。
『あなたなら覚えていてくれると思っていたわ。あんなことがあったんですもの。忘れたくとも忘れられないわよね』
「用件を言いなさい」
『ふぅ……つれない人』
饒舌に言葉を発するミズホに対して、ユキノリは感情を表に出すこともなく淡々と対応する。
その様子をつまらないとばかりにため息をついたミズホは、ひと呼吸置いて再びモニター越しにユキノリを見つめた。
『おつかいに行かせた子がいるでしょう? 彼、あんまりにも素直なものだから、あたくしが連れて帰っちゃったわ。ふふっ……食べてもいいかしら?』
その声色はひどく愉しそうで、喉を鳴らしながら彼女は真っ赤な唇に舌先を這わせた。
「あなたそれって……!」
「……シュウのことか」
『シュウ、っていうのね。あたくし、年下の男の子は大好きよ』
クスクスと笑うミズホの声が、スピーカー越しに司令室内に響く。
うろたえる職員たちを尻目に、ユキノリは無言のまま変わらずモニターを注視していた。
「シュウを返しなさい! あなたにはなんの利益にもならないでしょう!?」
笑みを消したユキノリのかわりに、マリアが画面越しのミズホに対峙する。
その声色の刺々しい響きに、ミズホはうっすらと微笑みを浮かべて視線を流した。
『相変わらず厳しいのね、マリア……そうねぇ、返してあげてもいいけど、条件があるわ』
「……条件、ですって?」
マリアの細く整った眉が、怪訝そうに形をゆがめていた。
『ええそう。取引は、嫌いじゃないでしょう?』
ミズホから発せられた言葉は有無を言わせぬ音だった。
断ることなど許さないとでも言うように、細められたまなざしがまっすぐに画面の向こうからユキノリへと突き刺さる。
「……なにが望みだ」
ようやく口をひらいたユキノリの返答に、ミズホは満足そうに鼻で笑った。
『紫福ハル。彼女と交換、っていうのはどうかしら?』
「なぜ」
『なぜ? 紫福ハルが欲しいから。それ以外に理由が必要?』
それは到底受け入れがたい条件である。
司令室中がみな一様に奥歯を噛んだ。
『あら、なにを迷う必要があるの? 簡単なことでしょう?』
「…………」
『それとも、あたくしたちが怖い? そうよね。だってあなたたちは、あたくしたちを』
「条件はそれだけか」
ミズホの言葉を遮ったユキノリの、淡々とした声が凍てついていた。
『ふふっ、賢い選択を、期待しているわ』
女からの通信は一方的に断たれた。
一部始終を目の当たりにしていた室内は静寂に包まれる。
マリアまでもが、黙ってユキノリを見ていた。
まだ半人前とはいえ、シュウは組織の一員である。『見捨てる』などという選択肢は毛頭ない。
だがハルも組織の、否、人類にとって欠かすことはできない。
どちらか一方など選べるはずがない。
どうするべきか。
みなユキノリの判断を静かに待っていた。




