第35話 新月
ドアノブに手をかけようとしたハルを、シュウは強引に自分のほうへと引き寄せていた。
バランスを崩したハルが息を飲むのと同時に、彼は小さな背中に腕をまわす。
「っや、だ……! 離してっ……!」
「そんな顔してるやつをほっとけるかよ!!」
シュウの胸を押し返して抵抗するハルの頭を押さえ込み、そのまま彼女を腕の中に抱き込む。
抵抗した反動でハルの端末が床に落下した。
「なんでだよ……!」
「っ……」
弱々しく吐き出された吐息が、ハルの耳元をかすめた。
それは、これまでに彼から聞いたことがないような響きで。
「なんで、全部ひとりでかかえ込もうとすんだよ……!」
「……っ」
下唇を噛みしめるハルに気づかぬまま、一瞬息をつまらせたシュウがわずかに腕の力を強くした。彼の体を押し返そうとするハルにかまわず、二人の体はさらに密着度を高める。
「もう見てられねぇんだよ……! 無理していろんなもんかかえて、しんどい思いばっかして!」
シュウの言葉に、ハルは両手を握りしめた。
チクチクと痛みを訴える心に、目頭の熱がぶり返す。喉の奥が引きつって、体が無意識に酸素を求めていた。
「……もっと頼れよ、ハル。お前がかかえてるもん、オレが全部受け止めるから……だから、もっと甘えろよ……」
気づけばハルの瞳からは、堰を切ったように涙があふれていた。止めようと思えば思うほど苦しさが増していく。
もはや抵抗する余裕もなく、ハルはシュウにいざなわれるままにその場に腰を下ろした。
床に転がった端末からは、初期設定のままの着信音が鳴り続けていた。
ドアの前で立ちつくすキョウヤは、中途半端に上げたまま行き場のなくなった手を握りしめた。無意識にこぼした舌打ちが、さらに気持ちを苛立たせる。
(あー、くそっ……)
室内から漏れ聞こえる二人のやりとりに、否応なしに耳をそばだてている自分が情けなくて仕方がなかった。
キョウヤは乱暴にこぶしをポケットにつっこむ。
なにも聞かなかったふりをして、この場を立ち去るのが一番いい。
「あんた、そんなとこでなにやってんの? ハルいた?」
背中にかけられた声に振り返れば、ホノカが端末を片手に廊下の向こうから駆け寄ってくる。
「あんたの部屋にいないって言うから、さっきから電話してんだけど、あの子ぜんぜん出ないのよ」
そう言って再び端末を操作するホノカだったが、ドアの向こうから聞こえてきた着信音に、彼女はすぐに呼び出し音を止めた。
「……いるじゃない」
問い詰めるようなホノカの視線に、キョウヤはなにも言い返せない。
だが沈黙の中かすかに漏れ聞こえたハルの嗚咽が、ホノカの表情を一変させた。
彼女は弾かれたようにドアを睨みつけると、息もつかずにすばやくノックをして入室を求めた。
迷惑そうにドアのすきまから顔を覗かせたシュウに、ホノカは「邪魔するわよ」とひと言告げて強引にドアを全開にする。
「お、おいっ……!」
「ハル、ユッキーが呼んでるわ。立てる?」
シュウの存在を無視して、ホノカの視線はまっすぐにハルへと向けられる。
ハルは両手で顔を覆ったまま、小さく肩を震わせていた。
「キョウヤ、ハルを連れてって」
「待てよ! そんな無理やり……!」
「これは命令よ。あんたの意見は聞いてない」
「っ……!」
反論しようとしたシュウを、ホノカは手をかざして制する。
所長命令だと言われてしまえば、さすがにシュウも従わざるを得ない。
それがたとえ、ハルを連れ出すための嘘だったとしても。
「……キョウヤ」
早くしろと言わんばかりに名を呼ぶホノカに、キョウヤは小さく息を吸った。
進路を明け渡したシュウの鋭い視線に気づかないふりをして、彼は背を丸めるハルの前にしゃがみこむ。
「……ハル?」
ひかえめなキョウヤの呼びかけに、ハルはゆっくりと顔を見せた。
涙でにじむ瞳が、とたんに安堵の色に染まる。
「きょ、やっ……!」
すがるような声とともに伸ばされる手。
気づけばキョウヤは、その手が届くより先に彼女の体を抱き寄せていた。ひどくなる嗚咽ごと、震える体をやさしく包み込む。
「ハル、帰ろう?」
包帯だらけの体をいたわるように、キョウヤはゆっくりとハルを横抱きにした。
一瞬交わったシュウの視線が、なにか言いたげに細められている。
ハルをかかえて部屋を出ていくキョウヤの姿を、シュウは首だけで追っていた。
「お邪魔したわね」
床に置き去りにされたハルの端末を拾い上げて、ホノカはシュウの視線を遮るようにぴしゃりとドアを閉めた。
廊下を進み、三人はエレベーターで地上へ出る。
外はすっかり夜の帳が落ちて、住居棟への渡り廊下はひんやりと冷たい風がそよいでいた。
涼やかな虫の鳴き声に交じって、時おりハルが鼻をすする音が聞こえる。
無言のままキョウヤの部屋の前まで到着し、ようやくホノカが深々と息をついた。
「ちゃんと、守りなさいよ?」
「……わかってる」
まっすぐに見返すキョウヤに、ホノカは肩の力を抜いてわずかに口元をゆるめた。そうして彼女は、いまだに顔を上げられないハルの頭をふわりとなでる。
「ハルのこと、お願いね」
「ああ……」
「ユッキーとマリアには、あたしから連絡しとく。こっちのことは任せといて」
短く返事をして部屋へと入っていくキョウヤの背を見送って、ホノカは閉まったスライドドアにコツンとひたいを押し当てた。
「……本当に、頼んだわよ……」
祈るように両手を握り合わせて、ホノカはしぼり出すようにつぶやいた。




